しっちゃかめっちゃか
風は操縦する井上に対して左斜め後ろから吹いていた。
「ストールターン 1 1/4 ロールアップ 3/4 ロールダウン」
後ろに立った静香がメモを読み上げる。横風に対応してやや機首を風上に向け、水平飛行をしてきた「ビーナス」が、センターで機首を上げた。
井上は機体が上を向くにつれてエルロンで……機首を風上に向けていた所為でズレてしまった……翼の傾きを直した。胴体が垂直になる手前で昇降舵を戻し、風に押される分を相殺して飛行経路が垂直になるようにする。
垂直のポーズを見せると1 1/4 ロール。「ビーナス」は機体の上面をパイロットに……審査員にも……見せた。途端に「ビーナス」は離れるように風に流される。
「(……っく……)」
井上がエレベータースティックを僅かに手前に引いた。「ビーナス」は機首を風上に向けたことにより、それ以上風に流されずさらに上昇する。
ここで元のコースに戻そうと大きく操作すれば、蛇行したとして減点を増やしてしまう。悔しくても我慢するしかない。
ロール前のポーズと同じ距離を上昇した「ビーナス」はスロットルを絞り、ストールターンをした。真下を向いた機体は、上昇中の姿勢が残り風に流される方向を向いている。仕方なく井上は大きくエレベーターを引いた。
「(……くそっ!……)」
更なる減点に井上は心の中で悪態を吐いた。だが悔やんでいる暇は無い。垂直降下のポーズを見せると 3/4 ロールをした。
するとまた「ウインドシャー」があったのだろう、機体が近づいてくる。井上はラダーを使ってコースを直そうとするが、他の舵に比べて比較的効きの悪いラダーではなかなか修正が終わらない。結局水平飛行に移行するまで井上はラダーを使ったままになってしまった。
この演技、せいぜい6点……いや水平飛行が揺れていたことにより5点だろうか。シード選手としては不甲斐ない点であり、悔しさに井上は歯を食いしばった。
「……はぁ……あの井上がこれか?……」
「……どんだけ複雑な風が吹いてるんだ……」
「……上空は横風が強そうだな……」
「……低空の乱気流はどうなんだ?……」
「……流石は井上だぜ……乱気流は押さえ込んでる……」
「……そうは言っても……これじゃ点が出ないぜ……」
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目慣らしは、所詮審査員の為のフライトであり、パイロットの気合の入れ方は出場選手とは違ってる。選手の中で一番に飛ばす井上のフライトは……シード選手という事もあって……参考にするため選手全員が見ていた。
不貞腐れた様に、井上がテーブルの上に肘をついて顎を乗せていた。横に座った静香は、かける言葉も見つからず顔を伏せている。井上の演技は風に翻弄され、散々なものになったのだ。
「井上君よう、今日は仕方が無いぜ。 この風じゃ、誰も点が出ないさ」
眞鍋が前に座り……どこで入れてきたのか……コーヒーの入ったカップをテーブルに置いた。
「まあ、今日の事はサッサと忘れる事だな。 俺の奢りだ。 結構美味いぜ」
「そうですよ。 もう終わったんだから」
博美もカップを持ってテーブルに付いた。
「静香さんもどうぞ。 これ美味しいですよ」
博美の差し出すカップにはポタージュスープが入っていた。
「岡山さんがキャンプ道具を持ってきてるんです。 貰ってきちゃいました」
「……っじゃ、奢りって……眞鍋さん、金払ってないじゃないですか。 いただきます」
博美の言葉を聞いて、井上がコーヒーに手を伸ばした。
「何だなんだ。 奢りは嫌だってか?」
「なんか……眞鍋さんの奢りって……危ない感じがするじゃないですか。 おっ! 美味い」
ほっ、と井上が息を吐く。
「本当、これ美味しいわ。 冷製スープなのね」
静香の顔にも笑みが現れた。
「んふふ……元気になってくれましたね。 もう終わったんですから、明日に賭けましょうよ」
二人の様子に、博美もニッコリ笑った。
中国四国ブロックの仲間内では井上の次は眞鍋の番だが、その間に他のブロックの選手が8人も演技をする。昨日と同じように、博美はヤスオカ模型の展示ブースに来ていた。
「……売却済って貼ってあるー」
後ろの壁に掛けている「ミネルバ」に手書きの札が貼り付けてあった。
「ああ、あれからも何人も欲しいって来たんだ。 一々断るのが面倒になって……」
「……すみません」
新土居の言葉がカウンターの前に現れた男に遮られた。
「……そこの「ミネルバ」ですが……」
「あー 申し訳ない。 これはもう買い手が付いているんです……」
すかさず新土居が断りを入れる。
「……そ、そうですか……」
「注文を頂ければ……そうですねー 今なら2ヶ月で用意出来ますが」
工場の予定表を見て、新土居が告げた。
「……それじゃ、注文します。 えーっと、それと同じとして値段は?」
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「(……売れちゃった…… っと、メールだ)」
商売を始めた新土居の邪魔にならないように、後ろに下がった博美のジーンズのポケットから、軽快な音楽が流れ始めた。
「(……樫内さん? なんだろう……)」
携帯電話を引っ張り出すと、博美はメールを開いた。
{こっちはいい天気。 そっちは如何? 調子は良いかしら…………}
この週末、徳島で行われているテニスの全国高専大会に行っているはずだが、樫内も暇なのだろう……長々とした文章がスクリーンからはみ出すように続いてる。
「(……はぁ……打つのメンドクサイ……)」
博美は携帯電話でメールを打つのが苦手なのだ。
「(……電話しちゃえ……)」
返信するのを諦め、博美は携帯電話の発信ボタンを押した。
『……うん、そーだねー やっぱりね……うん、そうそう……遠慮しちゃうよねー……』
「博美ちゃん。 博美ちゃんってば……」
展示ブースの奥に置いてある椅子に座って電話をしている博美を、新土居が呼んだ。
『……ちょ、ちょっと待って』
「はい。 新土居さん、何でしょう?」
電話に断りを入れると、博美は顔を上げた。
「そろそろ眞鍋さんの出番じゃないかな? 見に行くんじゃないの?」
博美がブースに来て、彼是1時間は経っている。順調に競技が進んでいれば、あと二人で眞鍋の出番だろう。
「えっ! もうそんなに経ってるんですか?」
「ああ、電話に夢中で気が付かなかったんだろうね。 ほら……」
新土居がスマホの画面に出ている時刻を指差した。
「ほんとだ……」
『ゴメン、樫内さん。 仲間の人の出番が来ちゃった。 見に行きたいから切るね……うんうん……それじゃ頑張ってね……うん、ありがと。 頑張るから、っじゃ』
博美は急いで電話を切った。
博美がピットに帰ると、眞鍋は既にエンジン始動ピットに移動した後だった。
「博美ちゃん、遅かったね」
ピットに置いてある椅子には井上が座っていた。
「すみません。 電話をしてたら、遅くなってしまいました、って言うか……進行、早くないですか?」
ピットを離れていた時間から考えると、一人抜かした程度早く競技が進んでいる。
「ああ、風が強いからな。 どうしても、スロットルを開け気味になるんだ」
追い風で飛ぶときと同じ速度で向かい風を飛ぶには、当然エンジンパワーが必要になる。演技をするときの速度はどうしても速くなるのだ。その為、演技時間が短くなってしまう。
「あっ……そ、そうなんですねー」
「……ま、博美ちゃんには理解しにくいかもしれないけど……」
追い風でもゆっくり飛ばす事の出来る博美は、これまでそんな事を考えた事がなかったのだ。
「と、言う訳で……どうだ? 風の様子は……」
あまり理解してない様子の博美を見て、それ以上の説明を諦め井上が尋ねた。
「えっとー ……」
言われて、博美は空を見た。今はシードの青葉が演技をしている。
「……全体はそんなに変わってないです。 んー でも天気が良いからでしょうね、サーマルが彼方此方にあります。 それが風に乗って飛んでくるので、演技フレームあたりは「しっちゃかめっちゃか」になってます。 風船がいっぱい飛んでると思ってください」
確かに、シード選手の青葉なのに……水平飛行が上がったり下がったり……とても演技が出来ているとは思えない飛行をしている。
「そうか……青葉にしては酷いな、と思ってたんだ。 どうやらこのラウンドは捨てたみたいだな」
最後の演技「アバランシュ」を適当に飛び、青葉の複葉機は着陸コースに入った。
競技は進んで昼頃……審査員の昼食のために30分の休憩が挟まれた。
「……安岡さん、今日は演技を捨てる選手が多いですね……」
本部テント内の隔離された席……選手と不用意に接触しないように……で安岡の隣に座った遠藤が息を吐いた。
「……そうだね。 本当なら、こう言う日にこそ力を発揮するべきなんだろうが……最近の選手は諦めが早いようだ……」
話しながら、安岡は遠くを見るように目を細めた。
「……僕達が現役の頃は、こんな天気の時ほど進んで練習したものだが……」
「あの妖精はどうなんですか? 練習してますか?」
安岡を挟んで遠藤の反対側に座っている奥山が尋ねる。
「博美ちゃんか……あの娘は凄いよ。 彼女にとっての空は、僕達の地面と同じなんじゃないかな? つまり僕達が地面の凹凸を一目で理解できるように、彼女は空の様子が判るんだ。 だから風が強いから練習しよう、って事じゃなくて……どう言えばいいかな……風が吹いてるのをそのまま受け取るんだ。 うーん……難しいな。 まあ、簡単に言えば……練習しなくても対処出来るっていう事かな」
「……所謂天才ってやつか……それに対して本田は努力家かな?」
それまで黙って聞いていた浅田が口を挟んだ。その視線はエンジン始動ピットの前に座り込んで瞑想している本田を捕らえている。
「……あれは相当飛ばし込んだんだろう。 昨日の飛びは素晴らしかった。 ああも迷い無く舵が打てるのは、他に居ないだろうな」
「いやいや、博美ちゃんも努力してるよ。 特に「ミネルバⅡ」を落としてからは、人が変わったように頑張ってたね」
何もせずに博美が此処に来ているかのような浅田の言葉に、安岡が釘を指した。
「それに、本田君も天賦の才がある」
安岡の言葉を聞いた審査員全員が向ける視線を受けて……しかしそれに気が付かず、本田は集中力を高めるために瞑想を続けていた。




