1470点と1450点
「1450点かー 凄い点だな」
本部から貰ってきた博美のジャッジペーパーの写しを新土居が見ている。展示ブースを森山に預けて、チームヤスオカのピットに来たのだ。
「本当……俺なんか1280点だぜ」
井上が自分のジャッジペーパーをテーブルに投げた。
「……俺は1198点だ……って言うかだ、博美ちゃんの点って、平均8以上だぜ……どうなってんだ? 選手権でだぜ」
眞鍋が新土居から博美のジャッジペーパーを受け取り、自分の物と見比べた。国内最高峰の日本選手権はジャッジの目も厳しくて、ローカル大会なら見逃すような僅かなミスも、しっかり減点されるのだ。
「……この調子だと、博美ちゃんがトップじゃないか?」
「……でも……まだ本田さんが居ます。 きっといい点を出しますよ……」
少し離れたエンジン始動ピットで準備をしている本田を、博美は見ていた。
複葉機を前にして、本田は地面に座り込み目を閉じていた。
「(……俺は出来る。 どんなに気流が悪くても反応して制御出来るんだ……)」
自己暗示の言葉を繰り返す本田は飛行機を変えるリスクを取らず、複葉機で乱気流を乗り切る事に決めていた。
薄曇りだった空はだんだんと雲が厚くなり、太陽の場所は分からなくなってきていた。そして、本田は知らなかったが……サーマルは消えていた。
静かな排気音で、ナリタ製の複葉機が演技をしている。
気合の入った本田の操縦は素晴らしく……風が無いのも手伝って……マニューバを「ピシピシ」と決めていく。水平はあくまで水平に、垂直はきちんと立ち、ポイントロールのポーズは規定通り。
まるで空に製図器を使って設計図を描いているように、正確な図形が描かれている。
「……凄え……」
「……なんちゅう集中力だ……」
「……ドンだけ練習してきたんだ……舵に迷いが無い……」
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博美の時と同じように集まったギャラリーからため息が漏れる。
「(……舵を探らない……一発で決めてる。 無駄なエンジンパワーも使わない……)」
博美も自分のピットでフライトを見守っていた。
「(……凄かった……)」
本田の演技が終わり、飛行場中は時が止まったように静かになっていた。博美もピットに立ったままボンヤリしている。
「……おい、しっかりしろ」
後ろに立った加藤が肩を叩いた。
「あ! 康煕くん……」
博美が肩に乗った手に自分の手を重ねた。
「……凄かったねー あんなに飛行機って飛ぶんだ……」
「……そうだな……でもな、博美も遜色無く飛んでるんだぜ……」
加藤の言う通り……外から見れば……博美の演技も正確で無駄な舵も使わない。そういう所は本田と博美は似ていると言える。
「ありがと、康煕くんがそう言ってくれると自信が湧いてくるね……」
博美が振り返って加藤を見た時、やや時間に遅れながらも、関東の選手の飛行機が離陸していった。
競技は進み、今は八角が演技をしている。去年見た時と同じように「かちっ」とした飛び方で、他の選手とは毛色が違っていた。
「(……去年と同じだ……けど……少し迷いが有るみたい……)」
しかし博美は八角の演技に、微妙な違和感を感じていた。宙返りは素晴らしいが、ロール中に高度変化が有るようだ。
「(……機体の調整が上手くいってないのかも……)」
ロールが安定してないので、水平飛行時に少し傾いてしまっていた。
日が傾き、少し赤みがかってきた頃、今日最後の選手……シードの鈴村……が演技をしていた。しかし……
「……本田は1470点……」
「……とんでもない点数だな……」
「……しかしよう……ジャッジからしたら、あれでも減点するところが有るんだな……」
「……妖精ちゃんが1450点か……初出場で2位だぜ……」
「……3位は今のところ1330点の八角かよ……しかし点差が凄いな……」
「……嗚呼……時代は若者か……」
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ほとんどの選手は演技を見ずに本部テントに掲げられている速報を見て話しをしていた。
「博美ちゃん。 2位だって……」
そしてその中にチームヤスオカの連中も入っていた。
「……うん……本田さんは流石だよね。 やっぱり僕より上に来たんだ」
掲示板から目を離さない森山に、こちらも掲示板を見たまま博美が答える。
「……今日は正直、僕にとって最高のフライトだったと思う……」
博美はすぐ向こうで掲示板を見ている本田に目を向けた。本田の表情は、特に喜んでいる様子も無い。
「……それなのに本田さんは上回ってきた。 今はとても敵わないや……」
「…………」
森山が見下ろした博美は微笑んでいた。
夕方の5時に選手権の第1ラウンドが終わった。最後の選手も博美の点数を上回らず、博美の順位は2位のままだった。
「初出場で2位なんだ、十分じゃないか」
ホテルに向かう車を運転しながら新土居が言う。
「予選は通過すれば良いんだから。 8位以内で良いんだよ」
新土居の言う通り、予選は通過すればいい。決勝に予選の成績は反映されず、順位は単純にフライト順を決めるだけに使われる。
「……そうですね……」
相槌を打つ博美だが、何となく沈んでいる。
「博美。 本当に今日が最高のフライトか? お前の真価は風の日に発揮されるんじゃないか?」
隣に座った加藤が博美の頭に手を乗せた。
「確かに無風のときは本田に負けるかもしれない。 でも、風が吹けば……気流が乱れるほど、博美は有利になるだろう? そしてだ……」
加藤がスマホの画面を見せた。そこには関東の天気図が映っている。
「……ほら……前線が近づいている。 今晩雨が降って、明日は風が吹くぜ」
「……康煕君。 天気図が読めるの?」
確かに前線が在るのは博美にも分かる。しかし、何故風が吹くと分かるのだろう……
「……親父が船に乗ってるだろう。 それで俺が小さい頃から、親父に天気図の読み方を教え込まれたんだ。 と言うか、親父が天気図を調べているのを、俺が勝手に横から覗き込んで覚えちまった。 門前の小僧って言う奴だな」
加藤が苦笑を浮べた。
「……そうなんだ……んじゃ、明日は風が吹く?」
博美が加藤の顔を覗き込む。
「ああ、必ず吹く」
「……よっし! 明日は「ミネルバⅡ」だ。 今晩、しっかり整備するぜ」
助手席の森山が気合を入れた。
「(……1470点と1450点か……今日の俺は完璧だった……今はあれ以上の演技は出来ない……)」
本田は自宅に向けて車を運転していた。
「(……それなのに……たった20点しか差がつかなかった……20点と言ったら、僅か1パーセントの差だ……)」
雨の「ぽつぽつ」降り始めた高速を車は走っている。
「(……明日は風が吹きそうだ……)」
日暮れまではもう少しあるはずだが、ヘッドライトを点けた車が「ちらほら」見受けられる。本田はライトのスイッチを入れた。
「(……あいつは風に強い……どうしてだか、あいつは風が読めるんだ……)」
間欠動作のワイパーがフロントガラスを拭う。
「(……くそっ! 勝てない……勝てるイメージが見えない……)」
先行車のテールランプが滲んで見えていた。
外から聞こえる「ザワザワ」とした葉擦れの音に博美は目を覚ました。
「(……雨は止んだかな?)」
博美が昨夜10時頃にベッドに入った時は、割と強く雨が窓を叩いていたのだが……
博美はベッドから降りると浴衣の乱れを直し、カーテンの隙間から外を覗いた。太陽は出たばかりで、濡れた道路が「キラキラ」光っている。そして街路樹は風に吹かれて揺れていた。
「(……ん……止んでる。 それに風が吹いてる……康煕君の言った通りだ)」
カーテンを直すと、博美は再びベッドに寝転んだ。アラームが鳴るまで、束の間の二度寝である……
雨に濡れた飛行場の芝生が陽光に輝いていた。本部テントに掲げられた吹流しは真横になって尻尾を振っている。
演技開始予定時まで1時間以上あるが、選手は皆な集まっていた。
『滑走路の状態が不良のため、開始時間を遅らせます。 改めて開始時間は放送でお知らせします』
「……スタートが遅くなるんだって……だいじょうぶかなぁ」
本部からの放送を聞いた博美が加藤を見た。
「……そうだな……日暮れの時間から考えると、1時間以上遅くなるとヤバイな……」
40人の選手が演技をするには、およそ8時間掛かる。今の時期、6時頃に太陽が沈む事を考えれば、スタートは10時が限界だ。
「大丈夫だろ。 気温は高いし、風も吹いてる。 おそらくチョットの遅れでスタート出来るさ」
今日は1番でフライトする井上が、整備スタンド上の「ビーナス」を点検しながら二人に言った。
目慣らしで飛んでいるナリタ製のスタント機が風に吹かれて「ぐらぐら」揺れている。
「……ぅおい! あれ見ろよ……」
「……気流が乱れてるな……」
「……おいおい……真っ直ぐ上がらないぜ……」
「……風の向きと強さが高度で変わってるぜ……」
「……今日は捨てラウンドか?……」
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フライトを見ている選手や助手の戸惑う言葉が辺りを流れていた。
「博美……如何思う? 飛ばせそうか?」
空を見つめてる博美に加藤が声を掛けた。
「……ん……大丈夫。 そこまで複雑な流れじゃ無いよ。 シャー(風向きの変化)も大してない」
ふう、と博美は息を吐いて加藤を見た。
「……それに、僕の出番は最後から二人目だもんね。 風の様子も変わるよね」
「ま、それもそうだ。 しかし井上さんは不運だな。 今日はトップバッターだぜ、キツイよな」
加藤の見るエンジン始動ピットには、井上の「ビーナス」が置かれている。そして井上は何時ものようにチェアーに座って目を閉じていた。
「そうだねー 風の大まかな具合は教えてあげたんだけど……」
博美もエンジン始動ピットに視線を向けた。
「……あの集中力で何とかするんじゃないかな?」
なんとも他人事の様な話しぶりだが仕方が無い……助手として登録していない以上、フライト中に後ろに立つわけにはいかないのだから……
「静香さんも居るんだから、きっと集中力も上がってるよ」
その静香はポニーテールにした髪を風に遊ばせて、井上の側に立っていた。
「(……僕に助手をさせないからだよ……べー、っだ)」
嫉妬と言う訳では無いのだろうが、何となく面白くない博美だった。




