クビ
台風の過ぎ去った翌朝、井上は始発のバスと路面電車を乗り継いで海上保安部に来た。台風一過とはよく言ったもので、風は吹いているが空は澄み渡っている。
門をくぐり、井上が駐車場の隅に止めたレガシィの所に来ると、ガタイの良い男が立っていた。
「よお。 久しぶりだな、井上……」
男は井上を認めると声をかけてきた。
「……おはようございます……お久しぶりです、部長」
男は海上保安部の部長だった。マスコミの前では猫を被っていたようで、今は組織の長らしく貫禄がある。
「……昨日は、だいぶ派手にやってくれたようだな……」
部長は一歩踏み出した。
「……シュペルピューマを無断で飛ばし、閉鎖中の空港に強行着陸……」
「……ま、まあ……緊急でしたから……それにシュペルピューマのライセンスは持ってますし……」
井上は後ずさる。
「……ほお? 海上保安部をやめた奴がね……」
ゆっくりと部長は首を振った。
「……まったく……問題ばかり起こす奴が、やっと居なくなったと思ってたのによ……」
「部長。 お言葉ですが、俺は人を殺した事は無いはずです」
井上は顔を上げ、まっすぐ部長の目を見ている。
「……問題ってのは、そんな事じゃないんだ。 社会にはルールってもんがあるだろ? お前はそれを悉く破ってるんだよ……」
ふう、と部長がため息を吐いた。
「……でもな……たしかにお前はすごい奴さ。 これまで何度も不可能を可能にしてきた……」
ここまで話したところで部長が破顔一笑した。
「……と、いう訳で……海上保安部に帰らないか? そうしたら航空局から守ってやるぜ」
「何が「と、いう訳で」ですか。 部長が笑うと怖いんですから……しかし航空局ですか……何か言ってきました?」
井上が顔をしかめた。下っ端の者にとって、航空局の役人はやっかいな相手なのだ。
「重大インシデントだとさ……管制官がチクりやがった……」
「……そうですか……まあ、仕方がないですね……」
今度は井上がため息を吐く番だ。そんな物の当事者などになったら……前科者とは言わないが……この先肩身が狭くなるだろう。
「すぐには調査に来ないだろう。 それでも猶予は一週間も無いだろうな」
「……分かりました。 とりあえず病院に行ってきます」
今日は当直日だ、軽く頭を下げ井上はレガシィに乗り込んだ。
井上は田中総合病院のヘリポート脇にあるプレハブ作りの事務所に来た。まだ当直時間には早いが整備士の山下も来ていて、ヘリポートでドクヘリの点検をしている。
「おはよう」
井上もヘリポートに出て、ドクヘリのコックピットに座った。
「おはようございます」
それを見て山下も乗り込んできた。
「始めるか……」
井上の言葉に頷くと、山下がチェックリストを読み上げ始めた。
「……OK……」
それに答えながら井上がスイッチや計器を確認する。
「……良いな……よし、次だ……」
井上はエンジンを始動した。今日もドクヘリEC135のエンジンは快調に回り始め、井上は計器をチェックする。
「……OKだ」
エンジンを止め、井上はヘリから降りた。これで、いつホットラインが鳴っても大丈夫だ。
井上は事務所に歩いていく。
『ヘリパイの井上さん、院長室までおいでください』
井上が事務所に帰ったところで院内放送が聞こえた。
「(……ん? 何だってんだ?……)」
首を捻りながら井上は事務所を出て行った。
『……部長、先ほどの話……受けたいんですが……』
一時間後、井上は病院の喫茶室で電話をしていた。
『……そうか、来る気になったか。 すぐに手続きをしよう……今から来るか? と言うかだ、ドクヘリの方は大丈夫なのか?』
『……今しがたクビになりました……』
院長室には難しい顔の院長と、井上の勤め先……井上は病院に直接勤めていたのではなく、民間の航空会社から派遣されていた……の社長が居た。そこで初めて井上は知らされたのだが、昨日、井上が当直の交代を頼んだパイロットが病院に来るのが遅かったのだ。つまりパイロットが不在の時間帯があった事が病院側から問題にされ、井上が責任を取る事になったのだった。
『……そうか……まあ、間が悪かったって事だな。 どうせお前の事だ、自分一人で被ったんだろ? そんなところがお前の不器用なところだな……』
部長の声は心なし優しい。
『……まあ、そんな所です……それじゃ、これから行きます』
「直也さん!」
井上がスマホをポケットに入れた時、静香が喫茶室に入ってきた。
「よお、当直明けだったか?」
井上と結婚した後も、静香は看護師を続けている。
「何をしてるんですか? ドクヘリのパイロット、クビだって聞いたんですけど」
静香は井上の前に座った。
「ああ……そういう事になった……」
「……どうして……どうして直也さんがやめなきゃならないんですか? 直也さんのお陰で6人の人が助かったんですよ……どうして……」
静香の目に涙が光る。
「すまんな……俺の所為だ」
井上が頭を下げた。
「……海上保安部の部長が俺を呼んでるんだ。 これから行ってくる。 静香は帰っていてくれるか?」
「……海上保安部? なんの用事なの?」
「雇ってくれるらしい。 手続きしてくる。 夕食は帰って食べるから」
静香の肩を「ぽんっ」と叩いて、井上は喫茶室を出て行った。
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大栃に向かって、物部川を左に見ながら明美の運転する車が走っている。助手席には何時ものように博美が……何時もと違って白のTシャツに膝上15センチのボーダースカートというフェミニンな格好だが……座り、後部座席にはセーラーブラウスにデニムのキュロットと、これまた元気っ子を具現化したような光が乗っている。
「……ちゃんと日焼け止めは塗ってるようね……」
明美は、何気なく脚を組み替えた博美のスカートから覗く太ももに、視線を走らせた。テニス部の練習で脚を出しているにしては、去年より太ももは白くて綺麗だ。
「うん、いつも気を付けてるよ……」
「……私も塗ってるよー」
博美の言葉を光の声が遮った。
「でも焼けちゃうんだなー」
キュロットから出ているのは日焼けした健康的な太ももだった。
「あなたは遊びに行くときにも脚を出してるから……博美は普段はジーンズだもの、その辺で違うんでしょうね……」
車はダム湖に掛かる赤いトラス橋に差し掛かった。
「さあ、もうすぐ付くわよ。 今年は明菜も来るから、楽しみね」
トラス橋を渡り終え、車は左に曲がっていった。
大栃に来た時には何時も車を止める場所に白いヴィッツが在った。
「これ……明菜叔母さんの車だよね。 もう来てるんだ」
博美がナンバーの徳島というに気が付いた。明美の妹である明菜は徳島の方に嫁いでいる。
「そうみたい。 車、新しくしたみたいね」
明美はそのヴィッツの後ろに車を止めた。
「はーー やっと着いたー」
明美がパーキングブレーキを掛けるのももどかしげに、光がドアを開けて外に出た。
「……おーい 光ちゃーん」
小道を駆け下りてくる少女……年齢的には少女だが体格はガッチリしていて、けして「少」ではない……が大声で呼んでいる。
「あっ! なつねえ……」
それに気が付き、光は走って行った。
「光ちゃん、久しぶりー 去年、うちが受験で大栃に来れなかったから……」
「ほんとほんと、久しぶりだねー なつねえ、また大きくなった?」
二人は小道の途中で、手を取り合って飛び跳ねている。
「光ー あんたも手伝いなさい」
車の横で明美が呼んだ。
「はーい」
「明美伯母さん、おひさしぶりです」
光と一緒に道まで降りた少女が挨拶をする。
「菜摘ちゃん、久しぶりねー 高校はどう? 上手く行ってる?」
少女は明美の妹の子供で、光や博美の従姉妹になる。博美の一つ下なので、今は高校一年生だ。去年は入試だと言って、大栃に来なかった。
「はい、上手く行ってます。 部活も調子いいです」
彼女は小学校から柔道をしていて、なかなか強いらしい。
「あの……ひろにいは何処? 一緒に来たんでしょ……」
「……ねえ、ドアの前に立ってると出られないよ……」
菜摘の声に車の中からの声が重なった。
「あ! ごめんごめん」
明美が車の傍から離れる。
「……ふう……やっと出られた……」
助手席から運転席に移った博美がドアを開けて顔を出した。
「あ……なっちゃん、ひさしぶり……」
「……え、ええーーー な、なんでHIROMIがいるのーーーーー!」
博美の声をかき消して、菜摘の叫びが向かいの山に木霊した。
「……そうだったんだー HIROMIはひろにいだったのね」
菜摘を先頭に博美と光が小道を上がっていく。
「なつねえはお兄ちゃんがお姉ちゃんになったのを知らなかったの?」
光の疑問は尤もだろう。こうなってから1年半は経っている。親戚中に広まっていても良いはずだ。
「うーーん……聞いた事があったような、無かったような……」
博美たちのバッグを左右の肩に掛けて、菜摘は首を傾げた。
「でもでも……聞いてたとしても、ひろにいがこんなに綺麗な女の子になってるなんて想像もできないよ」
菜摘が振り返って博美を見た。
「綺麗な足だよねー 光ちゃんもそうだけど……」
菜摘は視線を落とした。
「二人とも足が出せていいなー うちは恥ずかしくてパンツばっかり」
菜摘はブルーのTシャツに白のガウチョパンツを穿いている。柔道をしている所為で、アザが彼方此方にあるのだった。
母屋の玄関を「ガラガラ」と菜摘が開ける。
「お母さん、HIROMIが来たよ」
「え!? HIROMI?」
慌てて明菜が玄関に出てきた。
「……えっと……HIROMIさん? モデルの……」
菜摘の横に立っている博美を見て、明菜は「ポカン」としている。
「おうおう、よう来たね。 はよう上がりや」
その後ろから明子の声がした。
「え……お母さん。 この子知ってるの?」
「何言いゆうぜよ。 博美やないか」
振り返った明菜に明子が言った。
「え、うそ……この子HIROMIでしょ。 ほら、最近有名なモデルよ……」
「明菜叔母さん。 博美です。 おひさしぶりです」
混乱を鎮めようと博美が挨拶をする。
「叔母さん、おひさしぶりー」
「明菜、ひさしぶりねー 元気だった?」
光と明美もそれに続いた。
「……うそ……HIROMIって博美君だったの!?」
明菜はペタンと框に座り込んでしまった。




