無茶だ!
「……さてと……」
舵輪を握ったまま、船長は皆が避難して静かになったブリッジを見回した。
「(……慣れた場所だが……寂しいもんだな……)」
夜の当直時でもブリッジに一人で居る事はなかった。
「ドン・ドン・ドン……」
ブリッジの上から足音が聞こえてきて、船長は天井を見上げた。ワザと踏み鳴らしているのだろう、鉄で出来ているブリッジがそんなに音を伝えるはずが無い。
「(……機関長だな……)」
視線を船尾方向に戻しながら「ふっ」と船長が口角を上げた。
「(……アイツらしいな。 分かったよ。 ちゃんと脱出するさ……)」
少しして、船が波に持ち上げられた時、
「ドン!」
一際強く足音がして、そして何も聞こえなくなった。
「(……行ったか?……さあ、俺も行くか……)」
船長は操作盤に手を伸ばし、オートパイロットのスイッチを入れた。ヘディングホールド……船首の方角を固定する機能だ。
「(……何分持つかな?……)」
所詮は機械である。こんなに翻弄される波の中では制御出来ないだろう。
「……サラバだ……」
船長は舵輪から手を離し、ドアに向かった。
船長が階段を登りブリッジの上に来た。上を見ると大きなヘリコプターが空中で止まっている。既に機関長はヘリコプターに乗り込んだのだろう、姿は見えなかった。
「貴方で最後ですか?」
一人、レスキュー隊員が待っている。
「ああ、俺で最後だ。 もう誰も残っていない」
「私と二人でヘリコプターに上がります」
レスキュー隊員が船長に救命具を取り付け、波のタイミングを計りだした。船尾からの波により船が持ち上がった時、
「さあ、上がります」
レスキュー隊員は船長に言い、
『巻いてくれ』
無線に向かって話した。船長の足がブリッジから浮き上がる。
「(……い、意外と早く上がるんだな……)」
早く引き上げないと、次に船が持ち上がった時に危険なのだ。
船長が下を見ると波の間に船が落ちていくところだった。最下点で船尾が次の波に呑まれ、船の向きがゆっくりと変わる。船尾が浮き上がってくると、シーソーの反対側のように船首が海中に没した。向きは変わり続け、遂に船の向きは波に平行になる。船長が見つめるうちに、第8司丸はゆっくりと傾き、裏返しになった。
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高専の寮の事務室。博美は加藤の隣に座ってテレビを見ていた。テレビには高知海上保安部の責任者であろう、制服姿の人物が数人写っている。
『……現在、大型の巡視船が現場に向かっています……』
中央に座った部長……名札が置いてある……が説明を始めた。
『……救難要請から2時間たってますが、まだ着かないんですか?』
テレビ局の記者から質問が飛ぶ。
『……強風と高波のため、巡視船の速度が出ません。 全速力で向かっていますが、あと30分は掛かるだろうと……』
『……間に合うんですか?』
次々に質問が出る。
『……正直……分かりません。 ただ、救難信号は受信しています。 少なくても沈没はしてない筈です……』
説明する部長も苦しそうだ。
『……信号を受信している限り、沈没はしてないんですね?』
『……はい。 少なくてもアンテナは海面上に出ている筈です』
『……ヘリコプターは使わないんですか? ヘリコプターなら直ぐに着くんじゃないですか』
先ほどまでと違う記者が声を上げた。
『……ヘリコプター……』
『……馬鹿じゃないか……』
『……あれ何処の記者だ……』
『……素人を入れるなよ……』
・
・
・
とたんに画面の外が「ざわざわ」としはじめた。
『……現在の気象状態ではヘリコプターは飛べません……』
呆れたように部長が話し始めた。
「……そうだよね……ヘリコプターって風に弱いもんね……」
小さく呟きながら、博美は加藤の腕にしがみ付いた。
「……でも……井上さんなら……井上さんなら飛ばせるかもしれない……」
「……博美……いくら井上さんでも、この天気じゃ無理だ……」
加藤はテレビを見つめたままだ。
「……きっと大丈夫。 俺の親父は特別だ。 こんな事で、死んだりしない……」
『……信号が……救難信号が途絶えました……』
突然テレビ画面の横から制服姿の人物が現れ、中央の部長に言うのをマイクが拾った。
『……救難信号が途絶えたって……それは、さっきの説明からして、沈没したと?』
その意味が分かり、記者の声も強張っている。
「……うそ、うそでしょ……イヤーーーーー!」
事務室の中に博美の悲鳴が響いた。
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後部のドアが閉まったのを確認して、井上は「シュペルピューマ」を上昇させた。少しづつ機首を右に回す。いきなり旋回すると尾翼が追い風を受けて、LTE(テールローター機能喪失)を起こす可能性があるのだ。井上は機首を回しながら右にバンクを掛け、風をメインローターで受けて加速させた。高度2000フィートに達した時「シュペルピューマ」は高知に向けて対地速度200ノットで飛んでいた。
「……発光信号を打ってくれ」
水平飛行に入ってすぐに巡視船を認めたところで井上が横田に言った。
「はい。 無線ではないのですか?」
何故不便なモールス信号、などを使うのだろうと横田は首を傾げた。
「無線だといろいろ面倒だ。 ぱぱっ、と打って行っちまおう」
「はい。 内容は?」
井上の考えが理解できた横田がライトを用意した。
「全員収容。 船は転覆。 空港に向かう。 以上だ」
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巡視船のブリッジの中は悲愴な雰囲気が漂っていた。つい先ほど第8司丸からの電波が消えたのだ。ブリッジの中に居るのは全員船乗りであり、その事が何を表すかを知っている。例え救難ボートに乗り移れたとしてもこの波の中、無事だというのは奇跡に近いだろう。そういう事まで分かっているのだ。
「前方「シュペルピューマ」が向かってきます!」
そんな中、自分の役目を果たしていた前方の見張り員が声を上げた。追い風に乗っているのだろう、すごい勢いで「シュペルピューマ」が大きく見えてくる。その機首が眩く明滅を始めた。
「発光信号確認。 記録します」
すぐにメモ用紙を開き、通信員がペンを走らせる。
「なんで無線を使わないんだ! 逃げる気だな」
艦長が「シュペルピューマ」を睨んだ。
「記録しました。 内容は……全員収容。 船は転覆。 空港に向かう。 以上です」
冷静な声で通信員が読み上げた。
「そうか……助けたか。 転覆したせいで救難信号が消えたんだな」
艦長の声から緊張が取れた。
「本部に連絡。 船は転覆すれど、乗員は全員ヘリコプターに収容。 ヘリコプターは高知空港に向かう。 本船は転覆現場に向かい、監視する」
第8司丸がこのまま沈んでしまえば良いが、もし裏返しで浮かんだままだと危険な漂流物となる。海上保安部としては見失う訳にはいかないのだ。巡視船の乗組員達は帰るわけにはいかず、これからも波に揺られる事になった。
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記者会見の現場には重苦しい空気が漂っていた。百戦錬磨の記者たちも言葉を失っている。
「しつれいします「とさ」より連絡です」
5分も沈黙が続いただろうか、ドアが開き制服の男がメモを持って入ってきた。
「…………」
無言で部長がそれを受け取り
「……な、なんだって……」
一目見て目を見開いた。
「なんですか?」
記者が尋ねる。
「……第8司丸の乗組員は、全員ヘリコプターが収容したようです」
メモを持つ部長の手が震えていた。
「……えっ! 全員助かったのですか? 詳しく教えてください……」
「……ヘリコプターは飛ばないんじゃなかったんですか?……」
「……いつ乗組員は帰ってきますか?……」
・
・
・
記者会見の会場は大変な騒ぎになった。
寮の事務室。加藤の腕に縋り付いていた博美が、テレビの音声を聞いて顔を上げた。
「……みんな助かった? ねえ、康煕くん……そう言ったよね……」
体を捻るようにして加藤を見上げる。
「……ああ……そう言った。 ヘリコプターが助けたようだ……」
「……よかった……よかった」
博美が加藤の腕を離して、椅子にまっすぐ座った。
「……ねえ、ヘリコプターって風に弱いよね。 どこに着陸すると思う?」
テレビでは記者と部長のやり取りが続いている。
「……そうだな……開けた場所がいいだろう。 やっぱり空港かな……」
部長はまだヘリコプターの行き先を明かさないが、飛行機に慣れた者は想像がつく。
「僕もそう思う。 ねえ、見に行ってみない?」
博美は顔をテレビから加藤に向けた。
「……あ、雨だぜ……ずぶ濡れになる」
慣れたつもりでも、美人に見つめられると「ドキドキ」するらしい。
「でも……早く無事な姿見たいよ……」
「見たいのは俺も一緒だ……行くか?」
頷く博美を見て、加藤は立ち上がった。二人は事務室に居た事務員にお礼を言って外に出る。
「傘なんか役に立たないだろうな。 バイクに乗るときのレインコートを着ていこう」
「うん。 持って来る」
加藤の判断に頷き、博美は部屋に走っていった。
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『高知タワー JA691A(ジュリエット アルファ シックス ナイナー ワン アルファ)シュペルピューマ』
横田が高知空港の管制塔を無線で呼び出している。公共の空港に着陸するのだから、許可を受けなければならないのだ。
『高知タワー JA691Aシュペルピューマ』
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『JA691A 高知タワー ゴーアヘッド』
何度かのコールで、やっと管制塔からの返事が来た。
「……寝てやがったな……」
横で聞いていた井上が呟いた。
『高知タワー JA691A 日本語で通信します 現在15マイル南を飛行中 着陸します』
横田は普通どおりに着陸をリクエストする。
『JA691A 高知タワー 現在高知空港は閉鎖中 着陸はできません』
ところが思ってもみなかった返答が返ってきた。横田が答えに詰まり、井上を見る。
「俺に代われ」
井上がマイクのスイッチを入れた。
『高知タワー 691A この天候の中、行くところなんて無い 着陸させろ』
台風の影響は四国どころか関西や中国地方まで及んでいる。そんな遠くまでヘリコプターは飛べないのだ。
『691A 高知タワー 滑走路に対して45度で40ノットの風が吹いている 着陸許可は出せない』
しかし管制官は融通が利かないようで、頑固だった。
『高知タワー 691A エプロンに航空機は在るか』
『691A 高知タワー 全ての航空機は避難済み』
定期便は欠航になっていて、朝から飛んできてはいない。軽飛行機やヘリコプターは格納庫に入っていた。
『高知タワー 691A これはヘリコプターだ 直接エプロンに着陸する』
広いエプロンはカラッポ、ということだ。それならどんなに横風が吹いていてもヘリコプターは風に向かって着陸できる。
『691A 高知タワー 無茶だ!』
当然、違法行為である。管制官としては許可できないだろう。
「……さーてっと……突っ込むか」
マイクのスイッチを切ると、井上が口角を上げた。
陸地に近づくにつれ、雲底が下がってきた。有視界で飛ぶシュペルピューマの高度もどんどん下がり、1000フィート程になった。それでも時々雲の中を飛ぶが、これ以下は流石に井上でも危険だ。やがて前方に白波の砕ける砂浜が見えてきた。砂浜の後ろ左右に山が黒々と見えている。シュペルピューマはその山と山の間に機首を向けた。
「……ここに空港がある筈だ……」
井上はピッチレバーを下げ、スティックを引いた。これまで対地速度200ノット(約360Km/h)という、とんでもない速度で飛んできたのだ。減速しないと空港を通り過ぎ、背後の山に突っ込んでしまう。もっとも、追い風のため対地速度100ノットにするのが精々なのだが……
あっ、と言う間にシュペルピューマは砂浜を通過し、滑走路を跳び越した。
「……よっし、当たりだ……」
眼下に高専の寮……エプロンの東側に建っている……が通り過ぎるのを確認して、井上は左旋回を始めた。左にバンクしたシュペルピューマのメインローターに風は容赦なく吹き込み、揚力を無くそうとする。井上はピッチレバーを引き切り、さらに左手に力を込めた。メインローターがパワーを受けて大きく撓む。激しいブレードストールの音を立ててシュペルピューマは機首を風上に向けた。前方に空港のエプロンが見える。すかさず風に負けないようにスティックを押しながら、井上はピッチレバーを押し下げた。
機首を下げ、シュペルピューマはエプロンに向けて高度を下げる。以前、博美を搬送したときと違って、空港は乱気流が少ない。溜まった雨水を吹き飛ばしながら、シュペルピューマはエプロンに静かに着陸した。
到着ロビーに臨時的にテープで通路が作られている。海上保安部に詰めていたマスコミは、まだ空港にたどり着いてなかった。ただし、台風下の空港を取材していたテレビクルーが居て、彼らだけがカメラを向けている。
自動ドアが開き、係員に案内された……ずぶ濡れの服の上からタオルを被った……第8司丸の乗組員が入ってくる。
「親父!」
定期便が全て運休している所為でガランとしたロビーに声が響いた。
「(……康煕か……心配かけたな……)」
機関長の貴一は伏せていた顔を上げ、並んだ椅子の後ろに居る男女二人に向かって片手を上げた。
「(……博美ちゃんも一緒か……あの子には父親が居ないんだったな。 俺まで死んだら、悲しむだろうな……)」
貴一のすぐ前を船長が歩いている。
「(……今度は殴ってでも、絶対に避難させてやる……)」
何時しか貴一はその背中を睨みつけていた。




