20.5×10.5
さっきパスした杉下が何故か遠藤のフライト後飛ばし始め、駐機場で成田が「アスリートBP」を組み立てている。
「成田さん。 さっき杉下さんに何言ったんです?」
組み立てを手伝いながら、博美は操縦ポイントに立っている杉下を見た。
「ん? 大した事じゃない。 腕はフライト回数に比例するよな、って呟いただけだ。 博美ちゃんもそう思うだろ?」
博美の支える主翼から伸びる電線のコネクターを胴体のそれに差し込みながら、成田が黒い笑みを浮べる。
「え、ええ。 そうですね…… (……それって……杉下さんに「下手」って言ってるようなもの……)」
実際には、杉下の腕前は新土居より上に見える。
「……ま、それだけじゃ無いけどな」
博美の戸惑いに気付いているのか、成田が付け足した。
「こいつぁ調子いいぜー!」
成田が操縦ポイントで大声を上げる。遠藤の試作した燃料を使って「アスリートBP」を飛ばしているのだ。
「いいだろう。 アルコールの割合を増やすためオイルを減らした。 そしてオイルを減らした分、添加剤を入れたんだ」
成田の横で遠藤が胸を張る。確かに、かなり大きな胴体の「アスリートBP」だが、決勝のノウンプログラムにある「ゴルフボール ナイフエッジループ」……45度上昇3/4ロールをした後ナイフエッジ姿勢で宙返りをする……を軽々と……まるで普通の宙返りのように……こなしている。しかも排気ガスが殆ど見えないのだ。
「これならモーターの奴らに負けねえ」
なあ、と成田は振り向いて後ろに居る博美を見た。
「え、ええ。 そうですね……成田さん、前向いて……」
今は演技中なのだ。 目を離してるうちに、飛行機が何処かに飛んでいってしまう。
「お? 心配してくれるんか? ……おっとー 危ねえ……」
成田が前に向きなおした時「アスリートBP」は急降下していた。
成田の次は博美の番だった。今だに風は弱く、博美は「ミネルバⅡ」は後に回して「ミネルバ」の準備をしていた。午後は風が強くなるのを杉下に聞いたのだ。
「新土居さん、すみません」
「いいよ、いいよ。 どうせ暇なんだ」
新土居の持って来た燃料缶を受け取り、博美はチューブを給油口に差し込んだ。
「ねえ、新土居さん。 さっき成田さんが使ってた燃料って何でしょうか? やっぱり遠藤さんの特別製でしょうか」
給油口から入っていく燃料を見ながら、博美は小さな声で尋ねた。
「……ああ、多分な……燃料缶に張ってあるシールは有名メーカーの物だが、あの排気ガスの少なさは普通じゃない……」
新土居が遠藤の様子を盗み見た。
「……それに成田さんの様子だ……市販の燃料だったらあんな風に喜ばないだろ。 使ったことがあるだろうから……」
「そうだろうな。 多分メーカーに指示して作らせてる……じゃないな……試作品のテストをしてる、ってのが真実かもしれないな」
機体のホルダーをするために後ろに立っている森山が、新土居の言葉に続けた。
「軽く負荷を掛けていいぞ。 軽くな……」
「はい」
遠藤によって一回目より少し混合気を薄く調整された185cdiに引かれて「ミネルバ」は軽々と離陸した。さっきの様な急上昇はせず、何時もと同じ緩上昇だ。
「(……んーー 何しようかなーー……)」
安全高度まで上昇し、水平飛行に移行したところで博美は悩んだ。「はい」と言ったものの軽い負荷、というのがピンとこないのだ。
「(……ま、いいか……)」
博美は昇降舵を引き(上げ舵にし)「ミネルバ」を45度上昇させた。そのままフレームエンドまで上昇を続け1/2横転、背面になったところでエレベーターを引いて135°の宙返りをする。所謂「スプリットS」という演技であり、演技開始時によく使われるものだ。
「これを続ければいいですか?」
「ああ、それでいい」
博美の問いかけに後ろで遠藤が答えた。
博美の後に井上が「ビーナス」を同じように飛ばし、杉下、遠藤そして成田、と順に飛ばしたところでお昼になった。全員揃ってコンビニで買ってきた物……弁当だったりオニギリだったり……遠藤などはザル蕎麦である……を遠藤のタープの下に車座になって食べる。
「女の子が居ると華やかで良いよなぁ、遠藤さん」
「成田さんもそう思うか。 このクラブも、偶に彼女や奥さんを連れてくるのが居るんだが……本当に「偶に」だからな。 杉下君も奥さんを連れて来いよ」
「遠藤さんこそ連れてきたらいいじゃないですか。 俺は単身赴任中ですよ」
此処もヤスオカの飛行場と同じで女性が寄り付かないらしく、博美を見て小父さん達が喜んでいる。
「え……杉下さんって単身赴任? 今はお一人なんですか」
オニギリ弁当……小さなオニギリ三個、唐揚げ、卵焼きそしてお新香……を片手に持った博美が首を傾げた。
「本当は何処の方です?」
「関東だよ。 埼玉県……もう5年ほどもこっちに居るんだ」
麦茶を注ぎながら杉下が答えた。
「(本当……妖精ってのは、いい名だな。 日本で一番……ひょっとして世界で一番可愛いパイロットかも……)」
正面から博美を見ることになった杉下がつい見とれていると……博美の瞳が杉下の後ろに向けられた。
「……あそこに人が……」
振り向いて博美の指差す先を見ると、確かに人が川の方から滑走路に歩いてくる。
「あ、遠藤さん。 山内さんが来たみたいだ」
人物が滑走路に入ったところで、杉下が遠藤に声をかけた。
「よう、山内さん。 今日はどうした?」
滑走路を横切り、タープの前まで来た山内に遠藤が顔を向けた。
「いやね、妖精ちゃんが飛ばすって聞いたから。 見たいねってね……」
昨日、工場で見た時とは違ってラフな装いと口調で山内が微笑んでいる。
「それにお土産があるんだよ。 はい、これ」
言いながら山内はクーラーボックスを皆の輪の中に置いた。
「アイスを買ってきた。 それと、これは妖精ちゃんに……」
更に箱を博美に差し出した。
「えっ? えーっと……山内さんこんにちは……これ、僕に?」
「ははは……妖精ちゃんは僕っ娘? 可愛いね。 うん、そうだよ。 昨日からもう一台組みあがってね」
「そ、それじゃ……これは185? 開けていいですか?」
博美は返事も聞かず無地の箱の蓋を取った。
「185だ……これをぼ、私に?」
箱の中には昨日受け取った物と同じエンジンがスポンジに包まれて入っている。
「なんだい……もう僕っ娘は止めるの? ってね……これは185cdiじゃないんだ。 185Gって言って、グロー点火だよ。 だから点火ユニットが要らない。 その分軽くなる」
通常、アルコールが主成分の燃料を使うエンジンはグロープラグと呼ばれる点火栓を使う。このプラグはエンジンが始動すると電気を通さなくても燃焼ガスに焼かれる事により、次の点火時期まで火種として内蔵されたコイルが熱を保つ。よって始動後はバッテリーが要らないのだ。それに対して185cdiはアルコール燃料でありながら、ガソリンエンジンのようにスパークプラグを使っている。確実に点火時期に合わせて火花を飛ばす事により、185cdiは失火することが少ないのだ。遠藤が「絶対止まらない」と自信を持って言えるのはこの事による。欠点は点火ユニットとバッテリーを機体に積まなければならないことだ。
「し、新土居さん……」
博美が横に座っている新土居を見た。
「……ん……「ミネルバⅡ」に積もう。 これなら5キロを超えずにすむ……」
新土居も博美の言わんとしている事が分かっている。「ミネルバⅡ」は重量に余裕が無いのだ。
「……やれやれ……山内さん。 あんた、まだグローに拘ってるんか? 上手く回るか、あれ……」
やり取りを見て、遠藤が頭を振る。
「遠藤さん。 こう見えても、俺もモデラーの端くれだ。 使い物にならないエンジンを渡したりするもんか」
山内が皆が少しずつ動いて作った隙間に入ってきた。
「まあ、調整は難しいかもしれないが……妖精ちゃんには良いメカニックが付いてるからな」
山内の視線を受けて、森山が頷いた。
早速森山は「ミネルバⅡ」から185cdiを外し、185Gを取り付け始めた。
「山内さんって、何処から来られました? 川の方から歩いて来られたようなんですけど……」
「ミネルバⅡ」の横に立って森山の作業を見ながら、博美が聞いた。
「ああ、ボートで来たんだ。 今の時期、今頃は橋の上の渋滞が酷くてね……その点、ボートなら渋滞は関係ない」
山内も博美の横で「ミネルバⅡ」と作業する森山を見ている。
「それに、此処はボートを着けるのに便利な堤防が在るからね」
いつもの事なのだろう。山内は簡単に言ってのけた。
昼食の後、一番に飛ばすのは博美だった。今度も遠藤が混合気を調整している……
「……んー いかんな……」
しかし、さっきから首を傾げていた。
「……止めて」
「はい」
博美がエンジンカットのスイッチを入れた。一瞬、辺りが静寂に包まれる。その中を遠藤が自分のピットに向けて歩いていった。
「……遠藤さん……」
「ちょっと待って」
博美の呼びかけに片手を上げて遠藤は答え、工具箱を開けた。そこから一本のプロペラを取り出す。
「どうも回りすぎる。 これに換えよう。 20.5×10.5だ」
これまでは20×10.5という175に使っていたプロペラだったので、直径が0.5インチ……約12.5センチ大きくなる。
「20.5ですか? そんなサイズって売ってましたっけ……」
「売ってるよ。 ただピッチが10の物しかない。 だから俺が曲げて作った」
博美の疑問に遠藤は簡単に答えた。実際、このメーカーのプロペラは熱を加えて捻るとピッチを変えることが出来るのだ。遠藤はその事を見つけた一人だった。
「……ようし……いいだろう」
プロペラを交換し、燃料を追加して「ミネルバ」のエンジンを始動すると、遠藤が入念に混合気を調整した。
「スロー」
「はい」
185cdiは安定して回っている。
「7500だ。 このプロペラをこれだけ回せるエンジンは少ない。 山内さん、あんた良いのをあげたな」
遠藤の言葉に、少し離れて見ていた山内が苦笑を浮べた。
「そんなのは回さないと分からないだろ。 偶然だ偶然……多分な」
「へっ! どうだか……さあ、飛ばそうぜ」
遠藤は視線を山内から博美に移した。
「もう、普通に飛ばしていいぜ」
本日三回目のフライトにして、やっとF3Aの演技が出来る事になった。
「はい。 それじゃ、予選のパターンを飛ばします」
博美は「ミネルバ」を演技スタート位置に誘導した。
「……ナウ」
センター手前で博美が呟くと同時に「ミネルバ」は45度で上昇する。上昇しながらセンターで1/2ロール、背面姿勢で更に上昇。上昇を始めた位置と対称の位置でエレベーターダウン、逆宙返りを始める。大きな円は頂点がセンターに合っていた。背面45度降下姿勢になるまで逆宙返りを続けると、45度降下直線飛行に移る。センターで1/2ロール、正面の45度降下飛行。スタートと同じ高度で水平飛行になった。
「(わー パワーがあるー 気をつけないと上昇中でも加速しちゃう)」
プロペラの直径が僅か0.5インチ大きくなっただけなのに、ラフなスロットルワークをすると「ミネルバ」は暴れだしてしまう。
「(……さすがに上手い。 パワーを上手く使ってるな……)」
博美の戸惑いをよそに遠藤は感心していた。
午後2時半、気温は軽く30度を超えている。再び順番は回って成田の後に博美がフライトをしていた。午後になってやや風が吹き出したが、東向きのこの飛行場では順光になって飛行機が見やすくなる。その中を、最後の仕上げとばかりに「ミネルバ」で博美は決勝のノウンプログラムを飛ばしていた。
「(……こいつぁ上手い……)」
「(……こりゃ凄い……成田さんと遜色ない……)」
成田と遠藤は博美の後ろに椅子を並べて即席でジャッジをしていた。
「(……このくらいか……)」
遠藤が指を二本立てた。
「(……減点2……そんなもんだ……)」
成田が頷く。
「(……しかし、こりゃ天才って言っても過言じゃねえな……)」
演技を始めてから遠藤の出す指は、二本より多い事がなかった。
「(……予選の時に比べても随分と上手くなってやがる……しかも決勝のパターンだぜ……本田の奴、大丈夫か?……)」
腕組みをした成田の目の前で「ミネルバ」は見事な図形を空に描き出していた。




