このエンジンは止まらない
「お……博美ちゃん、新土居君たちが帰ってきたようだぜ」
杉下が「アスリート」……これは成田の設計したスタント機だ……を組み立てるのを手伝っていた井上が堤防の上を走ってくるワンボックス車に気がついた。
「……あ、本当だー」
遠藤が張っている自立式のタープの下にいた博美が外に出てきた。そのまま堤防の法面を駆け上がる。
「……はー……妖精ちゃんは顔に似合わず元気だなー」
杉下が呆れたように見上げた。
「(……しっかし、安産体型だねー……)」
さすがにこれは声に出せない……
「井上さん、彼女って以外とお転婆?」
その代わりに、当たり障りのない事を尋ねることにした。
「ああ、そりゃそうさ。 でなきゃこんな男の中に混ざってラジコンしてられないだろう?」
井上も立ち上がって見上げた。
「それに中学校の頃は男の子みたいだったってよ」
「とても信じられないな」
杉下が頭を振った。
博美が嬉々として「ミネルバ」の胴体を堤防の上から運んでくる。それは微笑ましいが、法面の傾斜はキツく、下で見ている小父さん達には危なっかしく見えた。
「博美ちゃんよー 危ないから俺に任せな」
年に似合わぬ機敏さで成田が駆けていった。
「そうそう。 転けたら機体まで壊れる」
続いて井上も法面を登った。
「あ! すみません。 でも成田さん、大丈夫ですか?」
丁度中間の高さにある平らな部分で、博美は「ミネルバ」を成田に取り上げられた。
「大丈夫だって。 おい、皆んなで下ろすぞ!」
成田は上にいる新土居と森山、下にいる杉下に向かって声をかけた。
小父さん達によって「ミネルバ」と「ミネルバⅡ」は無事に滑走路脇に並べられた。整備スタンド上のそれらをドクター遠藤が無言でチェックしている。
「……うん……」
一機につき5分ほども見ていただろうか、遠藤が頷き顔を上げた。
「……いいだろう……ノイズ対策も出来てる。 重心位置さえ合わせてあるなら問題ないな。 このエンジンは重いんだ。 合わせたか?」
遠藤は機体の反対側に立っている新土居を見た。
「はい。 合わせてます」
「上手く積んでる。 100点だ。 流石は成田さんが褒めてただけのことはある」
顔を綻ばせて遠藤が続ける。
「修理も見事だ。 こう、内側から見ると大変な破損だった事が分かる」
エンジンへの燃料配管や配線を調べるために、遠藤はミラーを機首に突っ込んで調べたのだ。そこには新土居の苦労の後が残されていた。
「ありがとうございます」
褒められて、満更でもない新土居だった。
「遠藤さん、プロペラは何がいいですか?」
森山がプロペラを入れた箱の蓋を開けた。
「……175は何を使ってる?」
遠藤は箱の中を覗き込んだ。箱の中は綺麗に仕切られ、プロペラがサイズごとに並んで入っている。
「175は20×10.5ですね。 これです」
森山がプロペラを一本取り出し、遠藤に渡した。
「……うん……これは市販のままじゃないな?」
遠藤は渡されたプロペラを撫でている。
「ピッチを捻って直してあるだろう。 重量バランスもとっているようだ……」
遠藤はプロペラを持って自分のピットに歩き出した。森山が慌てて付いていく。
「……どれ……」
工具箱から遠藤はピッチ測定器を出してプロペラを取り付けた。
「……ふむ……」
しばらく測定器で計っていた遠藤が満足げに頷く。
「これはお前が整備したのか? いいプロペラだ……両ブレードのピッチが合ってるし、バランスもピッタリだ」
「そうですね。 俺が手塩に掛けて調整した物です。 んで、185は?」
自分のやってきたことが褒められ、森山は顔が熱くなるように感じていた。
「……とりあえず、これを使おう。 先ずは負荷を軽くして回す」
測定器から外したプロペラを遠藤は森山に渡した。
「ミネルバ」の前にしゃがんで、博美が燃料を入れる。燃料はこれまで使っていた市販の物だ。
「まあ、市販の燃料が悪いわけじゃなからな。 偶にゴミのような商品があるが、これは大丈夫だ」
博美の出してきた燃料を見て遠藤は言った。
「(……さっき話してた燃料は?……あれ使わしてくれないのかなー……)」
さすがの博美もそこまで図々しくは無く、思ったことは言わずにいた。
「スロットルを開けて」
スターターを握った遠藤が博美に言う。
「はい」
「ミネルバ」の横で送信機を下げた博美がスティックを上げた。遠藤がスターターをスピンナーに押し付け、スイッチを入れる。十数秒スターターを回し、回転が軽くなったのを感じて遠藤はスターターをスピンナーから離した。
「スロー」
「はい」
遠藤は博美に指示し、プロペラを右に回し圧縮の始まる位置にする。胴体に新しく新土居が付けたスイッチを入れると、再びスターターをスピンナーに押し付けスターターを回した。
「ブ・ブブブブ・ブーーーー」
新品のYU185cdiは簡単に始動した。
「ハイ。 ゆっくり……」
「はい」
遠藤の言う「ハイ」はスロットルを開ける事であり、博美がゆっくりとスティックを上げた。
「ゴーーーーー」
混合比を調整するニードルバルブを遠藤が調整する。
「……よし、こんなもんだろう……スロー」
博美がスティックを下げた。
「ポロポロポロポロ……」
YU185cdiは安定して回っている。
「OKだな。 さあ、飛ばして……」
「……ええっとー いいんですか? かなりリッチ(混合気が濃い)みたいですけど……」
立ち上がった遠藤に博美が言った。
「止まるんじゃ……」
混合気が合ってないまま飛ばすと、往々にしてエンジンは止まってしまう。
「大丈夫。 絶対止まらない。 このエンジンはそういう風に出来てる」
森山が「ミネルバ」を滑走路に運ぶ。フレームを表す三本のラインが集まる操縦ポイントに立つ博美がスロットルを全開にした。「ミネルバ」は排気管からもうもうと白煙を上げる。
「(……うわー もくもくしてるよ……大丈夫かなー……)」
スローに落としながら、博美は首を傾げた。
「心配するな。 あの位なら俺がいつも飛ばしてる」
博美の心配が分かるのだろう、後ろから遠藤が声を掛けた。
「離陸したら早く高度を上げろ。 出来るだけ滑走路上を飛ばすんだ。 そうすればエンストしても着陸できる」
「はい」
返事をすると、博美は森山に向かって頷いた。森山が「ミネルバ」を滑走路に置き、離れる。
「離陸します」
「ミネルバ」は白煙を引きながら離陸した。
普段は滑らかな上昇を心がけている博美だが、今は直ちに「ミネルバ」を急上昇させた。風が弱い事もあって、白い排気ガスがその場に残り、「ミネルバ」の上昇角の凄さを表している。
「(……なかなかいい度胸をしてる……普通の奴はこんな上昇を離陸直後に出来るもんじゃない……)」
目の前の細い肩を見て、遠藤は舌を巻いた。
「(……こんな角度で上昇しても小揺るぎもしない……)」
遠藤が見ている前で「ミネルバ」は安全高度まで上昇し水平飛行を始めた。
「水平飛行をするんだ。 まだ負荷は掛けるなよ」
「はい」
遠藤の指示で博美は滑走路の上空を左右に水平飛行させる。
「(……うん、だいぶ馴染んできたな……)」
遠藤は排気音に耳を澄ませていた。
「ようし、着陸して」
「は、はい。 もうですか?」
まだ5分ほどしか飛ばしていないのに、と博美が戸惑っている。
「ああ、いまはかなり燃料を食ってる。 余裕を持って降ろすのがいい」
リッチに調整している所為で、燃料消費が多いのだ。
「はい。 降ろします」
「低く回すなよ」
「はい」
着陸前のフライトパターンは高度を下げて飛ばすのだが、エンジンが止まると滑走路に届かなくなる恐れがある。そのため、ぎりぎりまで高度を落とさず、最後は急降下で着陸するのだ。この時、単純に急降下すると速度が出すぎて滑走路を飛び出してしまう。主翼に風を孕み、それをブレーキにして急降下させるのだ。これは失速すれすれの飛行になる。
「(……上手い……)」
遠藤の見守る中「ミネルバ」は機首を上げ、エンジンを吹かしながらゆっくりと、しかし急角度で滑走路に向かってきた。
「(……翼の周りを流れる空気が見えるんじゃないか?……成田さんの言う通りだ。 この娘は空に好かれてる。 妖精とは上手く言ったもんだ……)」
「ミネルバ」は滑走路の真ん中にふわりと着陸した。
森山が「ミネルバ」を回収して整備スタンドに乗せた。
「博美ちゃん、カバーを外して」
遠藤に言われ、博美がアンダーカバーを外した。剥き出しになったエンジンを遠藤が「ぺたぺた」触りだす。
「え、遠藤さん。 火傷しますよ……」
「いや、大丈夫。 これで火傷するほど熱かったら、エンジンがおかしいか冷却がうまくいってない」
遠藤はキャブやポンプに触っている。
「OKだな。 次はもっと絞れる(リーン……混合気を薄くする)」
「はい」
博美が遠藤に向かって頷いた。
井上の「ビーナス」も「ミネルバ」と同じように一回目のフライトをした。
「杉下君の番だよ」
「ビーナス」が着陸したところで、遠藤がタープの下でチェアーに座っている杉下に声をかけた。
「あ、俺は一回パスで」
「なんだなんだ。 遠慮してるのか? 俺が先に飛ばすぞ」
杉下が動かないのを見て、遠藤は自分の「アスリート」の前にしゃがんだ。送信機と受信機のスイッチを入れ、スターターを持つ。
「おっ、飛ばすか? 燃料は?」
杉下と話をしていた成田がタープから出てきた。
「先回のに戻した。 今日の気温にはこれが良い」
「そうか。 今何度だ? っと28度か……暑いな……」
遠藤が工具箱に付けている温度計を見て、成田は機体ホルダーの位置に着いた。
「見せてもらおうか」
成田が「アスリート」を支えたのを確かめ、遠藤はエンジンを始動した。
操縦ポイントに遠藤が立ち、成田が助手をしている。その後ろに立って、博美はフライトを見ていた。
「……うふ、うふふ♪……」
「博美ちゃん、何か面白い事でもあるのか? にこにこして」
井上が博美の様子に気が付いた。
「あ、井上さん。 面白いんですよ。 遠藤さんって「休め」の姿勢で操縦してるんです。 時々足を代えるし……こんなにリラックスして操縦する人、見たこと無い」
確かにすぐ後ろに立っている成田とは体の向きが違っている。
「博美ちゃん、遠藤さんの横に立ってスティックワークを見せてもらいな。 驚く事があるぜ」
「え! そんな事していいんですか?」
「いい、いい。 もう引退してるんだ、どんどん技はいただこう」
「……えっとー しつれいします……」
井上に押されるように、博美が遠藤の横に立った。そっと指先を見る……
「(……っえ……ええーー……)」
なんと遠藤の左手には親指が無かった。人差し指と中指で挟むようにしてスティックを操作している。見てはいけない物を見たようで、博美は慌てて視線を外し、振り返って井上を見た。井上が「ニヤッ」と笑う。
「(……い、井上さんは知ってたんだ……)」
博美は井上の下に戻った。
「……井上さん、遠藤さんって……何時からあんな風に……」
「俺も知らん。 仕事上の怪我だろう、としか分からないんだが……きっと物凄く努力したんだろう。 あんな指で20年以上も選手権に出場し続けたんだ」
俺たちは恵まれてるよな、と井上が手を見た。




