言質取った
入学式の翌月曜日、1年生の時と違って博美たちは通常通りの授業が在った。教室の場所が移動しただけの様なものだからそれも当然ではあるが、学生にとっていささか残念である。
「はあ……何だか疲れちゃった……」
オマケに部活までしたので、博美は重い足を引き摺ってお風呂に向かっていた。
「春休みでー 体が鈍ってるよねー」
言葉とは違って、清水が元気に隣を歩いている。
「うん……春休みは全然運動しなかった……」
よいしょ、と着替えとタオルの入った巾着袋を博美は肩に掛けた。
「そうね。 秋本さん、今日は動きが悪かったわね」
廊下を曲がると樫内がいて、その横では永山が脱衣所へ入ろうとしていた。
「樫内さん。 なんで裕子ちゃんと一緒?」
仲良かったっけ、と博美が首を傾げる。
「同室になったのよ。 だったらやっぱり裸の付き合いをしなくちゃね」
その辺、樫内は真面目であった。
博美が通った数分後、同じ廊下を新入生が3人歩いてきた。
「ねえねえ、どうだった? イケメン居た?」
「いなーい。 ブサメンは居ないけどー フツメンばっかり」
「そうよねー みんな真面目そうなんだよね。 もうちょっと不良っぽい人が居てもいいのにねー」
「不良っぽい、て言えばサー 2年生に居るよ。 背が高くて、ちょっとイケメンで、カッコいいの」
「えーー 私見てない。 ……見てない、って言えば……ここにHIROMIが居るって噂じゃない? あんたたち、見た?」
「HIROMIって……あのモデルの? ほんとに居るの?」
「噂なんだって、噂。 やっぱり居ないのかなー」
何故か3人ともショートボブで、お互いそれが面白くて仲良くなったのだ。
「ああ……会いたいなー 少しでも近づきたくてショートボブにしてるのに……」
「私もそうだよ。 あの写真は衝撃だった」
「私も、私も。 美人だよねー 生きてる人とはおもえないよねー」
3人は話しながら脱衣所の引き戸を開けた。
「あれ? こんな所にミロのビーナスがあったっけ?」
丁度、博美がブラを外している所だった。
「ナイナイ。 昨日はなかったよ。 って……もしかして……HIROMI?」
いきなり名前を呼ばれて博美はキョトンとしている。
「……キャーーーーーー! HIROMI だーーーー!」
3人が博美に向けて突進してきた。
「えっ? 何、なに……」
タオルで胸を隠した博美は壁を背に、3人に囲まれてしまった。
「先輩、すみませんでした」
湯船の中で「ふっ」っと息を吐く博美の周りで、さっきの1年生たちが頭を下げていた。
「い、いいのよ。 ま、びっくりはしたけど……」
博美は片手をお湯から出して振った。
「んでー 先輩がやっぱりHIROMIなんですね」
「綺麗ですよねー」
「スタイルもいいですねー」
3人が一度に話を始める。
「こらこら。 そんなに一度に話したら、秋本さんが困るでしょ」
樫内が湯船に入ってきた。
「さっきも囲んで困らせてたし……」
なかなか入ってこない博美の様子を確かめに行った樫内が、囲まれて困っている博美を救い出したのだ。
「す、すみません……」
「私たち、HIROMIのファンなんです」
「でー 先輩がHIROMIですよね」
一度に話すのはやめて、順番に話すことにしたようだ。
「う、うん。 そういうことになってるみたい……」
ためらいながらも、博美は頷く。
「きゃーーー! やっぱりー!」
風呂場に響く歓声に博美と樫内が耳を塞いだ。
「HIROMIさんって、スタイルいいですねー」
バスタオルで体を拭く博美を1年生たちが羨望の眼差しで見ている。
「ブラのサイズっていくつですか?」
「Bじゃなかった?」
博美への問いかけに樫内が横から答えた。
「んー 最近変わって……」
言いながら博美がブラを取り出した。
「なんですって……ちょっと貸して」
樫内がブラを掻っ攫う。
「ちょっとー これCじゃない。 いつの間にー」
サイズを見た樫内が博美に詰め寄った。
「ちょ、樫内さん。 苦しいから」
壁に押し付けられた博美は、胸も押されて潰れている。
「悔しいー 私はまだBなのに……」
もげろ、とばかりに樫内が力をかける。
「せ、先輩……」
「樫内先輩……」
「……HIROMIさんに乱暴しちゃダメー!」
1年生たちが樫内を引っ張った。さすがに3人掛かり、博美は樫内から解放された。
「み、みんなありがとう」
ふう、と博美が息を吐いた。
「……なにやってるのかなー あの二人ー」
「……いつもあんな調子よ。 春花もそのうち慣れるわ」
離れた所から永山と清水が見ていた。
******
ヤスオカの飛行場は、土曜日にはF3Aを練習するクラブ員が多く集まってくる。特に決まっているわけではないが、競技をしてないクラブ員は主に日曜日に飛ばしている。もっとも競技の練習とはいっても、普段はピリピリした雰囲気ではない。しかし今、飛行場は物音一つせず、不思議な静寂に包まれていた。いや、正確には一つのエンジン音と一人の声だけが聞こえていた。
「フィギュアーナイン」
静かな、気負わない加藤の声がする。「ミネルバⅡ」がサイドラインの手前で1/2宙返りをして垂直上昇に入った。僅かに垂直のポーズを見せると、90度ごとに4回ロールをする。再び垂直のポーズを見せた後、大きくサイドラインに向けて270度逆宙返りをして、中間高度で背面飛行に入った。これで「ナイン」の名前通り大きく数字の9を描くことになる。
「アワーグラス」
「……(うん)……」
加藤の声が頭に染み込むように聞こえ、声に出さず博美は返事をした。背面飛行のままセンターに来た「ミネルバⅡ」は上に倒立三角形、下に三角形を描く。大きな砂時計の形が出来た。
「ストールターン 2 1/2ロール」
「45度上昇 2ロール オポジット」
「スプリットS」
「アバランシュ」
加藤のコールに合わせて博美が「ミネルバⅡ」を操り、空中に綺麗な図形が描かれる。もう「アバランシュ」の宙返りに角ができることも無かった。
「ミネルバⅡ」が着陸すると、飛行場にクラブ員の声が帰ってきた。彼らは見惚れていたとも、集中した博美の放つ「オーラ」に気圧されていたとも言える。
「凄かったじゃないか、博美ちゃん。 もう殆ど完璧じゃないか?」
整備スタンド上の「ミネルバⅡ」から博美がアンダーカバーを外していると、眞鍋が近寄ってきた。
「井上君のような集中力だね」
「いえ、まだまだだと思います。 何箇所も減点される所がありました」
外したカバーを手にしたまま博美は頭を振る。
「大丈夫。 今のままで予選は通るから、出来れば俺に1番を譲ってくれよ」
「や、ですよ。 僕が1番で予選を通るんです」
冗談なのだろう、笑いながらの眞鍋の言葉に博美は真顔で返した。
博美の「暗くなるまでに帰る」というのはまだ続いている。そのために、まだ太陽が高いうちに博美は練習をやめた。
「新土居さん。 終わりました」
「ミネルバⅡ」と「ミネルバ」を綺麗に掃除してカバーに入れ、博美と加藤はワンボックス車に積み込んだ。
「OK。 それじゃ帰ろうか」
クラブ員と話をしていた新土居が振り向いた。
「うん。 それじゃ眞鍋さん、皆さん。 お先に失礼します」
まだ飛ばす気満々で残っているクラブ員に博美は軽く頭を下げて、ワンボックス車の助手席に乗り込む。今日は森山は来なかったのだ。
「新土居さん、森山さんはデート?」
手を振るために開けていた窓を閉めながら博美が尋ねた。
「ああ、そんなこと言ってたな。 まったく、デートなんか日曜日にすればいいのにな」
「そういえば、井上さんが結婚するんだってよ」
いつものように新土居の愚痴が出そうになったところに、加藤が口を挟んできた。
「えっ? 何時、いつ?」
目を丸くして博美が後ろを向いた。
「5月の終わりごろらしい。 むこうのクラブの会長さんが言ってた」
「僕、聞いてない。 絶対教えてって言ったのにー」
むー、と博美の頬が膨れてくる。
「近々教えてくれるんじゃないか?」
それが可笑しくて、加藤が笑顔になった。
「相手は静香さんだよね?」
「ま、そうだろうな」
他には考えられないよな、と二人は頷きあった。
翌日曜日、加藤がバイクを引き取りに行くのに博美は付き合った。バスを使って行く加藤が街のバイク屋に付いた頃、時間を合わせて博美はスクーターでやって来た。
「へー! こんなに大きいのに原付なんだー」
店頭に加藤の買ったヤマハDT50が置いてある。
「これ、僕じゃ足が付かないかも」
「いいだろう。 もう生産してないモデルだぜ。 やっと見つけたんだ」
加藤が自慢するのも当然で、生産が終了しているにも関わらず人気のモデルなのだ。おかげで中古にもかかわらず20万ほどした。
「よくそれだけ貯めたよね。 飛行機も買わずにさ……」
加藤はここのところ博美の「アラジン」をずっと飛ばしていて、新しい飛行機を買う素振りも見せない。
「あははは……「アラジン」があんまり調子が良いんで……」
ジト目の博美に苦笑の加藤は語尾が小さくなっていた。
手続きを終え、ヘルメットを被った加藤がDT50に跨った。背の高い加藤が乗ると、DT50が小さく見える。
「どうする? このまま帰るか?」
キック一発、調子よくエンジンが回りだしたところで軽くスロットルを煽ると、加藤は横でスクーターに座っている博美を見た。
「せっかくだから何処かに行こうよ」
まだ午前中だから、寮に帰るまで十分な時間がある。
「どこへ行く?」
「森のオーベルジュ!」
間髪を入れず、博美が答えた。
「おい! そんな所に行けるはずないだろ」
あまりの提案に、加藤がバイクから落ちかかった。森のオーベルジュ……住所が高知市とは言え街の北にある山を越えた所にあるホテルだ。美味しい料理が食べられるが、値段もそれなりに高く学生に払える訳は無い。
「なーんだ。 美味しい物が食べられるのに」
博美はハンドルにもたれて加藤を見上げた。
「今日はもう金も無いぜ。 そんなところはまた今度な」
「よっし。 言質を取った」
「お、おまえなー……」
加藤が「がっくり」首を落とした。
結局二人はヤスオカ模型に行ったのだった。




