アバランシュ
「さあ、忘れ物は無いか? 行くぜ」
ワンボックス車の運転席で森山が後ろを振り向いた。助手席に座った新土居は左頬に貼ったシップを抑えてる。
「はーい。 大丈夫でーっす」
振り返って荷物室を見た博美が返事をした。左側の壁には「ミネルバ」と「ミネルバⅡ」が乗せられていて、右側には篠宮が設計した新土居と森山の「マルレラ」がある。そして荷物室の中央部には燃料缶やエンジン始動用具等がネットに包まれていた。
「しかし、でっかい車だよな。 4人乗って、さらに飛行機が4機運べるんだからな」
博美の左に座っている加藤が感心している。
「そうだよねー でも、お陰で皆んな揃って出かけられるんだよね。 楽しくていいじゃない」
早く行こう、と博美が森山を急かした。
博美たちが飛行場に着くと、すぐに篠宮と眞鍋がワンボックス車にやってきた。
「博美ちゃん、おはよう。 ちょっと遅かったね」
加藤に続いて車から降りる博美に向かって篠宮が話しかける。
「今日は直海も来てるよ」
「篠宮さん、おはようございます。 樫内さんが来てるんですか? 今どこかな」
樫内が来てると聞いて、博美は「きょろきょろ」辺りを見渡した。
「トイレって言ってたけど……」
篠宮がトイレの方を見る。
「……あ、来た来た」
ちょうど飛行場の隅の方から樫内が駆けてくる所だった。
「秋本さん、おはよう。 遅かったじゃないー 待ちくたびれたわよ」
息を弾ませて樫内が博美の前に来た。
「樫内さん、おはよう。 ごめん「ミネルバⅡ」にエンジンを載せたりしてたんだ」
「それそれ。 「ミネルバⅡ」って秋本さんの飛行機でしょ。 壊れてたのが直ったって聞いたから来たの。 どうなの?」
おそらく篠宮から聞いたのだろう、心配そうに樫内は首を傾げる。
「ん、綺麗に直ってた。 新品と変わらないよ」
博美は車の後ろに向かって歩き始めた。
「そう、それなら良かった。 落ちちゃったんでしょ。 大丈夫? 気持ち的に……」
樫内もそれについて歩く。
「うん、その辺も多分大丈夫かな? シミュレーターで随分練習したから」
試験期間を除き、博美は毎日ラジコンシミュレーターで来年からの演技を研究し、練習をしていた。そして休日は「ミネルバ」を使って曲技飛行の基礎を復習していたのだ。それによって低空背面飛行の恐怖はほとんど消えていた。
「……んっしょ。 これでいいかな……後はカバーっと……」
博美が整備スタンドの上で「ミネルバ」の主翼を取り付け、アンダーカバーを付けた。
「……さあミネルバちゃん、準備できたよ……っと……」
整備スタンドから持ち上げ、胸の前で抱きかかえるようにして表に向ける。
「(……どこに置こうかな……あっ、あそこが良いや……)」
博美はそのまま「ミネルバ」をワンボックス車の横に運んだ。そこには既に組み立てられた「ミネルバⅡ」が置かれていた。
「(……わー ほんとそっくり! これ知らない人が見たら分からないんじゃないかなぁ……)」
二つの機体の違いは垂直尾翼の大きさぐらいの物だ。こうして地面に置かれていると上から見る事になるので垂直尾翼は目立たない。主翼と水平尾翼が同じ設計の二機は瓜二つだった。
「「ミネルバ」と「ミネルバⅡ」のそろい踏みだね。 これは世界選手権選抜会以来じゃないかな?」
聞こえた声に博美が振り向くと眞鍋が腕組みをして立っていた。
「そうなるんですねー 眞鍋さんも選抜会に行ったんですか?」
光輝が世界選手権選抜会に出たのはもう2年半前のことだ。
「行ったよ。 俺はただの観客としてだけどな。 あのときもこうして「ミネルバ」と「ミネルバⅡ」を並べてあった。 ……まさか高知の選手、しかも安岡に関係ない奴が選抜会に出るなんて思いもしなかったな。 あまつさえ世界選手権に行くなんて」
腕組みをしたまま眞鍋が空を見上げた。
「仕事で行けなくなった、って噂を聞いたときはほんとガッカリしたもんだ」
眞鍋が目線を下げる。
「っで、博美ちゃんはどっちを飛ばすんだ?」
「先ずは「ミネルバ」を飛ばします。 それで僕の調子が悪くなければ「ミネルバⅡ」というふうに……」
「ん、分かった」
博美の言葉を最後まで聴かずに眞鍋は静かにそこを離れた。
森山にホルダーを頼み、博美が「ミネルバ」のエンジンを掛ける。横には加藤が立ってそれを見ていた。
「(……手馴れてやがる……)」
最近は機体の組み立て、燃料補給、プリフライトチェック、エンジンの始動調整、それらを博美が自分で行っている。久しぶりにヤスオカの飛行場に来た加藤は以前との違いに驚いていた。
「……OK……」
相変わらずの符丁のような言葉を、ホルダーの森山が博美と交わし「ミネルバ」を持ち上げた。ゆっくりと滑走路に「ミネルバ」が運ばれるのに合わせて博美も操縦ポイントに歩く。その後ろを加藤は歩いた。
「(……これって練習だろ……なんだこの緊張感は……)」
滑走路を正面に博美が立つ。加藤はその、ジャンバーを着ていても、小さな肩を「ぽんっ」と叩いた。
「(……だったら俺も集中しなくちゃな……)」
「……んっ…… テイクオフ!」
小さく頷き、博美は離陸を宣言した。
「ミネルバ」が風下でのターンをしてセンターに向かってくる。来年から演技スケジュールが変わり、最初の演技は「Golf Ball with two 1/2 rolls」だ。これはゴルフボールがティーアップされた様子を思わせる図形を描く。
「ゴルフボール」
加藤が静かに告げた。
「…ん…」
博美は頷くとセンターの手前でエレベーターを引いて「ミネルバ」を45°で上昇させる。
「(……上手い。 直線と円の繋がりのメリハリがついてるぜ……)」
加藤がしばらく見ない内に博美は成長していた。
「(……八角みたいだ……)」
上昇しながらセンターで1/2ロール、背面姿勢になった「ミネルバ」はさらに上昇、左右対称位置からエレベーターを押して逆宙返りをする。大きく円を描いた「ミネルバ」は風下側で背面姿勢での45°降下姿勢になった。センターでロールをすると、侵入高度に合わせて水平飛行に移る。
「ハーフスクエアーループ オンコーナー 1/2ロール」
水平飛行になった所で加藤がメモを見て次の演技を読み上げる。「ミネルバ」は少しの水平飛行の後45°上昇、エレベーターを引いて90°宙返りをして45°の背面上昇、少しのポーズを見せて1/2ロール、再びポーズ、エレベーターを押して高い高度の水平飛行になった。
「ダブルインメルマン ナイフエッジ」
センターを通り越した所で「ミネルバ」はエレベーターを押して、下向きの逆宙返り(インバーテッドループ)をした。180°回り低い高度の背面飛行になった瞬間1/4ロールして主翼を地面と直角にする。通称「ナイフエッジ」と呼ばれる機体姿勢だ。主翼の揚力は0になるため、機体を少し上に向けて胴体に働く揚力とプロペラ推力の垂直分力により水平に飛ばなければならない。
「(……くっ!……)」
低い高度という事は、わずかのミスが墜落を招く事である。博美は歯を食いしばって恐怖を耐える。
「(……このっ!……下がるな……)」
垂直尾翼の小さい「ミネルバ」はラダーの効きがいい方ではない。高度が下がってくるようで、博美はついラダーを大きく使ってしまっていた。
「下がってなんかないぜ。 大丈夫だ。 ラダーを抜け」
不恰好にお尻を下げて飛ぶ「ミネルバ」を見て加藤が博美の肩を叩く。
「えっ! ……康煕くん……あ、本当だ……」
博美が「ふっ」と我にかえった。気がつくと「ミネルバ」はその強力なエンジンパワーで高度を上げてしまっている。博美はラダースティックに加える力を抜いた。
「ありがとう、康煕君」
「ミネルバ」の下がっていた尾翼が適正位置まで持ち上がり、水平に飛行を始めた。センターを通過し、演技初めと対称の位置で1/4ロール、エレベーターを引いて宙返りに入る。180°回り、高い高度の背面飛行になった所で再び「ナイフエッジ」姿勢だ。今度は高度が高いこともあり、落ち着いた博美は綺麗な水平飛行を見せた。
「アバランシュ」
落ち着いた加藤の声がする。最後の演技「Avalanche with snaproll on top」だ。長い名前だが、要するに宙返りの頂点で「スナップロール」をする演技である。
「……うん……」
特に難しい演技でもない「スプリット S」が終わり、低い高度の水平飛行を始めたところで博美が頷いた。センターぴったりで博美はエレベータースティックを引き、速度を一定に保つようにだんだんスロットルスティックを上げていく。「ミネルバ」が宙返りの頂点に届く少し前、博美はフライトコンディションを切り替え、すかさずエレベーターをダウン、ラダーを右、エルロンを左、それぞれ目いっぱいにスティックを動かした。「ミネルバ」は宙返りの頂点でくるりと「スナップロール」をする。博美はそれを見届けるとエレベーターとエルロンを中立にし、ラダーを左にきって回転を止めた。今は宙返りの途中であり、フライトコンディションをノーマルに切り替え、博美はスロットルスティックを下げ機首を下げた。
「今日はだいぶ良かったじゃないか? 最初のナイフエッジは駄目だったけど、その後の3/6ロールは軸が通っていた」
「ミネルバ」を整備スタンドに乗せたところに眞鍋がやって来た。
「加藤君が後ろから何か言ってたな。 それが良かったんじゃないか?」
「はい。 あそこで大丈夫だって言ってくれたお陰で落ち着けました」
博美は頷き、隣に居る加藤を見た。
「俺は思ったことを言っただけだぜ。 博美が自分から落ち着いたんだ」
加藤が博美の肩を叩く。
「それそれ。 そうやって「ぽんっ」って叩いてくれると落ち着けるんだよね」
博美が笑顔になった。
「そうそう、最後のアバランシュ。 スナップロールの前後で宙返りの半径が変わるのが分かる。 フライトコンディションを切り替える時だろう? あれは減点だぜ」
二人のやり取りを微笑みながら見ていた眞鍋が切り出した。
「うっ!……やっぱり分かります?」
「ああ、分かるぜ。 だが予選まではまだまだ日にちが在る。 研究だな」
眞鍋がフライトエリアを見る。博美も釣られて顔を上げた。ちょうど篠宮が樫内を助手にして「アバランシュ」を練習している。やや小さめの宙返りの頂点で「マルレラep」がスナップロールをした。
「どうだい、篠宮君のアバランシュは……」
空を見上げたままで眞鍋が聞いた。
「スナップロールの前後が滑らかです。 僕みたいに半径が変わらない。 スナップロールの回転速度が遅いようですけど……」
再び「アバランシュ」を始めた「マルレラep」を見つめながら博美が答えた。
「何故か分かるか?」
眞鍋が博美を見た。
「……いいえ……」
博美が首を振る。
「彼はフライトコンディションを使っていないんだ」
眞鍋がまた空を見た。
「彼だけじゃない、このクラブでフライトコンディションを使ってるのは博美ちゃんだけじゃないかな?」
「えっ! そんなこと知りませんでしたよ」
博美が眞鍋を見つめる。
「うーーん。 安岡さんが何故博美ちゃんに言わなかったかは分からんけど、昔から安岡さんはフライトコンディションは使うなって言ってたんだ。 なぜ使うなって言うかは説明を聞いたことが無いけどね」
眞鍋が博美を見下ろした。
「でも、なんとなく分かった気がするぜ。 博美ちゃんもそうだろ?」
眞鍋の言葉に博美が頷いた。




