ミネルバの調整2
「(……んー ちょっとアップかな?……)」
離陸後のデッドパス中に博美はエレベーターのトリムが変わったのに気がついた。
「(……やっぱりそうだ……)」
風下でUターンして、正面に帰ってくる時に博美はダウン側にトリムスイッチを押した。
「少しアップになりました」
その事を新土居に告げる。
「そうなるはずだ。 ダウンスラストを変えたからね。 問題は垂直姿勢だ」
エンジンのダウンスラストが少し減るように取り付け角度を変えたのだから、プロペラの出す推力も下向きの成分が減ったはずだ。それにより機首を下げるモーメントも減り、機首が上がるようになった訳だ。
「そうですね。 んじゃ」
博美は正面でエレベーターを引き「ミネルバ」を垂直上昇させた。
「(……うわっ! ちょっとちょっと……勝手に宙返りしちゃうよ……)」
エレベータースティックをニュートラルにしたにも関わらず「ミネルバ」はアップ側に曲がり続け、放っておくと元の水平飛行に戻りそうだ。博美はエレベータースティックを強く押してコースを保った。
「新土居さん。 駄目。 物凄くアップになりましたよ」
博美の声が非難めいて聞こえても仕方が無いだろう。さっきより悪くなったのだから。
「いや、それでいいのさ」
それに対して、新土居は落ち着いている。
「今の状態で垂直上昇するようにトリムで調整してごらん」
「えっ? そんなことしたら水平飛行出来なくなりますよ」
エレベータースティックを操作しなくても水平飛行するように博美はトリムを調整したのだ。それを変えてしまったら、水平飛行するためにエレベータースティックに力を加え続けなければいけなくなってしまう。
「良いからいいから。 今は調整中なんだ。 極端にやってみなくちゃね」
ほれほれ、と新土居が後ろから急かす。
「はーーい (……変なの……それで良いのかなー……)」
一先ず言うことを聞いてみようと、博美は垂直上昇中にエレベータートリムのスイッチをダウン側に動かした。そうこうしているうちに高く上って見難くなった為、博美は「ミネルバ」を垂直降下させた。
「(……あれっ?……降下中にアップにこない……)」
さっきは大きくアップ側に曲がった筈が、今は殆どそれが無くなっている。
「新土居さん。 降下中のアップ癖が無くなりました」
「そうなるよね。 降下中はエンジンのパワーが掛かって無いから、ダウンスラストを変えたって関係ない訳だ。 だからエレベータートリムをダウンにした効果が現れたって事なんだ」
簡単だろ、と新土居が博美の後ろで「どや顔」をする。
「でもでも、そうすると水平飛行中は如何するんですか? いっつもスティックを引き続けるのは大変ですし……」
新土居の顔は見えないが、博美には「どや顔」が想像できた。
「それぐらい我慢するんだ…………なんてね。 そこはこれから調整するよ。 今は上昇中と下降中のトリムが同じか? って事を確かめるんだ」
新土居が博美の肩を「ぽんっ」と叩いた。
「安岡さんなんか……トリムのズレた飛行機でパターン飛ばすぜ。 高が10分程度、スティックに力を加え続けるなんて、どおってこと無いんだってさ」
「ミネルバ」を整備スタンドに乗せて、タープの下で新土居は博美に飛行機の空力バランスを説明していた。
「……さっきの垂直上昇中と降下中の事は分かりましたけど……それが水平飛行のバランスとは違うんですか?」
二人の間に置かれた紙に描かれた飛行機のスケッチを博美が指差した。
「そう、違うんだ。 水平飛行中は主翼が揚力を出している。 その揚力は大体この辺が代表点になる」
新土居が新たに飛行機のスケッチを描き、そこに矢印を描いた。
「これが揚力のベクトルだ。 博美ちゃんはベクトルって習ってるよね?」
「はい。 物理で習いました」
博美は中学校の頃から理数系の科目が得意だった。
「それなら話は早い。 重力は重心から下向け」
新土居が新たな矢印を引く。
「重心位置は主翼の前端から30パーセントぐらいだ。 これを見てバランスが取れてるかな?」
「……い、いえ……このままだと機首下げになります……」
新土居の描いたベクトルを表す矢印はズレていて、飛行機を回転させる効果がある。
「そう。 このままでは駄目だよね。 だから水平尾翼がある」
新土居が水平尾翼から下向きに矢印を描いた。
「これでバランスがとれた」
新土居が博美を見る。
「はい。 これでバランスしてます……でも、これで垂直姿勢になって揚力が消えたら……」
博美が紙を90度回した。
「アップ側に曲がります」
「そう、それが垂直姿勢でアップに行く原因の殆どなんだ。 だから水平尾翼の出す力を小さくしたい」
どうする? と新土居が博美に鉛筆を渡した。
「(……尾翼の力を小さくするって事は……下向きモーメントを小さくすれば良い……)」
博美は鉛筆を持つと暫く考え、
「これで如何ですか」
新土居の描いた重力の矢印を×で消して新たに矢印を描いた。
「そう、その通り」
新土居が頷いた。博美の描いた重力の矢印は揚力の矢印の根元から出ている。
「理想的にはその通りなんだけどね、実際にはこれでは不安定すぎて飛ばせない。 以前、5回連続世界チャンピオンになった人がこんな設定だったらしいよ」
新土居は笑って新しい矢印を博美の描いた矢印の少し機首よりに描いた。
「だから、この位……これ位が良い所だと思う」
新土居が立ち上がった。
「さあ、重心位置をチェックしよう」
「ミネルバ」が水平飛行をしている。
「(……あー びっくりした。 離陸したらいきなり急上昇するんだもんなー……)」
今はエレベーターのトリムが調整できて安定してるが、さっき離陸したときに「ミネルバ」がそのまま宙返りしそうになったのだ。博美の咄嗟の操作によりなんとかなったが、もし初心者だったら落としていただろう。
「さあ、垂直上昇でバラストがOKかチェックしようぜ」
安定して水平飛行をすることを見て、新土居が後ろから声を掛ける。さっきの講義の後、尾翼の下に75グラムの錘を付けたのだ。それによって重心位置は凡そ20ミリ後ろになっていた。
「はい」
博美がエレベーターを引く。「ミネルバ」は機首を上げ綺麗な円を描いた。
「(……わっ! 直線と円の繋がりが綺麗……)」
「ほう! 博美ちゃん、宙返りの入り方が、まるで八角のフライトを見てるようだ」
自分で操作した事なのに驚いている博美の横に、何時の間にか真鍋が立っている。
「わぁっ! ま、真鍋さん。 びっくりさせないで……」
突然近くで聞こえた声に博美が悲鳴を上げた。
「や、ごめんごめん。 でも博美ちゃんって「きゃー」って言わないんだね。 「わぁっ」ってまるで男の子みたいだね」
真鍋が博美の横顔を見た。
「それって言われますね。 うまく「きゃー」って言えないんです」
「そういう物なのかねー っでどうだい? 真っ直ぐ上がってるようだけど」
さっきから垂直上昇している「ミネルバ」は綺麗な直線を描いている。
「はい。 さっきまでと違ってエレベーターの操作量が少ないですね。 微調整が楽です」
エレベータートリムが大きくダウンになった所為で、スティックを僅かに押すだけで「ミネルバ」は真っ直ぐ上がるのだ。高く上がった所で「ミネルバ」は垂直降下に移った。
「(……わー 真っ直ぐ下りてくる……)」
博美がスティックを操作しなくても「ミネルバ」はアップにもダウンにも行かない。
「新土居さん。 降下中はスティックがニュートラルです」
「ちょっとやり過ぎかな? 上昇中は押してるんだよね」
「はい。 少し押してます」
「んじゃ、エンジンのダウンスラストが少なすぎだ。 少し戻して、バラストも少し減らそう。 ついでにロールの様子なんかも見といて」
ワッシャと錘を用意しておく、と新土居が博美から離れていった。
「(……ん?……変だな……)」
水平ロールを繰り返す「ミネルバ」を見て、真鍋が首を捻る。
「(……ラダーを使いすぎてないか?……)」
ロール中に「ミネルバ」は大きく蛇行していた。
「(……エレベーター操作も硬い……)」
水平に飛行しなくてはいけない筈が、ロールが終わったときには高度が上がってる。真鍋は博美の手元を覗き込んだ。
「(……震えてるじゃないか……」
左手の親指が「ふるふる」揺れている。
「(……おかしい……) 博美ちゃん。 何か気になることでもあるかい?」
真鍋は声を掛ける事にした。
「震えてるようだが、緊張してる?」
「……ま、真鍋さん……お、おかしいんです……こんな何でもない事なのに……指が震えて……上手く動かないんです。 なんか……低空で背面になるのが怖い……」
博美は声まで震えている。
「一旦高度を上げて……遊覧飛行してごらん……過度に緊張してるようだよ」
真鍋が博美の肩を「ぽんぽん」と叩いた。
「は、はい……」
博美はロールを止め「ミネルバ」を高く上げるとエンジンの回転を落とす。
「……ふーーー……」
知らずに入っていた肩の力を抜き、大きく息を吐いた。
「どうだい。 落ち着いたかい?」
その様子を横から真鍋が見ていた。
「はい。 落ち着きました。 さっきのって……何だったんでしょう?」
博美が首を傾げる。
「おそらく……おそらくだよ、先週落ちたときが背面だった所為だろう。 背面飛行でダウンを打つのに恐れがあるんじゃないかな? だから早めに大きく舵を使ってしまう。 リバースじゃないよねって怖がってるんだ。 所謂「トラウマ」かな?」
眞鍋も同じように首を傾げた。
着陸した「ミネルバ」を真鍋が運んでくるのを新土居が待ち構えていた。
「博美ちゃん、ロールは如何だった? 少し薄いワッシャと軽めの錘を用意したよ。 直ぐに取り替えよう」
真鍋と並んで歩いてくる博美に新土居が話す。
「……は、はい……お願いします……ロールは未だ分かりません」
「ん? 何だか元気が無いね。 何かあった?」
さっきまでと違い、思いつめた様子に新土居が気が付いた。
「ロールで背面になるのが怖いらしい。 俺はトラウマかと思うんだが」
「ミネルバ」をスタンドに乗せながら真鍋が言った。
「んー トラウマとは違うんじゃないですかねー トラウマって自身に掛かってくる恐怖体験から起きるんでしょ。 「ミネルバⅡ」が落ちたって博美ちゃんが傷つくわけじゃないし」
新土居が「ミネルバ」のアンダーカバーを外し始めた。
「あれっ?博美ちゃん……」
メンテナンスをするときには何時も傍で見ている博美が居ない。ふと気が付いた新土居が見ると博美はタープの下に置いてあるテーブルに伏せている。
「……博美ちゃん……」
肩が震えているところを見ると泣いているようだ。
「新土居君。 博美ちゃんにとって「ミネルバⅡ」は同じ父親から生まれた姉妹のような物だ。 そんな妹を自分のミスにより怖い思いをさせ、傷つけたんだ。 俺たちが思うより心に傷を負ったんだよ。 君の今の言葉は不用意なものだったね」
真鍋が新土居に言う。
「い、いや……俺はそんな……「ミネルバⅡ」が如何なってもいい、なんてつもりじゃ……」
「俺に言っても仕方が無いだろ。 博美ちゃんに謝って来いよ」
真鍋が顎で示した。
「んじゃ、帰りにパフェとクレープを奢ってもらえるんですね♪」
1時間後、新土居は博美に喫茶店で奢ることを約束させられていた。




