修理代金
「……も、もういいかな……」
一頻り感触を楽しんだ新土居が博美の肩を押さえた。
「これで「ミネルバⅡ」が直ることが確実になった訳だけど……」
「ですよね。 よかったー」
胸の前で指を組み、博美が新土居を見上げる。
「……ちょ、ちょっと待って」
新土居の顔は少し赤くなっている。
「……そうだなー おそらく二ヶ月程度……乾燥にどれだけ掛かるかな? 遅くても三ヶ月位で修理できると思う」
此処まで言って、新土居は仕事人の顔になった。
「……でだ。 ここからはビジネスの事になるんだけど……」
「ビジネス?」
博美の頭が「こてん」と傾く。
「そう。 「ミネルバⅡ」の修理……ボランティアでは出来ないんだ。 片手間に出来るような壊れ方じゃ無い。 ジグを使って精度良く直すことになる」
新土居の説明を博美は黙って聞いている。
「つまり……工場の施設を使うわけだ。 それには代金が掛かる。 うちも会社組織だからね」
「……えっと……直すのにお金が掛かるってことですね……」
「そう。 分かってくれて嬉しいね」
仕事モードの新土居は安岡の話し方に似ている。
「……それっていくら位掛かるんですか?」
博美の瞳が不安に揺れた。
「……10万……メカの点検に5万……15万ってところかな? 勿論、うちの儲けを無しにしてね……エンジンも分解して点検するとプラス3万かな?」
「……18万円……」
博美が項垂れる。
「(……今のバイトで12万円になる……あと6万円……)」
「高いよね」
黙ってしまった博美に新土居が話しかけた。
「そこで、俺からの提案だ。 この「ミネルバ」の設計図を修理代金で譲ってくれないか」
「っえ! 設計図を新土居さんが買うんですか? それ、どうするんです?」
勢い良く博美が顔を上げた。
「ヤスオカから売り出す。 今、ヤスオカには売れてるスタント機が無いんだ。 常連さんは居るよ。 でもそれでは発展性が無い。 結局は選手権で上位になるスタント機が売れるんだ。 だから今は成田のスタント機が売れてる。 博美ちゃんも見ただろ。 選手権会場にあったスタント機の半数は成田のだった」
思い出すように新土居が目を瞑った。
「選手権で博美ちゃんは、目慣らしとは言えトップの得点を出したんだ。 それで何件か問い合わせが来てるんだよ。 「ミネルバⅡ」は売り出さないかってね」
新土居は博美の手を取った。
「どうだろう、売ってくれないか。 直ぐには「ミネルバⅡ」は売らない。 博美ちゃんが「ミネルバⅡ」を卒業……もっと高性能の飛行機に乗り換えるまでは。 それまでは「ミネルバ」を売っていく」
いきなりの提案に博美は返事が出来なかった。
新土居が帰って、秋本家は三人で夕飯を囲んでいた。今日は鰤の切り身の煮付けだ。
「(……18万円……今はとても払えない……)」
茶碗を手に持って博美はちらっと博美を見た。
「(……ううん、駄目。 そんなに家は余裕があるわけじゃない……)」
茶碗から御飯を一掬いする。
「(……設計図かー お父さんが描いた設計図……凄く綺麗だった……)」
御飯を口に入れた。
「博美。 あんた何ぼーっと考えてるの?」
明美が目の泳ぐ博美の様子に気が付いた。
「えっ……べ、別に何も……」
博美は大急ぎで御飯を飲み込んだ。
「うそおっしゃい。 お母さんが何年あんたを見てると思ってるの。 心配事があるなら話なさい」
流石は母親である。明美には博美の可愛い嘘など通用しない。
「……新土居さんが「ミネルバⅡ」の設計図が欲しいんだって」
諦めて茶碗を置き博美が話し始める。
「ん? 「ミネルバⅡ」の設計図って見つかったの?」
明美には初耳だったようだ。
「あ! ごめん、言うの忘れてた。 「ミネルバ」の下に置いてあったんだ。 新土居さんが見つけたんだけど。 それを見て、新土居さんが欲しいって」
「それを新土居さんはどうするの?」
横から光が聞いた。
「ヤスオカから売り出すんだって。 「ミネルバ」を」
博美が光の方を向いて答える。
「んで、博美はそれに悩んでるの?」
明美が尋ねる。
「どうもそれだけじゃなさそうだけど」
「……うん……」
博美が下を向く。
「……「ミネルバⅡ」の修理代……18万円掛かるんだって……」
「何となく分かったわ」
明美が頷く。
「つまり「ミネルバⅡ」の設計図代で修理代にしようって言われたのね」
「……うん。 そういう話だった」
俯いたまま博美が頷いた。
「……僕が壊したお父さんの「ミネルバⅡ」の修理にお父さんの描いた「ミネルバⅡ」の設計図を使うなんて……お父さん、なんて言うかな……」
「そう……お母さんは博美の気持ち分かるわ」
優しく明美が答える。
「そして、お父さんが如何思うかも想像できるの。 なんたって夫婦だもの」
明美は笑っていた。
「なんだなんだ博美は。 飛行機は落ちるもんだ。 俺はそんなこと全然気にしないぜ。 使える物はどんどん使え。 ……きっとこう言うわ」
光輝の口調を真似て明美が言う。
「……そ、そうかな……」
博美が顔を上げた。
「そうよ。 賭けてもいいわ」
笑顔の明美がそこに居た。
夕食後、博美は再び光輝の部屋に来た。机の上に置いてあった設計図を取り上げ床に広げる。原寸大の図面は大きくて、床いっぱいになった。博美は描かれたラインを指で辿る。
「(……綺麗なカーブ……)」
機首からキャノピーに向かって盛り上がったラインは、後部に向かうにつれキャノピーを頂点にしてなだらかに逆アールを描き垂直尾翼に繋がっている。
「(……「ミネルバ」と「ミネルバⅡ」でこんなに違うんだ……)」
「ミネルバ」の垂直尾翼に重ねて描かれている「ミネルバⅡ」のそれは軽く一回り大きい。しかし胴体との繋がりは自然で滑らかだ。
「(……水平尾翼ってどっちが「ミネルバⅡ」なのかな……ん? これってお父さんの字だよね……んーっと「上に上げる」って書いてある……)」
重なったように書かれている水平尾翼から引き出し線があり、その先にメモがあった。
「(……って事は……上の方が「ミネルバⅡ」なんだ……なんで変えたんだろう?……)」
メモには理由が書かれていない。
「(……新土居さんか篠宮さんなら分かるかな……)」
新土居は飛行機製作のプロだし、篠宮は趣味ながらプロ並みの飛行機を設計する。現に森山と新土居の飛行機は篠宮の設計だ。
「お姉ちゃん……」
博美が設計図を眺めて物思いにふけっていると、光がドアを開けた。
「ん…… 何?」
博美が振り向く。
「……お姉ちゃん「ミネルバⅡ」の修理にお金が足りないの? だから設計図を売るんでしょ。 ねえ、お姉ちゃんそれでいいの?」
光はドアの所に立ち止まったまま、部屋に入ってこない。
「……ねえ、そんなのダメだよ。 お父さんの残した宝だよ。 お金なら私も一緒に出すから……5千円しか持ってないけど……」
「それこそダメだ。 その五千円ってこの間おばあちゃんに貰ったお小遣いじゃない?」
博美は立ち上がって光の前に来た。
「光のその気持ちだけで十分だよ。 うん、大丈夫。 お母さんも言った通り、お父さんだって売るに決まってるよ。 「そんなもん、また描けばいいがー」なんて言ってね」
光の肩に博美は手を置いた。
「ありがとう。 気にかけてくれて」
「だって、だって。 「ミネルバⅡ」が壊れたの、私の所為だもん」
光は顔を伏せる。
「だからー あれは僕が悪いの。 さあ、もうこの話は終わり」
博美は光をきゅっと抱きしめた。
「(……うん……明日持って行こう……)」
光の肩を抱いて居間に戻りながら博美は心を決めた。
翌日曜日、博美は設計図をバッグに入れてヤスオカに来た。チームヤスオカのワンボックス車は既に駐車場に置いてあり、はね上げられたリヤゲートの下に新土居が居る。
「新土居さん、おはようございます。 設計図、持ってきました」
いつものように駐車場の隅にスクーターを止めると、博美はバッグを持ってワンボックス車の所に歩いて行った。
「おはよう、博美ちゃん。 もう持ってきたんだ」
にっこりすると新土居は設計図を受け取った。
「んじゃ、置いてくるからちょっと待って」
通用口から新土居が店に入っていく。
「あっ! 僕も行きます」
慌てて博美が追いかけた。中は店のバックヤードになっていて、補充商品や事務用品が積んである。新土居は隅に置いてある机の所に居た。
「あれっ? 「ミネルバⅡ」はここじゃないんだ……」
博美はキョロキョロ辺りを見渡す。
「ああ、「ミネルバⅡ」は工場に持って行ったよ。 今はパーツごとに乾燥させてる。 湿ってると接着剤が付かないし、後から狂ってくるからね。 多分一ヶ月ぐらいは乾燥させるよ」
鍵のかかる引き出しに設計図をしまいながら新土居が答えた。
「来週中にはコピー出来るから、今度の練習日に返せるね」
振り返ると新土居が事もなく言った。
「えっ! コピー?」
博美がキョトンと返す。
「あれ? 言ってなかったかな。 使うのはコピーだよ。 原図は大事に取っておくもんだから。 そういう訳で、原図は博美ちゃんが管理してて」
「な、なんだー 僕はもう無くなっちゃうんだと思ってたー」
ほっ、と博美が安堵のため息をついた。
「妖精の秋本の大事な設計図だろ。 妖精の娘である博美ちゃんが持ってるのが自然だからね」
新土居がウインクをする。
「新土居さん、ありがとうございます。 ほんと嬉しい!」
博美が新土居に飛びついた。
「悪い。 遅くなった、って えーーー」
ドアを開けて飛び込んできた森山が二人を見て固まった。
「ふ、不倫…………」
「ち、違うから。 そんなんじゃ無いから」
博美は新土居を突き飛ばした。




