最終責任は機長
太陽がまだまだ高い午後の早い時間、安岡のベンツに乗って博美は帰っていた。「ミネルバⅡ」の片付けも終わってすることの無くなった博美を安岡が送っているのだ。
「博美ちゃんのスクーターは、後から森山君が乗ってくるから」
黙って外を見ている博美に安岡が前を向いたまま話す。
「……はい……」
朝、博美はヤスオカ模型にスクーターで行ったので、そのまま駐車場に置いてあるのだ。明日もバイトに行くために使うので、わざわざ森山が店から運んでくることになっていた。
「……なんか……僕のために済みません……」
博美が顔を伏せた。
「なーに、全然気にしなくていいよ。 誰もが博美ちゃんのために何かをしてあげたいんだから。 スクーターを持ってくるのだって新土居君と取り合いしてた位だ」
思い出したように安岡が微笑む。
「喫茶店でバイトしてるんだってね。 博美ちゃんがウエイトレスしてるって……行ってみようかな。 きっと可愛いよね」
「そ、そんな……可愛いだなんて……」
伏せたままの顔が赤くなっている。
「修理代金って高いですよね……何とかして貯めなきゃ……」
「その辺は、今は分からないなー 新土居君が実際に作業してみないとね。 安くする方法を考えてあげるから」
そんなに高くはないよ、と安岡が博美を見た。
「……ただいま……」
博美が静かに玄関を開ける。
「はいはい。 あら? 博美、あんた早いわね」
小さな声だったにも関わらず、明美が玄関に出てくると、驚いたように声を上げた。
「どうしたの? 何かあった?」
只ならぬ博美の様子に明美が気が付いた。
「……お、お母さーーん!……」
突然、博美は明美にすがり付いて泣き始めた。
「どうしたの?」
博美を抱き返して明美が尋ねる。が
「…………」
博美は何も言わずにただしがみ付いているだけだった。
「ど、どうしたのかしら……」
胸に顔を埋めて泣きじゃくる博美を抱きながら、明美は困惑顔を後ろに居る安岡に向けた。
「……まさか乱暴されたとか……」
「こんにちは、奥さん。 まさかまさか、僕達が付いててそんな事は起きないですよ」
的外れな疑問に安岡が苦笑する。
「博美ちゃんが珍しく飛行機を落としちゃったんですよ」
「あら……そんな事が……博美、ショックだったわね」
明美が優しく博美の頭を撫でる。
「落ちたのって「ミネルバⅡ」?」
「……っう……うう、うん……」
博美の頭が明美の胸の中で縦に動いた。
「そう……残念だったわね」
明美は「きゅっ」と博美の頭を抱いた。
「でも飛行機だもの、事故だって起きるわよ。 誰にも迷惑は掛けてないんでしょ?」
ですよね、と明美が安岡を見た。
「ええ、川に落ちたので。 全くの自損事故ですね。 部品も全て回収出来ましたから、修理できますよ。 と言っても元どおりにはならないでしょうけど」
安岡が頷く。
「僕はこの辺で失礼しますね。 ちょっと用事があるもので……博美ちゃん、気を落とさないでね」
それでは、と安岡は帰って行った。
居間のソファーに二人座り、どうやら泣き止んだ博美の肩を明美が抱いている。
「……ミネルバちゃん、もう元どおりにはならないんだって……」
俯いたままで博美が零す。
「……機首は折れて……主翼は砕けてた……」
濡れたままの頬を新たな涙が伝う。
「……ミネルバちゃん、世界選手権に行きたかっただろうな……僕が連れて行ってあげるって言ってたのに……」
明美が博美の顔にハンカチを当てた。
「……僕が悪いんだ。 有頂天になって……そのくせ皆んなに頼り切って……それに気づかず……」
博美が明美からハンカチをもらった。
「……思えば、昨夜から送信機は教えてくれてたんだ。 フライトコンディションがオカシイって……」
「どういう事? 送信機がおかしかったの?」
ごしごし擦ろうとする博美から明美がハンカチを取り上げる。
「こすっちゃダメよ。 目が腫れるわ」
「うん…………設定がおかしくなってた。 エレベーターが逆になってたんだ……でも、それは僕がチェックすれば分かったことなんだ。 全部僕が悪いんだ……」
明美の肩に博美は顔を押し付けた。
「ただいまー!」
玄関から光の元気な声が聞こえてきた。パタパタとスリッパの音が近づく。
「あーー おなかすいたー」
食堂のドアが開くと同時に博美のお株を奪うようなセリフが聞こえてきた。真っ黒に日焼けした顔がのぞく。
「んんっ? どうしたの? 二人で」
ソファーに居る二人を見て首を傾げた。
「飛行機が落ちちゃったんだって」
明美が小さく答えた。
「ええー めずらしーい。 お姉ちゃんが飛行機を壊すなんて何年ぶり?」
無邪気な事を言いながら、光はテーブルの上にあったおかきを咥えた。
「博美の操縦ミスじゃないみたいよ。 送信機の設定がおかしくなってたんだって」
明美が未だ肩に押し付けられている博美の頭を撫でる。
「(っえっ!)」
奥歯におかきを挟んだまま光が固まった。
「(……昨日、私、お姉ちゃんの送信機をいじったわよね……)」
光は膝が「ふるふる」震えだした。ぽすんと台所の椅子に座る。
「(……ど、どうしよう……きっとその時におかしくしちゃったんだ……)」
力なく明美にもたれる博美を光は見た。
「私、着替えるね」
パタパタと光は二階に上がっていった。
「博美、お風呂に入って早く休みなさい。 明日もバイトがあるでしょ」
「うん。 いいの? 片付け手伝うよ」
「いいからいいから。 疲れたでしょ」
いつもより会話が少なく静かな夕食後、明美はテーブルの上の食器を重ねながら言った。
「私が手伝うよ。 お姉ちゃんはお風呂に行きなよ」
光が立ち上がる。
「あら珍しい。 それじゃお願いね」
いつもなら光はサッサとテレビの前に行くのだ。
「いいの? それじゃお先にお風呂に行くね」
博美は立ち上がると廊下に出て行った。
「……ねえ、おかあさん。 お姉ちゃん元気ないね。 飛行機が落ちたのが随分ショックだったのかな」
ドアが閉まるのを待っていたように光が口を開いた。
「そうね。 落ちたのがお父さんの「ミネルバⅡ」だから、余計でしょうね。 博美にとって「ミネルバⅡ」はお父さんと同じだったのね。 一緒に居るような気持ちだったんでしょう」
明美は食器をシンクに置きゴム手袋をはめる。
「私が洗うから、布巾で拭いてね」
「うん」
光が布巾掛けから布巾を取った。
「……おかあさん……私の所為なの…………」
「ん? 何が?」
洗った皿を渡しながら明美が答える。
「……うっ、ううう……お、落ちた・のは私・の所為なの……」
光の拭いている皿に涙が落ちた。
「……私の所為でお姉ちゃんが……おねえちゃんが…………おねえちゃんがー!…………」
皿を握ったまま光がしゃがみこんで泣き出した。
「……う、う、おねえちゃん、ごめん……うう、ごめんなさい……う、う、う、う、うううう……」
「どうしたの? 落ち着いて話してごらんなさい」
明美は横にしゃがむと皿を受け取った。
「泣いてるだけじゃ分からないわ」
皿をシンクに戻し、ゴム手袋を外すと、明美は光を立たせて食堂の椅子に連れて行った。
テーブルに顔を伏せて光は泣いていた。
「……そう、光が博美の送信機をいじったのね……」
途切れ途切れの光の言葉をようやく明美がつなぎ合わせた。
「(……困ったわ。 どうすれば二人が傷つかずに済むのかしら……)」
目を閉じて明美は暫し考えを巡らせた。
「(……ああ見えても博美は強い子よね……)」
可愛い顔に細い体ながら、博美は此処の所の環境の激変を上手く乗り越えてきている。
「光」
意を決して明美は呼びかけた。光がゆっくり顔を上げる。
「きっと博美は許してくれるわよ。 思い切って打ち明けて謝りなさい。 それが一番良いわ」
手を伸ばして明美は光の頭を撫でた。
「……ほんと?……おねえちゃん、許してくれるかな……こんなに酷い事したのに……」
さっきから握っている布巾で光は涙を拭いた。
「きっと大丈夫。 あなたのお姉ちゃんは強いわよ。 この失敗も成長の糧にするから。 もちろん少しの間は落ち込むでしょうけどね。 落ちたのを光の所為になんかしないわよ」
光の手から布巾を取り上げ、明美はハンドタオルを握らせた。
風呂から上がり、博美はパジャマのままで光輝の部屋に来た。今日の掃除は明美だったお陰でいつも以上に綺麗に掃除がされているようだ。ゆっくりと博美は飛行機を置いている棚の前に進む。春頃まで「ミネルバⅡ」のあった場所は空いている。それは当たり前の事なのだが、今日はその事が当たり前に思えず「ミネルバⅡ」が落ちた事を訴えているようだ。博美はそこに手を伸ばし、何もない事を確かめた。すぐ横には「ミネルバ」が置いてあり、博美の手がそれに触れた。
「……っつ!……」
慌てて博美は手を引いた。「ミネルバ」は「ミネルバⅡ」の1年前の飛行機だ。つまり「ミネルバⅡ」の姉にあたる。
「……ミネルバちゃん、怒ってるよね……僕の所為で妹が壊れたんだもんね……ごめんね……いくら謝っても取り返しつかないけど……」
博美は「ミネルバ」に手を伸ばし、カバーから出ているスピンナーを撫でた。
「……でも、これからは失敗しない。 皆んなに誓うよ」
博美は部屋を見渡した。光輝の残した沢山の飛行機が並んでいる。
「僕は絶対慢心しない。 ラジコンは遊びじゃない。 いつも真面目に取り組んでいく」
博美は一つ一つ、飛行機を撫で始めた。
「……おねえちゃん……」
開いたままだったドアから光が入ってきた。
「んっ? 何?」
こんな夕方というか殆ど夜と言って良い時間に光が光輝の部屋に来るのは珍しい。
「って、泣いてるの!」
真っ直ぐ博美を見ている光の頬が濡れている。
「ど、どうしたの? お母さんに叱られた?」
慌てて拭う物を探すが、この部屋にはティッシュしかない。博美は数枚引き出すと光に近づいた。
「お母さんがそんなに叱るなんて、珍しいね」
博美はそっと光の頬をティッシュで拭いた。
「目は擦っちゃ駄目らしいよ」
言いながら上から押さえるようにする。
「……ち、違うの……おかあさんは優しい……お、お姉ちゃんも優しい……」
目に当てたティッシュが見る見る涙で濡れる。
「……おねえちゃん……ご、ごめんなさい……飛行機が落ちたの、私の所為なんだ……」
「なんで光が関係するんかな? 「ミネルバⅡ」が落ちたのは送信機の設定がおかしかったからだよ」
濡れてしまったティッシュをゴミ箱に捨て、博美は新たにボックスから引き出した。
「……私、昨日、お姉ちゃんの送信機をいじっちゃたの……」
「えっ?……」
ティッシュを持つ博美の手が止まった。
「どういうこと? 光が送信機の設定を変えた? 何故?」
「……掃除してて……送信機を落としそうになって……何故だかスイッチが入っちゃったの……スイッチを切ろうとしてあちこち触ったの……その時だいじな所に触ったんだと思う……」
光は顔を覆ってしゃがみこんだ。
「……ご、ごめんなさい……私、怖かったの……かってに触って怒られるんじゃないかって……ごめんなさい……こんな事になるなんて……」
「……そんな……」
博美は手に持ったティッシュを握り締めて目を瞑った。
「……ふう……」
一つ息を吐いて博美は光の傍にしゃがんだ。そっと肩を抱く。
「大丈夫だよ。 怒ったりなんかしないから。 「ミネルバⅡ」が落ちたのは僕が悪いんだ。 飛行機の危険性を十分認識せず、慢心してた所為なんだよ。 光は悪くない。 事故の最終責任は機長である僕なんだ」
ティッシュを広げて博美は光の涙を拭いた。
「……お、お兄ちゃん。 やっぱりお兄ちゃんは優しい。 優しすぎるよーー……」
両手を広げて光が博美に抱きついてきた。
「……おにいちゃーん……おにいちゃーん……」
「(……今はお姉ちゃんなんだけど……)」
博美も光を抱き返す。
「(……まっ 久しぶりにお兄ちゃんも良いかな……)」
「(……どうやら大丈夫だったようね……)」
食堂の椅子に腰掛け聞き耳を立てていた明美は、安堵の溜息をついた。




