墜落
小松を助手に井上がフライトするのを博美は離れて見ていた。
「(……まっ、約束は選手権までだったけど……)」
今日はいいから、と博美は助手をさせてもらえなかったのだ。
「(……久しぶりなんだから……させてくれてもいいのに……)」
分かってはいても博美は面白くない。
「博美ちゃん、お待たせ。 これで大丈夫の筈だよ」
「ミネルバⅡ」の横で森山が呼んだ。
「あっ、はい。 どうでした?」
先ほど博美が「ミネルバⅡ」のエンジンを掛けたところパワーが出なかったのだ。
「うん。 ちょっと長く置いてあったからオイルが固まっていたようだね。 ポンプの動きが悪くなってた。 それとシリコンゴムに割れがあったから取り替えたよ。 この辺は俺のミスだ。 ごめんね順番が後になっちゃて」
「ミネルバⅡ」はヤスオカに置いてあるので博美は整備が出来ない。それで森山が整備することになっているのだが、忙しくて出来なかったようなのだ。
「いいぇ。 別にいいですよ。 珍しいですね、土曜日は休みじゃなかったんですか?」
今日は日曜日。森山は昨日の土曜日も休みだった筈だ。
「博美ちゃん。 こいつはデートだったんだよ」
何時の間にか新土居が横に居た。
「えええーーーーー! デートーーーー!」
博美の声に飛行場に居た全員が振り返った。井上まで振り向いたものだから「ビーナス」があらぬ方に飛んでいく。
「誰、相手の方は誰です?」
博美が森山の袖を引っ張る。
「ちょ、ちょっと。 博美ちゃん、落ち着いて……」
森山はバランスを崩してよろめきながら新土居を睨んだ。
「新土居さん。 黙っといてって言いましたよね」
「しらん。 先輩の俺を差し置いて彼女を作りやがって。 地獄に落ちればいいさ」
何時に無く新土居が冷たくあしらう。
「新土居さん、それは酷いですよ。 そんな事言ってると自分に帰ってきちゃいますよー んっで、森山さんの彼女さんって誰? 僕も知ってます?」
剣呑な二人の間に博美が割り込んだ。
「ああ、博美ちゃんも見たことあると思うよ。 前に……」
新土居が言いかける。
「お店に集まった事があったよね。 あの時篠宮君と来た従姉弟の純子さん」
それに森山が声を被せた。
「知ってますー 僕、あの前にも免許センターで合ってるんです。 そっかー 純子さんってすっごく元気な人ですよね。 森山さんって大人しいから、振り回されそうですね」
博美が「にこー」っと笑う。
「そ、そうだね。 そんなに振り回されてはいないと思うけど……」
「ちぇっ! お前なんか振り回されて倒れちまえ。 惚気なんか聞きたくないよ」
新土居がぶつぶつ言いながら離れていった。
「新土居さん、荒れてますね。 いいのかなー?」
博美が笑顔から心配顔に変わる。
「大丈夫じゃないかな。 ああ言いながらも、気にしてくれてるから」
照れ隠しだよ、と森山が新土居を見送った。
「離陸しまーすっ!」
加藤を助手に博美が操縦ポイントに立って声を上げた。篠宮の手を離れて「ミネルバⅡ」が滑走路を走り始める。
「これまでのパターンでいいんだな?」
加藤がメモを見ながら聞いた。
「うん。 今日はそれでいいよ。 新しいのは未だ覚えてないんだ」
世界選手権の行われた今年で之までの演技は終わり、来年からは新しい演技に変わるのだ。既に新しい演技は公開されていて、選手は夫々に解読をしている筈だが、博美はまだ全然それをして無かった。
「それで良いんか?」
春の予選からは新しいパターンになるというのに、のんびりしたものだ。
「だってメンドクサイんだもん。 誰かが飛ばすのを見たほうが早いから……」
「ミネルバⅡ」がテクオフシーケンスを飛び、センターをデッドパスする。
「うーん。 良い調子。 全然狂ってない」
軽快なエンジン音で「ミネルバⅡ」は「ハーフ リバース キューバンエイト」をした。
もう慣れたもので「ミネルバⅡ」は順調に演技をこなし、中盤に入った。高い位置でロールをし、直後に逆宙返りをする。「ミネルバⅡ」は低い位置の背面飛行を始めた。
「45度上昇 11/2スナップロール」
加藤が後ろで次の演技を確認する。
「んっ」
軽く頷き博美はフライトコンディションを切り替えた。スナップロールは無理やり飛行機を失速させるために舵を限界まで大きく動かす必要がある。しかし、その状態での通常飛行は舵が敏感すぎて飛ばせない。そのため送信機にはスナップロールスイッチが装備されている。それを使えばスイッチ一つで飛行機はスナップロールをするのだ。だが欠点もある。いつも同じだけ舵が動くので風などの気象条件に対応できないのだ。そこで博美はスティックを手で動かしてスナップロールをしている。そこで役に立つのがフライトコンディションという訳だ。つまりフライトコンディションを切り替えることで舵の効き具合を変える。スナップロールの演技前に切り替え、終わったら元に戻すことで博美は強風だったり乱気流だったりの影響を打ち消している。
「(……今!……)」
博美はセンターに来るタイミングを合わせて45度上昇させるためエレベータースティックを押した。とたん「ミネルバⅡ」が機首を下に向けた。
「(えっ!)」
背面飛行をしているのだから、エレベーターのダウンで機首が上を向くはずだ。スティックを押せばエレベーターはダウンに動くはず。つまりスティックを押せば機首は上を向くのが当たり前なのだ。無意識に博美はスティックをさらに押していた。低い高度を飛んでいた「ミネルバⅡ」は更に機首を下に向け、滑走路の正面に生えている葦の向こうに消える。パッ、と飛沫が葦の上に見えた。
「バーーン!」
一瞬遅れて炸裂音が響いてきた。
「(……え?……)」
気がつくと博美は操縦ポイントに一人で立っていた。
「(……康煕君……)」
正面に見える葦原に分け入って行く人の群れが見える。その中に加藤も居た。
「(……康煕君、どこに行くの? 僕の助手じゃなかったの……)」
追いかけようとするが博美の足は動かなかった。
「博美ちゃん、しっかりして。 みんなが行ったから見つけてくれるよ」
篠宮が博美の肩を叩く。
「……えっ! し、篠宮さん。 見つける?」
はっ、として博美は空を見渡した。
「……「ミネルバⅡ」がいない……」
篠宮が頷く。
「……そんな……落ちた……「ミネルバⅡ」が落ちた……いやーーーーー!」
博美の悲鳴が飛行場に響いた。
「……そんな、そんな……」
いつしか博美は加藤たちを追って葦の中を走っている。
「(……っつ、康煕君何処?……)」
意外と葦原は幅がなく、博美は川岸に飛び出した。川面を見渡すと遠くに何かが浮いていて、左の方に小さなボートが浮かんでいる。
「(……あ! あれかな?……んー 康煕君は乗ってない……あっ! 居た……)」
博美の立っている場所から左手の川岸に加藤が立っていて、ボートを見ていた。
「康煕君。 「ミネルバⅡ」はどこ?」
博美は加藤側に駆けて来た。
「博美、来たのか……「ミネルバⅡ」はあそこだ……」
加藤がボートの進行方向を指差す。それはさっき博美も見た浮いている何かだった。見るとゆっくり流れていくようだ。
「あ、あれがそうなの? ねえ、康煕君」
博美は加藤の袖にしがみついた。
「ああ、残念だが「ミネルバⅡ」は川に落ちた。 今、あのボートで新土居さんと森山さんが救出に行ってる」
ヤスオカの飛行場は河川敷にあるので、往々にして墜落すると川の中ということになる。20年ほど昔、泳いで取りに行ったクラブ員が溺れてしまう事故があった。それ以来、小型の手漕ぎボートをクラブで用意してあるのだ。
「(……森山さん、頑張って……)」
いつの間にか「ミネルバⅡ」は博美の立っている位置より下流に流されていた。それを追って森山がオールを動かしている。
「……「ミネルバⅡ」は大丈夫かな……」
博美がつぶやいた時、ボートが「ミネルバⅡ」に追いついた。新土居が体を船べりから乗り出してすくい上げる。中に入っていた水が流れ落ちるのが見えた。
「(……えっ! 機首が……な、無い……)」
持ち上げられたシルエットには主翼の前が無かった。森山がボートの向きを変えて此方に漕ぎ始める。
「(……そ、そんな……エンジンが……無くなっちゃった……お父さん、ごめんなさい……お父さんの「ミネルバⅡ」を壊しちゃった……ごめんなさい……ごめんなさい…………)」
「おい、博美! どうした?」
博美が加藤にしがみ付いたまま、ずるずると落ちていく。
「おい、しっかりしろ!」
慌てて加藤が膝の下に腕を差し込み持ち上げた。つまりお姫様抱っこである。博美はショックのあまり気を失っていた。
私もフルサイズのスタント機を落とした事があります。
原因は作中でも触れた「スナップロールスイッチ」の設定ミスでした。
ネガティブスナップの筈がポジティブスナップになっていたのでした。
全日本大会で使った1番機でしたので、その時のショックは大変なものでした。




