フライトコンディション
「いってきまーす!」
9月最初の土曜日、朝早くから博美が出かけていく。
「行ってらっしゃい。 忘れ物は無い? 気をつけて行ってね」
玄関先に出た明美が博美の乗ったスクーターを見た。スクーターの荷台には何も載ってない。
「大丈夫だよー 今日はラジコンじゃなくてバイトだから。 荷物はこれだけ」
博美がスクーターの前籠を指差した。そこには小さなバッグが入っている。高専の夏休みは変わっていて、9月になってもまだ終わらないのだ。博美は毎日ラジコンをしても良いのだが、チームヤスオカの新土居と森山は仕事があるので平日は博美を飛行場に連れて行けない。暇になった博美は国道沿いの喫茶店でアルバイトを始めた。そしていざ始めると、土曜日か日曜日のどちらかは出てくれと頼まれてしまったのだ。
「んじゃ、いってきます」
手を振ると博美はグリップを捻る。元気良くスクーターは道路に出て行った。
「(……ちゃんと仕事をしてるのかしら。 そろそろ慣れてきて失敗なんかするころよね……)」
道を曲がって見えなくなるまで明美は博美を見送った。
壁に付けられた棚に何機ものラジコン飛行機が乗っていて、机の上には部品や送信機が置かれている。元は和室だったはずなのに畳が退けられ、板張りになった部屋。そんな物置のような部屋の扉が外から開かれた。
「……お姉ちゃんは良いなー 9月になったのにまだ夏休みだなんて……」
愚痴をこぼしながら入ってきたのは日に焼けた少女、光だ。手にはハタキや雑巾を持っている。
「……バイトだって出来ちゃうし……」
ぶつぶつ文句を言いながらも光は棚の上にハタキをかけたり雑巾で拭いたりする。光輝が死んでから残った家族3人で順番に部屋を掃除していて、今日は光の当番だ。2年もしていればもう慣れたものだった。
「……っと、 あっ!」
その慣れがあった所為かもしれない、光の持ったハタキが机の上の送信機に引っかかった。送信機が宙を舞う。
「やっ!」
光はハタキを放り出すと送信機に向かってダイビングした。
「痛い……」
床は板張りだ。膝を打ち付けて光が転がった。
「ピロン……」
床すれすれでキャッチした送信機が可愛い音を立てた。目に涙をためて光が送信機を見ると電源が入っていて、スクリーンが点いている。
「(……え? スイッチってどこ……)」
凝ったデザインの送信機はスイッチの位置が分かりにくい。光は送信機の肩や正面に付いているスイッチを慌てて動かした。
「ピロン……」
スクリーンが切り替わる。さっきまでと違って光には意味不明なアルファベットや数字が並んでいた。
「(……やばい、やばい……ど、どうしよう……こ、この辺とか触ったら戻るかな……)」
光はスクリーンを人差し指で触ってみた。それに反応して数字や文字が変化する。
「(……これじゃ無い……ま、待て待て……ここは慌てちゃいけない……えーと、説明書なんかは無いのかな?」
送信機を机の上に置くと光は部屋の中を探し始めた。
「(……無い……無い……あーーー もーーー お姉ちゃんに電話しようか)」
彼此30分程も探しただろうか、結局見つからずに光は送信機を見た。
「(……あれっ! ここって動くの?)」
落ち着いてみると、送信機の中央にスライドする部分がある。
「(……これで最後。 動かしてみて、ダメだったら電話しよ)」
光は指を当て、ゆっくり力を入れる。
「……やったー 切れたー!」
パチッ、という音とともにスクリーンが暗くなった。
「バンザーイ! よかったー」
光は送信機を机の上に戻し、部屋を出て行った。
「博美ちゃん。 上がって良いよ」
喫茶店のマスターが時計を見て博美に声をかけた。
「はーい。 分かりましたー」
コーヒーカップを拭きながら博美が返事をする。
「えーー 博美ちゃん、もう終わり? んじゃ俺も帰ろうかな」
「もう3時かー ちぇっ、帰るとするか」
「博美ちゃんが居ないんじゃ居ても仕方が無いもんな」
「博美ちゃん、送っていこうか」
・
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昼前から居座っていた客が次々に席を立つ。
「おい、おまえら。 何で今になって帰るんだ。 ランチ時に居座っておいて」
マスターがレジに立って喚く。
「あったりまえだろ。 俺たちは博美ちゃんを見にきてるんだ」
「博美ちゃんがいない店に魅力は無いね」
「博美ちゃん。 明日は居るんかい?」
奥に入ろうとする博美に客の一人が聞いた。
「ごめんなさい。 明日は休みなんです」
振り返って博美が答える。
「なんだー 居ないんかい。 じゃ、明日は別の店だな」
「おい、ちょっと待て。 なんで博美ちゃんの居る、いないで判断するんだ」
マスターが客の腕を掴んだ。
「簡単なことだ。 博美ちゃんがいる、これによりこの店は差別化される。 居なければ差別化されない」
分かりやすいだろ、と客は財布をしまった。
「あは、あははは……」
奥に入るドアの前で博美は固まった。
「ただいまー」
「おかえり。 遅かったわね」
博美がバイトから帰り玄関を開けると明美が立っていた。
「3時までじゃなかった?」
玄関に置いてある時計は4時を過ぎている。
「うん。 ちょっと引き止められちゃって……」
なんとか日曜日も出てくれないかと喫茶店のマスターが泣きついてきたのだ。
「(……飛行機を飛ばしに行く日が無くなっちゃうもんね……)」
当然の様にそれを断って帰ってきたのだが、4時までバイトをすることになってしまった。
「バイト代を割り増しするから4時までしてくれって。 OKしたけど良いよね?」
着替えるね、と博美が階段を上る。
「まあ、あんたが良いならいいけど。 ちょっと働きすぎじゃない? 9時間労働よ。 ブラックバイトじゃないわよね」
明美は階下に残った。
「マスター、良い人だから大丈夫だよ。 着替えたら直ぐに下りるね」
博美は自室のドアを閉めた。
夕食後、博美は光輝の部屋に来た。「ミネルバⅡ」はヤスオカに置いてあり整備は森山がしてくれるが、送信機と受信機の充電は博美がして持って行くのだ。
「(……あれ? 送信機ってこんな風に置いてあったかなー……)」
夕べ博美が机の上に置いた場所と位置が変わっている。
「(……掃除するときに退けたのかな……ま、いいか……)」
博美は送信機を手に持つとスイッチを入れた。
「ぴぴぴぴぴ……」
スイッチ異常の警報が鳴る。博美はスクリーンを見た。
「(んーっと。 フライトコンディション異常?)」
それ一つで複数のファンクションを変化させるスイッチが「ノーマル」位置にないことの警報だ。博美は左肩のスイッチを向こう側に倒した。ピタリと警報が止まる。
「(OKっと。 後は問題ないね)」
スティックを動かし、簡単にチェックをして博美は充電器を繋いだ。
「うーーん。 久しぶりだー」
ヤスオカの飛行場で博美が両手を斜めに上げて背伸びをしてる。何やかやと用事があって、ここにくるのは3週間ぶりなのだ。
「おはよう。 博美ちゃんが居なくて、最近飛行場に色が無かったよ」
チームヤスオカのワンボックス車を見て笠井が歩いてきた。
「おはようございます。 何ですか? 色って」
んっ? っと博美が首を傾げる。
「見てごらんよ、男ばかりじゃないか。 博美ちゃんは荒地に咲く一輪の花って訳だ」
芝居がかった仕草で笠井が辺りを見渡した。
「まあまあ、その通りだが。 笠井さんも毒されちゃったかな」
ワンボックス車の向こう側から安岡が現れた。
「おはようございます、安岡さん。 来てらしたんですね」
博美が「ぺこり」と頭を下げる。
「博美ちゃん、おはよう。 久しぶりだね。 今日は良い天気でよかったね」
にこにこと安岡が言う。
「その所為か、今日は大勢来たようだ」
飛行場の入り口を安岡が見た。そこには井上のレガシィと小松のフィールダー、篠宮の新しく買ったタントが並んでいた。
チームヤスオカのワンボックス車から張ったタープの下に「ミネルバⅡ」を置いて、博美がチェックをしている。
「(……エンジンはこれでOKかな?……)」
よいしょ、と博美は裏返しだった「ミネルバⅡ」を直した。送信機を取り出しスイッチを入れる。
「ぴぴぴぴぴ……」
警報が鳴った。
「(……んっ? フライトコンディション?……なんか夕べもこんな事あったなー)」
フライトコンディション切り替えスイッチが「ノーマル」でない事の警報だ。すぐさま左肩のスイッチを操作して博美は警報を止めた。受信機の電源を入れスティックを操作して舵の動きを見る。
「(……OKっと……燃料入れよう)」
博美はテーブルから「ミネルバⅡ」を降ろして滑走路を見た。森山を助手にして笠井の飛行機が離陸して行った。
中途半端ですが、長くなりそうなので……
ラジコンの送信機もコンピューター化していて多機能になっています。
そしてその機能を操作するためにスイッチが幾つも付いています。
結局、いちいち操作するのが大変なのでワンタッチで複数の機能を操作するスイッチが在る訳です。
そうしてまたスイッチが増えていく……




