小娘になんか負けるわけ無い
井上の「ビーナス」が演技フレームぎりぎりの高さに止まっている。いや、止まっているのは地面に対してであって、今吹き荒ぶ風に対しては進んでいる。
「……くっ！……くっ！……」
そして「ビーナス」を空中に静止させるため、激しく上下左右に引かれるシャツに合わせて井上は送信機のスティックを操作していた。
「もうすぐ風が「息」します。 そのタイミングでスピンに入れてください。 出来れば右に」
背中に張り付くように立った博美がシャツを引っ張りながら井上の耳元で言った。
「……んっ……」
空を見つめたまま井上は短く答える。
「今！」
博美の声と共に「ビーナス」は失速して機首を下げ、次の瞬間には右の翼を落とした。
「……おー……」
「……上手い……」
「……うーーん……」
「……何故だ……」
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操縦ポイントの後方に立って井上の演技を見ていた選手達から感嘆の声が上がる。
「（どうしてこの風の中機体が揺れない？ 妖精のリード？ 訳が分からない）」
博美のフライトでないから、と見ていた本田も驚いていた。
「本田君。 勝てるか？ こりゃ強敵だぜ」
横に立って見ているチームメイトが空を見たまま尋ねる。
「そうですね。 確かに上手く処理してます。 でも俺だって審査員にばれない様に修正出来ますよ。 例え負けてもボロ負けはしません」
フライトエリアＡに居る全員の注目の元、井上の演技は「四角宙返り」まで進んだ。ただ空中に四角形を描くだけの演技なのだが、風が吹いていると途轍もなく難しくなる。
「今のところシェアーは在りません。 上から下まで向きは同じ風です」
博美が素早く空全体を見渡した。
「……んっ……」
やはり短く答え、井上は「ビーナス」の背面飛行を続ける。前風（操縦者に対して）に対処するため「ビーナス」は機首を右に振っている。もっとも背面飛行なので、もし「ビーナス」にパイロットが乗っていれば、左に振っていると言うかもしれない。
「今、センター」
気流の揺れを井上のシャツに伝えながら博美がフレームのセンターを確認した。
「もう直ぐ…………はい、今」
これから描く四角形を予想し、博美が演技開始点を示す。エンジンをスローにしながら「ビーナス」は背面飛行からエレベーターアップによりコースを下に向ける。それに合わせ井上は補助翼を左に当てた。それにより「ビーナス」は螺旋を描くことになる。しかし風に押される事によりその螺旋形は潰され、結果として「ビーナス」は横風の中、仮想垂直面で宙返りをした。機体が垂直になる手前で「ビーナス」は宙返りを止める。風に流される分、少し機首を風上に向けておかなければいけないのだ。それと同時に井上は方向舵を使い、機首を自分から見て向こう側に向ける。
「ロール」
「ビーナス」のロールレートと今描いている四角形の大きさを考え、博美が横転のタイミングをコールした。井上がエルロンスティックを右に倒す。
「ダウン」
1/2ロールをした「ビーナス」が垂直姿勢を見せると、すかさず逆宙返りのタイミングを博美が言う。先ほど上空で行った操作を、今度は低空で行うのだ。これを四角形の全ての角と辺で行い、やっと「四角宙返り（スクエアーループ）」が完成する。
全ての角が直角、全ての辺の長さが同じ、宙返りの半径が同じ、ロールが辺の中央で行われていてロールレートが全て同じ、当然開始時と終了時の向きと高さは同じ……これらを全て満足しなければ満点は望めない。一つのミスが他に影響して加速度的に減点を増やすのがこの演技だ。
追い風に乗ってスピードの上がった「ビーナス」だが、井上は焦る事無くロールをセンターに合わせた。
「……上手いなー……」
「……センターぴったりだぜ……」
「……この風の中、よく合わせられるよな……」
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土曜日と在って、見ている観客は昨日より増えている。殆どがマニアであり、風の中の演技が如何に難しいか知っていた。
井上が拍手に迎えられて演技を終えた後も次々と選手がフライトをする。しかし風は弱まらず、殆どの選手は何かしら失敗をしていた。
「……こりゃ今日は井上がトップか？……」
「……ああ。 しかし凄いよな。 たしか去年は出てなかっただろ？」
「おい、本田がまだ飛ばしてないぜ。 たしか奴もフライトエリアＡだろ」
「……そうだな。 本田なら上に行くかもなー 見逃せないな」
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「井上さん。 噂になってますよ」
フライトエリアＢに向かって歩いている井上に篠宮が告げた。これから飛ばす真鍋の助手をするために移動してるのだ。午後のフライトがＢなので加藤が「ビーナス」を肩に掛けて後ろを付いてきている。
「ほんと、さっきのフライトは凄かったですよね」
まるで他人事のように博美が井上の顔を覗き込んだ。
「よく言うぜ。 博美ちゃんが後ろから俺を操ってたんだろ？ バレたら失格かもよ」
井上が博美の立ってる側の口角を上げる。
「え・え・え…… ほんと？ 失格になっちゃうの？」
博美が両手で口を押さえた。
「冗談だよ。 分かる訳ないだろ」
後ろで加藤が呆れていた。
「あいつ達は行ったか？」
フライトエリアＡをぐるりと眺めて本田が呟く。
「おいおい、何時まで気にしてんだ？ お前の実力なら関係ないだろ」
助手をする年上のチームメイトがそれを聞きつけた。
「（俺の実力が上だって？ とんでもない。 あの妖精は凄い。 今はとても勝てる気がしない…… 選手として出てないのが俺にとって幸運なんだ。 今回がチャンピオンに成る最後のチャンスかもしれない。 来年あいつが出てきたら俺はチャンピオンでいられないだろう）」
「如何した？ いきなり黙って…… もう精神集中か？」
答えもせずに空を見ている本田にチームメイトが冗談を飛ばす。
「（はあ…… この人は……） いえ、ちょっと考え事を……」
能天気に勝利を信じているチームメイトに本田は本心を言えなかった。
「ちょっと休みます。 あと二人、という所で呼んで下さい」
本田は車の裏に用意したタープに向かった。
雨でぬれた滑走路を本田の複葉機が離陸していく。本田がタープの下で休んでいる間に雨で競技が2時間ほど中断していたのだ。その雨が上がった後、風が少し弱くなり、気温も少し下がっていた。胴体のボリュームが大きな複葉機はやはり風に弱い、その点で言えば本田にとってこれはチャンスだ。
テイクオフシークエンスの後、複葉機は演技位置である前方150mよりも近くをデッドパスする。静かなエンジン音も相まって、まるで実機が飛んでいるようだ。やがてフレームぎりぎりまで行くとゆったりと機首を上げ、スプリットＳを始めた。
コンパクトなスプリットＳターンをすると複葉機は何時の間にか理想的なフライト位置に移動していた。そのままセンターの手前まで来ると、徐に1/4宙返りをしてセンター上を垂直に登っていく。
「（……くっ！ 途中で風向きが変わりやがる……）」
傍から見ると風など吹いていないように飛んでいるがその実、本田は風に流される複葉機の微妙な動きを感知して素早く修正をしているのだ。
「ハーフクローバーリーフ」の演技が終わり水平飛行に移ったとき、複葉機は僅かに演技位置がパイロットに近づいていた。本田は方向舵を使い、審査員に気が付かれないほど僅かに機首を風上に向ける。これにより、次の「ストールターン」が風に流されサイドフレームからはみ出すのを防ぐと共に、さらにその次の「3/4ポイントロール」の演技が近くなるのを防ぐことが出来る。
「（……何時もながら上手いこと修正するじゃないか。 これが出来るのは本田だけだろう。 あんな小娘になんか負けるわけ無いのにな……）」
本田のチームメイトは助手をしながら感心していた。
第3ラウンドのフライトが全て終わり、選手達がフライトエリアＡにある本部テント前に集まっていた。
「進行上、お願いしたいことがある」
成田が前に立ち、話を始めた。
「先ほど、雨の所為で中断したために第4ラウンドを行う時間が無くなってしまった。 よって、予選は第3ラウンドまでとしたい」
一旦言葉を区切り、成田は選手達を見渡す。
「つまり皆さんの成績は3ラウンド中、ワーストのラウンドを外した2ラウンドの合計となる。 それでいいだろうか」
「……それでいいぜ……」
「……異議なし……」
「……仕方ないな……」
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次々と肯定の声が上がる。
「……ちょっと待ってくれ……」
が、一人意義を唱える声がした。
「んっ？ 関西の木藤さんか。 なにか問題が？」
成田がそれを聞きつけた。
「今日は朝の無風から強風、雨が降って一旦風は弱まったが今はまた強風。 と天候が安定してなかった。 これはフライト順で不公平に成ってるんじゃないか？ ここは今日のラウンドは採用せずに第1、第2ラウンドだけで順位を付けたらどうだろうか」
井上が不仲だと言った男が言う。
「そうだ、そうだ」
「確かに不公平だよなー」
木藤と言われた男の周りで賛成の声が上がる。
「（ちっ！ あの野郎…… 自分の成績が悪いのを天気の所為にしやがって）」
離れて立っていた井上が顔を顰めた。
「（取り巻きも取り巻きだ。 お前らには関係ないだろう）」
周りに立っている大多数も白けた顔だ。
「つまり木藤さんは風が吹くと成績が悪くなる、と言うんだな？」
成田の声は落ち着いている。
「当然だろう！ それが普通じゃないか。 なあ」
「そうだそうだ」
「当然だよなー」
木藤の言葉に取り巻き達も声を合わせる。
「それじゃ、それが当然でないことを証明してみせよう」
成田が口角を上げる。
「15分待ってくれ。 それで分かるだろう」
一旦解散、と成田はテントに入っていった。
