中止じゃないか?
「ミネルバⅡ」の傍に立ち、博美は空を見上げていた。少し離れたテント前で成田が選手たちに話をしている。
「(うーーん。 なんだか空気が湿ってるなー あの西に見える雲も気になるし)」
選手権会場は今日も朝から良い天気で、朝日が明るく滑走路を照らしている。しかし博美は昨日と違う雰囲気を感じていた。
「(風は落ち着いてるんだけどなー)」
今は殆ど風も無く、絶好のフライト日和だ。
「それじゃ、始めよう。 5分後に目慣らしだ」
成田の声が聞こえ、選手たちが解散したのが見えた。これから飛ばす博美の演技が今日の基準となる。否応無く博美に緊張感が押し寄せてきた。
「大丈夫だ。 俺が付いてるからな」
加藤が後ろから「ぽんっ」と博美の肩を叩く。
「うん、ありがとう」
にっこりと博美が振り返った。
「んっ? 今日は随分落ち着いてるな。 慣れたんか?」
肩に手を当てたまま加藤が博美を見下ろす。
「そうなのかなー 緊張はしてるよ? でも「あがり」はしてないみたい」
再び博美は滑走路を見た。
「慣れというのは大きいぜ。 「あがる」と普段の力が出ないからな」
「ミネルバⅡ」の後ろに真鍋がやって来た。それと共に周りに選手が集まってくる。
「妖精ちゃん。 お手柔らかに頼むよー」
「そうそう。 あんまり上手に飛ばされるとオジさん困るから」
「何言ってんだよ。 あんたはそんなの関係ないだろうがー」
「ははは。 うるせーよ。 どうせ俺はずっと下に潜ってるよ」
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皆口々に冗談を言って笑っている。
「えー なんで皆さん、そんなに楽しそうなんですか?」
昨日のフライト前とは真逆の雰囲気だ。
「なーに、皆んな博美ちゃんには敵わないって分かったからさ。 だから目慣らしっていうよりデモフライトだね」
機体をサポートする姿勢を取りながら真鍋が笑った。
朝日を受けながら「ミネルバⅡ」が演技をする。低い位置からの光はまるでスポットライトを当てたように機体の姿勢をハッキリ見せていた。メリハリの付いた、それでいて滑らかな宙返り。数ミリの上下動も無い水平ロール。ポーズの必要な場所はしっかり止め、ポーズの不要な場所は寸時の停止も無い。演技フレームの位置による視差を考慮した図形。これらの正確な演技の中にあって尚、見る人を惹きつける芸術性。
「(こいつは凄えや。 妖精の秋本を超えたんじゃないか)」
本部テントの前に立って成田は博美のフライトを見ている。
「(まいった。 減点が無い)」
安岡はセンターのジャッジ席で呆れていた。
「(俺は何も見ないぞ!)」
そして本田はヘッドホンを付け、目を瞑って車の陰に座っているのだった。
最後の演技を終え「ミネルバⅡ」が着陸する。
「ふーー 有難う御座いました」
博美が振り返り、にっこりと審査員にお辞儀をした。
「うおーー」
「すげーー」
「妖精ちゃーん」
「可愛いーー」
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朝日のスポットライトを浴び、ステージに立つスターのように博美は輝いていた。
今日は予選の第3、第4ラウンドが行われる予定だ。井上の第3ラウンドはフライトエリアAの4番目で、第4ラウンドはBの18番目のフライト順になっていた。
「井上さん。 今日は移動しなくていいから楽ですね」
例の如く準備の済んだ「ビーナス」の前に置いた椅子に座って目を閉じている井上に、博美が話しかける。
「ああ。 ゆっくりできるな」
目を閉じたままの井上が答えた時、1番目の選手がエンジンを始動した。
「今日は風が弱いですね。 って、え!」
上昇していく飛行機を見た博美が空の異変に気がついた。
「い、井上さん、おかしいですよ。 上空に風が出てきました。 物凄いシェアー(風の変化)です」
井上の横にしゃがみ、小さな声で博美が言った。その声に井上が目を開ける。
「本当か? それじゃ今日が勝負になるな」
井上は飛行が見やすくなるように椅子のリクライニング量を調整した。
1番の選手がPターンをして演技開始地点に飛行機を誘導してくる。センターの少し前で機首を上げ「ハーフ・クローバーリーフ」の最初の機動である1/4宙返りをして垂直上昇に移った。綺麗にセンターを登っていく。ところがもうすぐ逆宙返り、という位置で急に飛行機が姿勢を崩し横にずれていく。しかも補正の難しい操縦者の方向だ。
「えーーー」
「あーーー」
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1番目の演技なので、見ている人が多かったのだろう、飛行場中からため息や悲鳴が聞こえて来る。選手はラダーを使って懸命に立て直そうとしているが、心の準備が出来ていなかった所為で、とても演技とはいえない飛行になってしまった。
元気なく1番目の選手がピットに帰っていく。最初の演技の躓きは彼の心を折るのに十分だったのだ。
「気を落とすなよ。 まだ終わったわけじゃ無い。 これを捨てラウンドにすればいいさ」
隣を歩く助手の励ます声が、次の飛行機の離陸を見ている博美たちに聞こえた。
「井上さん。 シェアーの高さが低くなっています」
空を見たまま博美が小声で言う。
「そうか。 こりゃこのラウンドは捨てラウンドか?」
井上もまた離陸していった飛行機を見ながら答えた。
2番目の選手はシェアーを警戒して飛行機を演技開始位置に誘導するため「スプリットS」ターンを始めた。これは一旦飛行機を上昇させるので、上空の風の様子を確かめることができる。風下サイドいっぱいで上昇していく飛行機は途中から「ぐらぐら」揺れ始め、コースがずれていく。
「おおーーー」
「なんだーーー」
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またもやギャラリーから声が上がる。
「あんなに吹いてるんかー」
「おいおい、このラウンドはダメか?」
「地上は無風なのになー」
「妖精ちゃんの時は吹いてなかったのになー」
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彼方此方から話し声がしている。
「井上さん。 シェアーはどんどん下がってますよ。 もうすぐ地上でも風が吹きます」
博美は揺れながらも演技を続ける飛行機を見つめている。
「そうか、まだまだ変化するって訳だな」
井上は椅子をリクライニグさせ、目を閉じた。
着陸した飛行機をホルダーが回収したのを確かめ、3番目の選手がエンジンを始動する。その横に加藤が「ビーナス」を置いて待機している。エンジン始動ピットが空いたなら、すぐに「ビーナス」をセットしてエンジン始動の準備を始めなければならない。三番目の選手の飛行機はエンジンの調子も良く、滑らかに離陸滑走を始めた。その時「ゴウ」という音とともに砂埃が舞い上がった。一瞬視界が閉ざされたが、続く風がそれを吹き飛ばした。見ると無事に飛行機は離陸しており、テイクオフシーケンスを飛んでいる。しかし強風に押し流され、150mの演技位置を大きく外れていた。
「なんだーー」
「こりゃ酷い!」
「よく無事に上がったなー」
「中止じゃないか?」
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選手の中から中止という言葉が出始めた。誰もが悪天候で飛ばしたくはないのだ。
「風速8メートルだ。 このラウンドは成立するぞ!」
本部テントから飛び出してきた成田が風速計を差し上げて風に負けないように叫んだ。世界選手権では少々の風など中止の対象にならない。経験のある成田には中止など考えられなかった。
「加藤くん、準備をしよう。 「ビーナス」を置いてくれ」
井上の声は落ち着いている。風に煽られる「ビーナス」を加藤はエンジン始動ピットにセットした。
「危ないんで、ずっと離さないでいます」
そのまま加藤はしゃがみこみホールド姿勢をとる。
「OK そのまま持っていてくれ」
井上は送信機と受信機のスイッチを入れ、フライト前のチェックを始めた。
博美は風に翻弄される飛行機を見ている。
「(うん。 あそこは後ろ風。 あっちは下降気流。 うわー その横は上昇気流だ)」
激しく渦巻く気流は飛行機を予測のつかない方向に押し流し、持ち上げ、押さえつける。姿勢を見て修正などは不可能だ。
「(……右……ダウン……アップ……また右、わっ左……)」
一通り空を見た後、博美は昨日の様に仮想フライトを始めた。腰の前に送信機を持つ様に手を出し親指を小刻みに動かす。
「(うん。 どうやらこの風なら付いて行けそう)」
ほっ、と息を吐き、博美は「ビーナス」とそれを持つ加藤を見た。
「ビーナスちゃん。 頑張ってね」
横にしゃがみ込み、キャノピーを撫ぜる。
「今日は忙しいよ。 ちゃんと付いてくるんだよ」
博美にかかるとスタント機もペットの様だ。
「おいおい。 ちゃん付けかい。 博美にかかるとスタント機も形無しだな」
加藤がそれを聞いて苦笑する。
「だってビーナスちゃんは女の子だよ。 可愛いじゃない♪」
なぜだか博美は上機嫌だ。
「この悪条件で、なんでそんなに機嫌が良い?」
付いていけない、と加藤が零す。
「だって…… チャンスだよ。 この風、僕には対処できるんだ。 このラウンド、井上さんが一番になるよ」
強風だった予選のときを思い出し、期待を高める博美がいた。




