三人の博美
博美は不思議な世界に居た。加藤が肩を叩いた瞬間、博美に聞こえるのは加藤の声と「ミネルバⅡ」のエンジン音、そして風の音だけになった。後ろに加藤の存在は感じられるが、それ以外の人間は消え去ってしまった。エンジン音を聞いている博美は「ミネルバⅡ」と共に空を飛び、加藤の声を聞く博美は送信機を持って滑走路脇の操縦ポイントに立っている。そして風の音を聞く博美がそれを離れた場所から見ているのだ。
「(……今……)」
三人の博美が同時に演技開始点だと判断する。「ミネルバⅡ」は機首を上げ、宙返りを始めた。機首が上を向くのに合わせてスロットルが開かれ「ミネルバⅡ」は等速で上昇する。垂直になったとき「ミネルバⅡ」はセンターラインぴったりだった。そのまま少し上昇し、エレベーターを押して(下げ舵にして)逆宙返りに入る。
「(……少しダウンを弱く……)」
俯瞰している博美が言う。
「(……うん、分かった……)」
それに送信機を持った博美が答える。「ミネルバⅡ」は滑らかに円を描き、中間高度で背面飛行に入った。背面飛行を少ししてセンターに合わせて横転をする。
「(……ラダーを強く……)」
「ミネルバⅡ」に乗っている博美が言う。
「(……うん……)」
送信機を持った博美は機体が傾くのに合わせてラダーを深く切る。
「(……ロールレートを少し遅く……)」
もう一人の博美も言ってくる。
「(……うん……)」
「ミネルバⅡ」はブレる事無くロールをした。一旦背面飛行姿勢を見せると、休むまもなく逆宙返りだ。
「(……エレベーターを少し強く……)」
一人が言う。
「(……ラダーを右に……)」
もう一人も言ってくる。「ミネルバⅡ」はぐっと機種を上げ逆宙返りを始めた。
「(……エレベーターを弱く……)」
「(……ラダーをもっと右に。 エルロンを左に……)」
再び声がする。「ミネルバⅡ」は追い風にも関わらず、丸い宙返りをした。そのまま垂直降下姿勢になるとエンジンスローで静かにセンターライン上を下りてくる。
「(……今……)」
三人の声が揃う。「ミネルバⅡ」はエレベーターアップにより水平飛行に移行した。
40名の選手、40名の助手、そして数十名の関係者は博美のフライトを見て声を失っていた。完璧な直線、全てが同じ半径の宙返り、同じ回転速度のロール。機体の姿勢により調整されるエンジンは美しい音楽を奏で、スローで降下するときの風切り音までがフルートの調べだ。
「(……完璧だ……)」
「(……減点場所が無い……)」
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キャリアの浅い選手等は、見惚れるばかり。
「(……これは凄い……)」
「(……これを基準とするのか……)」
「(……センターのズレが1mと無い。 これで1点減点するか? だとしたら今日は厳しい得点になるな……)」
「(……世界選手権レベルのジャッジになるかも……)」
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ベテランの選手たちは恐怖を覚えていた。
「(くそっ! 負けた……)」
チームメイト達と博美の飛行を見ている本田は心の中で舌打ちをする。予選会場で見た博美のフライトに危機感を持った本田はそれから2ヶ月、同じように危機感を持った成田と共に練習を積んでいたのだ。結果、本田のフライトは安定感が増し、少々の風でも減点を減らせるようになっていた。
「本田君。 勝てるか?」
チームメイトが尋ねる。
「悔しいけど…… 勝てません。 今、彼女が予選に出てなかったことを喜んでいます」
溜息混じりに本田は答えた。
「ミネルバⅡ」が全ての演技を終えて着陸した。博美の耳に音が戻り、加藤以外の人の気配が分かるようになる。
「(あれっ? 皆は……)」
気が付くと「ミネルバⅡ」と共に飛んでいた博美と俯瞰していた博美は消えていた。
「良かったぜ。 さあ戻ろうか」
後ろから加藤の声がする。
「うん…… そうだね……(変だなー あれは何だったんだろう?)……えっ……」
力なく返事をした博美は、振り返り歩き出そうとした所で加藤にもたれ掛かった。
「おっと! 大丈夫か?」
すかさず加藤が抱きとめると、例によってお姫様抱っこ姿勢で持ち上げた。
「また此れか。 おまえもちょっとは体力を付けないとな」
何十人もの人が居る割りに静かな飛行場を博美は加藤に運ばれていった。
ざわめきの戻った中、審査員が集まる。夫々の採点をすり合わせて、ジャッジポイントの統一を図るのだ。
「最初の「ハーフ・クローバー・リーフ」だが…… 吉村さんが8点の他は皆9点だな。 吉村さん、何処が減点だった?」
ジャッジペーパーを広げて安岡が尋ねる。
「ロールのセンターが僅かにずれてたな。 あと風下側の逆宙返りがセンターを合わすために途中で半径が変わった様だった」
吉村が答える。痩身でキャップを被った石川県のベテランだ。
「うーーん。 確かに半径が変わったみたいだったな。 でも減点するほどの変化か?」
奥山が疑問を挟む。
「うん。 言われて見れば確かに変わった。 どうだろう…… せっかくの選手権だ。 これで上位の選手は世界選手権に出るかもしれないだろ。 厳しくしていくか?」
遠藤が言う。最近現役を退いた愛知県のベテランだ。
「よし。 それで行こう。 「ハーフ・クローバー・リーフ」は8点だ」
安岡が決定した。
「さて、次だ…… これは皆9点だな。 よし、次……」
10分ほどの協議の後、フライトエリアAの審査員が席に着く。既に席は5人分に減らされていて、後の椅子はフライトエリアBに運ばれていた。
「それじゃ、お昼に集まりましょう」
フライトエリアBの審査員が移動を始めた。移動する時間分、フライトがずれる事になり、A、B、夫々が邪魔にならなくなる。
「よし。 始めましょう」
安岡が大会役員に告げる。日本選手権が始まった。
博美は「ぼーー」っとタープの下の椅子に座っていた。目の前のテーブルには炭酸入りの水が置かれている。
「(…… さっきのは何だったんだろう……)」
滑走路上では出場順2番の選手の機体がホルダーに支えられて離陸を待っている。
「(…… 三人に分かれるなんて……) って真鍋さんじゃない!」
滑走路の飛行機は「ギャラクシー」であり、ホルダーは篠宮だ。博美が気付くと同時に「ギャラクシー」は離陸して行った。
「(んじゃ、井上さんが助手してるんだよな。 どうしよう…… 後ろで見ようかな。 んーっと、康煕君は何処だろ?)」
椅子から立ち上がり、博美は周りを見渡した。
「(あっ…… 居た居た)」
加藤は既に操縦ポイントの後方、センターラインの延長線上に立っている。
「(うーー 僕を置いて行っちゃったなー)」
テーブルに置いた水を飲み干すと、博美は加藤の方に駆け出した。
「このこのっ! 自分だけ見に来るなんてずるいよ」
加藤の脇腹を博美が突く。
「うわっ! 博美かー よせよ。 おまえのそれ、地味に痛いんだぜ」
フライトに集中していた加藤は、博美が来たのに気が付いてなかったのだ。
「ふふん。 僕を置いていった罰だよ。 んーっ…… 真鍋さん、調子よさそうだね」
加藤の横に立って博美もフライトを見る。
「そうだな。 でも俺には1番目の選手との差がよく分からない。 博美は分かるんか?」
フライトエリアを向いたまま加藤が訪ねた。
「んっ、ごめん。 最初の選手は見てなかったから分からない。 でも眞鍋さんが普段どおりのフライトをしてるのは分かるよ。 凄いよね、こんな大舞台で普段どおりの力が出せるんだから」
博美も前を向いたまま答える。
「ああ、凄いよな。 でも、さっきの博美はもっと凄かったぜ。 普段より上手く飛んでたからな」
加藤が見下ろすと、上を向いてフライトを見ていた博美と目が合った。
「あっ、そうだ」
博美が加藤の前に移動する。
「ねえ、さっきみたいに肩を「ぽんっ」って叩いてみて」
くっつくように博美は立った。
「んん? さっきって言うと…… えーっと、こうか?」
加藤が両手で博美の両肩を軽く叩く。
「うん、そうそう。 あれー 何も起こらないなー」
博美が首を傾げた。
「なんだ? 何かが起こるのか?」
加藤は博美の肩に手を乗せたままだ。
「しかし細っそい肩だなー 肉が無いぜ」
「もう…… そんなことはどうでも良いの。 さっきね、不思議なことが起こったんだ。 僕が3人になって、夫々が役目を分担して飛ばしたんだよ。 それが康煕君が肩を叩いた時に始まったんだ」
博美は振り返って加藤を見た。
「僕に催眠術なんて掛けてないよね?」
「そんなことするか! っと言うかだ、できるわけ無いだろ。 魔術師じゃあるまいし……」
加藤が鼻から息を吐いた。
「もしかしたら…… それだけ集中してたのかも知れないぜ。 次に飛ばすときに分かるかもな」
「そうだね。 次もそうなったら面白いな。 っと、真鍋さんを応援しなきゃ」
真鍋の演技は進んでいて「ギャラクシー」は「スピン」の為にセンターに向かっているところだった。
「(頑張れ、頑張れ、真鍋さん。 今は気流が安定してる。 チャンスだよ)」
センターぴったりで「ギャラクシー」は綺麗に「スピン」に入った。
「真鍋さん、お疲れ様。 普段どおりの飛び方でしたね。 実力が出せるなんて凄いです」
送信機を預けた真鍋がピットに帰ってきたのを博美は笑顔で迎えた。
「おお、ありがとう。 まあ…… 慣れてるからなー 慣れすぎている所為で、プラスαが無いけどね」
「ギャラクシー」は既に篠宮の手によって整備スタンド上で裏返しになっている。
「その点、博美ちゃんは慣れてない分緊張もするだろうけど、さっきみたいに突然「化ける」事があるからねー 凄かったよね。 あれだったらチャンピオンも取れるだろう」
話しながら眞鍋は「ギャラクシー」の隣にしゃがみ、アンダーカバーを外した。
「真鍋さんもあんな事があったんですか?」
一緒になってしゃがみ、博美が聞いた。
「あったよ。 もう随分前のことだ。 初めて選手権予選に出てね…… あの頃は「中国四国」が無くて関西と一緒だったんだ。 初めての大阪だろ、しかも出てるのは雑誌でしか見たことが無いような雲の上の人たちだ。 「ナベちゃん、ナベちゃん」って可愛がってもらったんだが…… その時に不思議な体験をしてね、確かに飛行機を見て飛ばしているはずなのに、なぜか飛行機に乗ってるんだ。 トランス状態だね。 後から聞くと「不思議な笑みを浮かべて、不気味だった」なんて言われた。 その時の得点で予選が通過出来た訳だ」
男の微笑なんて、不気味だよね。 と眞鍋が落とす。
「そんな事は、あの安岡君にもあったよ。 彼はそのお陰で世界選手権に出られたようなもんだ」
点検を済ませると、眞鍋は「ギャラクシー」のアンダーカバーを付けた。
「さて、井上君の第1ラウンドはBだろ。 博美ちゃん、移動しとかないと間に合わないぜ」
眞鍋は「よいしょ」と立ち上がった。




