なし崩し戦法
「日下さーん。 日下公子さーん」
博美たちの前のあるカウンターの中から事務の女性が名前を呼ぶ。
「おっ。 俺だ」
ユキに叱られて落ち込んでいたコウジが顔を上げた。
「はいっ」
元気よく返事をしてカウンターに向かう。
「えっ? 今の女の人の名前でしたよ。 コウジさん、間違えたんじゃ……」
博美が慌ててユキを見た。
「んっ? 大丈夫よ。 だってコウジの本名が公子なの」
ユキは有然としている。
「でも、なんか揉めてるみたいですけど」
コウジに対してカウンターの女性がなにか言っている。それに対して、コウジがカードを見せて一生懸命説明しているようだ。
「あれも何時もの事よ。 だってコウジってどう見ても男じゃない。 それが女の名前だなんて、絶対理解できないわよね。 しかも、保険証の性別が女なんだから、ややこしい事になるのよねー」
何時ものこと、と言いながらもユキはやり取りをじっと見ている。
「でも、ちょっと長いわね。 コウジが「キレ」なきゃいいけど……」
ユキが眉を顰めた。直後、
「いい加減にしろよー! 俺が公子だっていってるだろー!」
コウジの大声が待合の中に響いた。
「いけない!」
ユキが大慌てで窓口に駆け寄った。
「コウジ、気持ちは分かるけど…… 焦っちゃ駄目。 もっと自分に自信を持って…… あんたは男だから。 それは私がよく知ってる……」
席に戻ってきたコウジの頭を抱くようにしてユキが優しく話している。
「ユキ、俺は悔しい…… なんで俺は女の体なんだ。 どんなに切り刻んでも、生まれたときの性別ってのが邪魔をする」
ユキの胸に顔を埋めてコウジが呟いた。
「そうね。 確かに今はそうかもしれない。 でもきっと変わっていく。 その為にも私たちは焦っちゃけない。 ゆっくりと自分の周りから意識を変えていくの」
ユキは顔を上げて博美を見た。
「ごめんね。 かっこ悪いところを見せたわね。 でもFTMは大変なの。 MTFが一度の工事で終わるのにFTMは何度も手術しないと終わらないのよ。 コウジはまだ胸を取っただけだから焦っちゃうのよね」
子供をあやす様にコウジを抱いたまま「ふー」とユキが息を吐いた。
「いえ、とんでもないです。 僕なんかでも最初は大変で、お母さんに助けてもらったんですから。 GIDの方はもっと厳しいんでしょうね。 周りの人に理解してもらうのにも苦労するんでしょうね」
「そうよ。 だからね、理解してくれ、なんて声高に言わないの。 これが私よ、って自信を持って堂々としてるのよ。 そうしたら回りもそんなもんかー ってなるから」
ふふっとユキが笑う。
「名づけて、なし崩し戦法よ。 女は図太くなけりゃね」
男は弱いわね、とユキは今だ顔を埋めているコウジの頭を引っ叩いた。
「どさくさに紛れて、いつまでそうしてるの?」
よく見ると、コウジはユキの胸に顔を擦り付けている。
「ユキちゃん。 もう少しオッパイに脂肪を付けよう」
胸の間からコウジの声がした。すかさずユキがコウジを引っぺがすと顔を鷲掴みにする。
「もう一度言ってごらん。 脂肪が何だって?」
ドスの効いた低音がユキの口から流れた。周りに座っている人たちが何事かとユキたちを見る。
「あらごめんなさい。 つい地声が出ちゃったわ♪」
ぺろっ、とユキが舌を出した。
病院の玄関で博美は井上を待っていた。
「博美ちゃん。 これから如何するの? もし良かったら一緒にお昼に行かない?」
コウジとユキも隣にいる。
「すみません。 これから行くところがあるんです」
「んっ? 彼氏とランチかな? さっき電話してたわよね」
ユキが嬉しそうだ。
「ち、違います。 電話してたのはラジコンの先輩で、これから練習に行くんです」
「へー 博美ちゃん、ラジコンなんかするの? 女の子が変わってるねー」
コウジが博美を見た。
「はい。 明日から大会があって、それで近くまで来たんです」
「博美ちゃんも大会に出るの?」
ユキが聞く。
「飛ばしますけど、順位には関係無いんです」
「あら、大会なのに…… ひょっとして、博美ちゃんは模範演技でもするの?」
すごいすごい、とユキが言う。
「ち、違います…… んーっと、模範では無いんですが、僕の点数が基準になるらしいんですね」
博美の顔が陰る。
「だから上手に飛ばしたくて……」
「失敗しちゃったのね」
言葉に詰まった博美をユキが優しく見ている。
「はい。 皆さんの期待に応えられなくて…… 気にするなって言ってくれるんですけど」
「そうね。 気にしないことが一番。 博美ちゃんはみんなの為に、って思って、それで緊張したんでしょ。 失敗したらいけないって思って」
ユキは博美の前に回って肩を持った。
「うーん…… 分かりません。 とにかく緊張しました。 みんなが注目してるような気がして……」
博美は相変わらず下を向いたままだ。
「そこよ。 注目してるのよ。 だから、そこで見せるの。 私ってこんな女よってね。 失敗したらどうしよう…… 失敗したら迷惑がかかる…… なんて如何でもいいことよ。 私はラジコンのことはわから無いけど、博美ちゃんにその役目が来たって事は、みんなが認めているって事なのよ」
博美の肩を持つユキの手に力が入る。
「だから普段どおりにしていればいいの。 だって普段の…… んーっと、なんて言うのかな。 ラジコンの飛ばし方? を見て選んでくれたんだから。 更に上手に見せる必要なんてないのよ。 普段どおり。 平常心。 これで行けば問題ないの」
ねっ、と言うユキの言葉に博美がゆっくり顔を上げた。
井上の「ビーナス」が高い位置の水平飛行から機首を下げ、45度の降下をする。急降下だが「ビーナス」は殆ど加速しない。1回転ロールをして更に降下、エレベーターのダウンで逆宙返りをして、低い位置の背面飛行になる。加速しない程度にスロットルを空け、センターで1回転ロール。再び背面姿勢で少し飛び、エレベーターのダウンで135度の逆宙返りをすると45度で上昇する。ロールをして更に上昇し、スタート地点で水平飛行に移った。トライアングルループという演技だ。
「次はスプリットS、ウイズ1ロール。 風は変わらず、乱れはありません」
「分かった」
博美の声を背中に聞きながら井上は予選のパターンを練習していた。
「おー 上手い……」
「流石だなー」
「こりゃ、今年の井上さんはちょっと違うな……」
「おいおい、決勝まで行くんじゃないか?」
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後ろで見ている選手達の声が聞こえる。
「(井上さんって、凄いなー こんなに注目されてても普段通りに飛ばすんだ) 次は45度上昇スナップロール1 1/2 です」
スプリットSを終わり「ビーナス」がセンターに背面飛行で向かってくる。
「んっ……」
井上は軽く頷き、送信機のスティックを押した。
加藤が着陸した「ビーナス」を回収して整備スタンドに乗せた。井上がアンダーカバーを外すと、エンジンとマフラーがむき出しになる。それをゆっくりと井上はチェックし始めた。
「(井上さん…… 普段の練習とまったく変わらない。 緊張ってしないのかな?)」
博美の見ている前で井上は残った燃料を機体から抜き始める。
「よう、井上。 今日は調子よさそうだな」
近づいてきた選手が声を掛けた。
「ん? ああ、あんたか…… 今日は風が弱いからな、それで上手く飛んだんだろう。 明日がこんなだとは限らないさ」
ちらっと顔を見ただけで井上は「ビーナス」にスプレーを拭きつけ、ウエスで拭き始めた。
「ちぇ…… 相変わらず無愛想な奴だ。 ま、明日は明日の風が吹くってか……」
腹立たしげに舌打ちをすると、その選手は離れていった。
「井上さん。 今の方は?」
何時も人当たりのいい井上にしてはぶっきら棒な態度に博美は驚いた。
「あいつか…… 関西のベテランだ。 どうも俺とは馬が合わなくてな、事あるごとに突っかかってくる」
吐き捨てるように井上が言う。
「いろいろあるんですねー と、ところで、井上さん。 さっき全然緊張しなかったんですか? 普段と同じ飛び方、って言うか…… 普段以上の飛びだったんですけど」
「そんなことは無いよ。 しっかり緊張してたぜ」
空回りを始めたポンプを止め、井上はパイプを機体から外した。
「午前中にも言ったように、慣れてるんだ。 それにな、俺たちはこれで飯を食ってるわけじゃない。 失敗したって誰にも迷惑は掛けないよな。 逆に喜ばれるくらいだ。 そんな訳で、緊張はしても「あがり」はしない」
井上は燃料缶を片付け、工具箱からドライバーを出した。
「趣味で飛ばしてるんだ。 他人は無視無視」
主翼を取り付けているボルトを外す。
「ちょっと持っててくれるか」
博美に主翼を持ち上げさせ、井上はサーボに繋がるコネクターを引き抜いた。
チームヤスオカのワンボックス車の中で、博美は流れていく景色を眺めている。一台前には井上の運転するワゴンが走っていた。夏の太陽はまだまだ高いが、時刻は5時近くになっている。
「博美ちゃん。 随分静かだね。 やっぱり今朝のフライトが気になってる?」
横に座っている篠宮が話しかけてきた。
「うーん。 気になってるって言うか…… ねえ、新土居さん。 僕が失敗すると、安岡さんあたりに迷惑が掛かります? ラジコン雑誌の方とか……」
篠宮の質問に答えず、博美は運転する新土居に話しかけた。
「んっ? それは無いだろうね。 確かに安岡の名前がチームに入ってるけど、飛ばしてる飛行機は安岡製じゃない。 ワークスチームじゃないことは皆知ってると思うよ。 ラジコン雑誌はねー まあ大げさにするのがメディアだからさ、これも皆話半分に見てると思うから…… 博美ちゃんには酷な言い方だけど、女の子がスタント機を飛ばすっていうのが珍しいから、だからラジコン雑誌が取り上げたんだよ」
ふー と新土居が息を吐く。
「今回はね。 博美ちゃんの度胸付け、っていう側面が大きいんだ。 だから失敗なんか気にせず、堂々と飛ばせばいいんだよ」
「度胸付けですか……」
再び博美は窓の外を見た。少しビルが増えてきたようだ。
「そうそう。 だから失敗なんか気にせず飛ばす事だよ。 さあ、もう直ぐホテルに着くよ」
ワンボックス車はホテルの駐車場に入った。
「博美ちゃん。 明日は早いから、夜更かしせずに寝るんだよ」
エレベーターから降りる博美に篠宮が手を振る。皆で夕食を食べ、それぞれの部屋に戻るのだが、博美だけ3階なのだ。
「はーい。 おやすみなさい」
博美も手を振り返し、部屋に歩いていく。
「(ハア…… 気にするな気にするなばっかり…… 僕ってそんなに気にしてるように見えるのかな?)」
博美がカードキーをドアのスリットに差し込む。
「(そうじゃないんだよなぁ。 なんか不安だったんだ…… なにが不安だったんだろう?)」
ノブを回して博美は重いドアを押し開けた。
「(わからない。 なんで不安を感じてたんだろう……)」
シングルの部屋にしては広く、ベッドの他に一人がけのソファが二脚と小さなローテーブルが置いてある。
「ま、いいや。 シャワー浴びよう」
カーテンが閉まっている事を確かめると、博美はTシャツとジーンズを脱いだ。バッグから新しいショーツを取り出し、シャワールームに入る。
「(うーん…… 焼けてないよね)」
下着を取り、壁に掛けてある鏡に向かって体を捻る。
「(大丈夫みたい)」
博美はバスタブに入るとカーテンを閉め、シャワーのレバーを回した。
「(そういえば、コウジさんが女の子は自分で開発する、って言ったなー どうやってするんだろ?)」
なんとなく左手を股間に当ててみる。
「(んー 触ってるのは分かるけど、別になんとも感じないなー)」
博美は中指をゆっくり動かしてみた。
「(ん、んっ!)」
博美の体が突然「びくっ」っとする。
「(えっ? なに…… いまの……)」
うんと頭を下げて、博美はあそこを見た。
「(別にどうともなってないよなー)」
再び手を当て、指を動かしてみた。
「(なんともないや) って、僕はなにやってるんだろ…… 洗おう」
博美はボディーソープを泡立て始めた。




