日本選手権公式練習3
日本選手権が土、日、月の三連休を利用して行われる関係で、公式練習は金曜日に設定されている。そうそう休みが取れない人も居るわけで、特に選手でもない者は休みを取ってまで見に来ることはない。そんな訳で、ヤスオカ模型のテントにはあまり客が居なかった。
「暇だねー お客さんがこない……」
ヤスオカ模型オリジナルの舵角測定器を弄びながら森山が欠伸をする。
「今日は仕方が無いかなー 朝早くに常連さんが来て、一機注文してったけどね。 今は成田さんとこが人気だからなー」
やはり現役で日本選手権の上位、もしかしたら今年はチャンピオン、そんな選手が使っている飛行機は人気がある。ヤスオカ模型の飛行機も、安岡が現役の頃はよく売れていた。しかし安岡やヤスオカ模型の飛行機を使う選手権上位の選手が年齢とともに衰え引退した後、売れ行きは落ちているのだ。
「博美ちゃんが起爆剤になってくれないかなー」
飛行機の仕様決定書を眺めて新土居がため息をついた。
「そう言えば、そろそろ博美ちゃんの飛ばす頃じゃないかな」
森山が滑走路の方を見る。今は「 ミネルバⅡ」では無い飛行機が飛んでいた。
「よっし。 応援に行くか?」
新土居が立ち上がる。
「練習ですから、応援は無いでしょう」
森山も立ち上がった。
二人はフライト順を書いてあるボードの前に来た。
「どうだ、博美ちゃんはあとどれぐらいだ?」
新土居が森山に聞く。
「えーーっと。 いま飛ばしてる選手を除いて2番めかな……」
ボードと飛んでいる飛行機を見比べて森山が答えた。
「見に行くにはいい頃合いだな。 っと、あれ博美ちゃんじゃないか?」
さあ行こうか、と新土居が滑走路の方を見ると女性が小走りでやってくる。
「ああ、そうだそうだ。 博美ちゃんだ。 どうしたんだ? 焦ってるようだけど」
急いでるのか、博美は二人に気がつかずに通り過ぎようとする。
「博美ちゃん! そんなに急いで何処に行くの?」
森山が声をかける。
「はあっ! あっ。 森山さん……」
息を切らして振り向く博美は少し顔色が悪いように見える。
「どうしたの? どこか悪いの?」
新土居も博美の様子に違和感を感じた。
「あの…… トイレに……」
少し前屈みで下腹を抑えて博美は苦しそうだ。
「そりゃ大変だ。 場所は分かるかい?」
「ええ、聞いてきました。 ごめんなさい。 行きます」
話もそこそこに博美は走って行った。
新土居たち二人が博美のピットに来てみると、篠宮が「ミネルバⅡ」に燃料を入れている。
「よっ! 途中で博美ちゃんに会ったよ。 トイレだって」
腕組みして燃料の入っていくのを見ている篠宮の傍に森山が立った。
「うん。 珍しいですね。 僕は、彼女はプレッシャーに強いと思ってたんですが…… 順番が近づくにつれてだんだん顔色が悪くなって、お腹が痛いって言い出して…… それでトイレに行っといでって言ったんです」
リターンパイプから燃料が戻り始めたのを見て、篠宮がポンプを止めた。
「ひょっとして緊張してるのかも……」
篠宮は燃料パイプを外すと、燃料缶をアルミボックスにしまい込んだ。
「そうかもしれないな。 これまでは人前で飛ばす時っていきなりって事が多かったよな。 緊張する間も無いって事だったのかも…… これはちょっとした試練だね」
新土居も難しい顔で腕組みをした。
「まあまあ、これが今日でよかったと思わないとな。 なんたって練習だ。 しかも順位に関係無い立場だから、失敗したってどおってことないぜ」
チームヤスオカの三人が唸っている所に真鍋が近づいてきた。
「それにな、これは安岡さんの計画かもしれないぜ。 普通なら秘密兵器は隠しておくものだろ。 なのに博美ちゃんを雑誌に載せたんだ。 安岡さんは博美ちゃんがプレッシャーに弱いのに気がついていたのかもな」
ま、なんとかなるさ、と真鍋が閉めた時、博美が帰ってきた。
帰ってきてからも、博美は椅子の上で「ぼー」としていて、時々お腹を押さえている。
「(おいおい、大丈夫かなー フライトはキャンセルした方がいいんじゃないか?)」
新土居はちらちら様子を伺っていた。
「(うーー どうしちゃったんだろー こんな事、面接試験の時以来だ……)」
高専の入試で面接を受けたときも博美は腹痛になったことがある。
「(あの時は、たしか面接官の前に立ったときには直ってたんだよなー 今度も飛ばすときには直ってるんじゃないかな?)」
不調を感じながらも、博美はどこか楽観していた。
「博美ちゃん、大丈夫? キャンセルしてもいいんだよ」
見るに見かねて新土居が声を掛けた。
「だ、大丈夫です。 多分、飛ばすときには直ると思うので……」
博美が即答で返す。
「ならいいけど。 無理はしちゃ駄目だよ」
新土居は滑走路を見た。丁度博美の前に飛ばす選手の飛行機が離陸していく。
「エンジン始動ピットが空いた。 準備しよう」
新土居が篠宮に言った。
篠宮が「 ミネルバⅡ」を、森山が始動用具をエンジン始動ピットに運び、その後をとぼとぼ博美が付いていく。
「博美ちゃん。 別に失敗したってとって食われるわけじゃ無いんだ。 気楽に行こう」
横を真鍋が歩いている。
「約束通り俺がホルダーをするからな。 ばっちりいい所に置いてやるから」
「はい…… おねがいします…… ふう……」
どうにも博美は元気が無い。
「(こりゃ困ったな。 どうやって元気づければいいんだ?)」
言葉を探して真鍋が黙った。
「博美ちゃん。 ほら、送信機だよ」
新土居が送信機を保管場所から持ってきて渡す。
「うん…… ありがとうございます」
博美はネックストラップに送信機を付けた。そのままスティックに両親指を当てる。
「(あれっ? なんでスティックのニュートラルが分からないんだろう…… スプリングがおかしいのかな?)」
舵を制御する送信機のスティックはスプリングで垂直に支えられている。このスプリングの調整は重要で、スタントフライヤーはその強さに敏感だ。スティックにはニュートラルの位置でわずかに手応えがあり、それもスプリングが作り出している。
「新土居さん。 スティックのニュートラルが弱いんですけど…… こんなものでしたっけ?」
ネックストラップから送信機を外し、博美は新土居に送信機を渡した。
「うーん、こんなものじゃない? 森山君、どうだろ?」
首を捻りながら新土居は森山に送信機を渡した。
「こんなもんだと思うけど、博美ちゃんが弱いと思うなら調整しようか?」
森山がポケットから精密ドライバーセットを取り出した。
「うーん…… 如何しようかなー」
フライト直前の調整と聞いて博美は躊躇する。
「不安は取り除いたほうがいいよ」
「はい。 じゃ、お願いします」
森山の一押しに博美は首を縦に振った。
真鍋が支える「ミネルバⅡ」のエンジンを森山が始動する。機体の横に博美が立ち、その反対側に篠宮が立っていた。結局井上は現れず、一緒に来るはずの加藤も博美のフライトに間に合わなかった。
「(康煕君ったら如何したんだろう? 連絡ぐらいしてくれればいいのに)」
心の中で愚痴を零しながら、博美はエンジンの掛かるのを待っている。
「(でもよかった。 やっぱりいざとなるとお腹の痛いのは直るんだ)」
スプリングのやり取りの間に博美の腹痛は治まっていた。
「(皆さん、暇なんだなー 僕を見てそんなに面白いのかなー)」
何時の間にか「ミネルバⅡ」と博美達を沢山の人が取り囲んでいる。
「博美ちゃん、スロットルを上げて」
森山の声が博美の思考を現実に呼び戻した。
ゆっくりと歩く真鍋に運ばれる「ミネルバⅡ」を操縦ポイントに立って博美は見ている。後ろには篠宮が立っていた。
「(どうもおかしい…… 気持ちが乗ってないようだ。 すぐ思考が逸れていく…… プレッシャーに負けてるのか? 見た目は普通に見えるんだが……)」
篠宮の懸念は当たっていた。あまりのプレッシャーに博美の脳は外部からの刺激を大幅に減らし、その為余裕の出来た脳は半ば夢を見ている状態になっていた。つまり現実逃避だ。
「テイク・オフ」
そんな状態で、博美はフライトを始めた。
最初の演技「ハーフクローバーリーフ」のために「ミネルバⅡ」は風下からセンターに向かってくる。博美はセンターの少し手前で慌てたように昇降舵を引いた。目からの情報もカットされている分、引くのが遅れたのだ。「ミネルバⅡ」はいきなりの操作により、跳ね上がるように機首を上げた。大きな抵抗が掛かり、エンジンが唸りを上げる。森山の調整したエンジンは、それでも粘りをみせて「ミネルバⅡ」を垂直に上昇させた。しかしプロペラのジャイロ効果によって飛行経路は垂直面から大きく傾いていた。博美は気付かず演技を続ける。結果として演技は酷く歪な図形を描くこととなった。
「なんだこりゃ……」
「これで選手権に出るか?」
「ひでえな……」
「エキスパートでも合格しないんじゃないか……」
「なにが妖精だよ。 顔だけか……」
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妖精の秋本の娘を見ようと後ろに集まっていた人たちから失望の声が上がり、何人かは離れていった。
「(くそ! 博美ちゃんの実力はこんなもんじゃないぜ。 どうにかしてプレッシャーから救い出せないもんか……」
失敗にも気付かない様子でフライトを続ける博美の後ろで篠宮は掛ける言葉を考えていた。
「(なんか後ろが五月蝿いなー 見るなら静かにしててほしいな。 っにしても、今日は飛行機が暴れるなー 何でだろ?)」
飛ばし始めたことで、純粋に飛行機の好きな博美は落ち着きを取り戻しつつあった。
「(あれっ? 指が震える…… おかしいな)」
感覚を遮断していた脳が少しずつスイッチを入れ始める。指の震えはその一環だった。
「(えっ? もうスクエアループ?)」
全てのスイッチが入ったときには、演技はあと五つを残すだけだった。「ミネルバⅡ」は高い位置の背面飛行から機首を下げ垂直になる。当然エンジンはスローだ。半横転をして更に降下。エレベーターを押して逆宙返り、低い位置の背面飛行に入る。センターでハーフロールをして水平飛行、エレベーターを引いて宙返り。垂直に登りハーフロール、更に登りエレベーターを押して高い位置の水平飛行になる。センターでハーフロールをして背面飛行。これでやっとスクエアループの演技が終わる。
「(おっ! どうやら普段の調子に戻ったかな)」
篠宮は「ほっ」と息を吐いた。スクエアループは四角形という単純な図形を描く演技だが、係数5が表すように減点する場所が多い。1/4ループ、1/2ロールが4箇所あり、それが全て同じでなければならない。辺の長さも全て同じで4隅の角は全て90度。これを満たして初めて減点が0になる。この演技の難しいところは一つの失敗の影響で2点、3点、と減点が積み重なるところにある。
「ほおー これは上手いな……」
「おっ! いいじゃないか……」
「これなら目慣らしになるな……」
「前半は何だったんだろー 緊張してたのか……」
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まだ残っていた人たちは、空の妖精の片鱗を見ることになった。




