手でしてあげちゃった♪
月曜日の朝、白い壁の部屋に置かれたベッドの上で博美は寝ていた。朝日はすでに高く上っているが、カーテンの引かれた部屋は薄暗い。ゆっくりとドアが開かれた。そこから顔を覗かせたのは、言わずと知れた樫内である。彼女は中を伺うと、するりとドアをくぐり抜けベッドの横に立った。
「(うふふ……よく寝てるわ。 さてさて、それじゃ……お邪魔しまーす)」
博美の顔を覗き込み、樫内は毛布の端を捲る。っとその時、博美の腕が樫内の首を抱きとめた。
「……康煕くん、康煕くん、康煕くん……好き……」
何時になく強い力で樫内を引き寄せる。
「ちょ、ちょ、ちょっとー なによー うっ……むううう……」
突然のことに動揺した樫内は逃げ出せず、二人の唇が合わさった。
「……ううう……んっ、はぁ、んっ……(秋本さん、離して。 はなしてよー)」
樫内は何とか逃れようとベッドの上で暴れるが、博美の腕はがっちりと首を巻いている。
「ええーーいっ! うるさーい! 樫内さん、あんたは何時も何時もー ……って何してんの? ……っえ? キ、キ、キスーーーー」
さすがにこれだけ暴れたら、寝坊助の永山も起きてきた。
「うっわーーー 間近で見るの初めてー」
興味津々、永山は二人を覗き込む。
「ぷはっ! はあはあ! 見てないで助けてよー ……って、離れた?」
突然博美の力が緩み、樫内が顔を上げた。
「助かったーーー うううう……苦しかった……」
涙目で樫内がベッドに座り込んだ。
「あれーー? 樫内さん? あれっ? 康煕くんは?」
博美が目を開けると、きょろきょろと辺りを見渡す。
「康煕くんは? じゃないわよ。 秋本さん、あんた夢みてたでしょ? キスの」
樫内は博美を見下ろしている。
「うんっ? 見てたのかなー なんだか実感があったような…… っていうか、唇が濡れてる。 あれっ…… 樫内さんも?」
人差し指を唇に当てると博美は首を傾げた。
「はあっ…… あんたはね、私を捕まえてキスしてきたのよ。 ほんとにもー 昨日、ファーストキス済ましといて良かったわ。 でなかったら泣くところよ」
やれやれと樫内が肩を竦める。
「えっ? 樫内さん、昨日キスしたの?」
永山が樫内の肩を捕まえ、
「誰と? どこで?」
前後に揺すった。
「エーーー! ホテル?」
永山の声がドアの外、廊下にまで響いてきた。
「ばかばか! 声が大きいわよ」
樫内が大急ぎで永山の口を塞ぐ。博美は耳を押さえていた。
「樫内さんって凄い。 ねえねえ、どうやって誘ったの? それとも連れ込まれたとか……」
永山の興味は尽きない。その横で博美は空気になろうとしていた。
「(どうか裕子ちゃんの矛先が此方に向きませんように……)」
やはりキスの事を話すのは恥ずかしい。
「昨日、海に行ったのよ。 そしたらシャワーが使えなかったのね。 だから帰りにシャワーを浴びたいって言って誘ったの。 彼ったら恥ずかしがってねー でもキスは意外と上手だった」
話す樫内も頬がピンクになっている。
「それでそれで、どうなったの? もしかして、行くところまで行っちゃったとか」
勢い余って永山が樫内の襟を掴んで振り回した。
「ちょ、ちょっと! く、苦しいから」
「あっ! ごめん。 で、どうなの?」
「最後まではしてないわよ。 彼が、まだ早いからって。 でもね、言いながらもあそこが大きくなってるの。 だから手でしてあげちゃった♪」
「キャーーーーーーーーー」
三人の歓声がドアの外に響き、数秒後には両側の部屋の住人が怒鳴り込んで来た。
普段の朝の教室は騒ぐ者もおらず、意外に静かだ。が、今日は皆がうきうきとして落ち着かず、其処此処で話し声がしている。
「おっはよー!」
何時ものように元気に博美が教室に入ってくる。途端に話し声が途切れ、全員が博美を見た。それでも、
「おはよう」
「おーっす」
「はよー」
何時ものように返事が返ってくる。
「んっ? (なんだったんだろ。 レスポンスが悪いなー)」
少し違和感を感じた博美が首をかしげ、
「なになに? みんなどうしたの? なんの話だったの?」
ドアの近くに居た副学級委員長の佐々木に聞いた。
「あー いやね、今日は体育があるよね。 今日から水泳だから気持ちがいいだろうなー なんて話をしていたんだ」
「そうだねー あっついもんね。 きっと気持ちいいだろうねー」
うんうん、と博美が頷く。
「えーっと、秋本さんって泳げるのかな?」
「泳げるよー 割と得意だったりして」
にっこりと博美が笑う。
「じゃさ、今日も泳ぐ?」
「もちろん♪ たのしみー」
うきうき博美が答えた。途端、
「うおーーーーーーー」
「やったーーーーーー」
「きたーーーーーーー」
「いいぞーーーーーー」
・
・
・
クラス中が大騒ぎになった。
「え、え、え? みんなどうしたの?」
博美は耳を塞いで、呆然とクラスを見渡した。
「おはよう。 なんだ、この騒ぎは。 外まで聞こえてたぜ」
ちょうどその時、加藤が教室に入ってきて騒音に顔をしかめた。
「おはよう、康煕くん。 何だろうね。 僕が体育で泳ぐって言った途端、この騒ぎになったんだ」
後ろを振り向き、博美が「ハーイ」と加藤に右手を上げた。
「そうか……分かった」
ゲンナリとして加藤が頷き、
「こいつらは博美の水着姿が見られるってんで喜んでるんだ。 ま、許してやれ」
博美の耳元でため息まじりに囁いた。
「あ、あははは…… みんな僕に興味があるのね…… やだーーー!」
やっぱり休もうかなと博美は考え始めた。
プールの更衣室で博美はバスタオルに包まっていた。博美の他に誰もいないのだが、何も着ていない状態は、さすがに恥ずかしいのだ。
「(なんで男の子ってさ、あんなに興味持つのかなー 中学校の頃から聞いてるけど、今一理解出来ないよなー)」
隣の男子更衣室からは、クラスメイトたちの声が途切れ途切れに聴こえてくる。
「(そりゃさ、僕だって少しは興味あるよ。 でも康煕くんに興味があるってだけで、ほかの人じゃダメなんだよなー)」
心の中で愚痴を零しながら博美は水着を着た。競泳用の水着は胸のサポートがしっかりしていて、小振りな博美の胸は殆ど膨らみが無くなっている。
「(なんか…… ぺったんこだなー 裕子ちゃんぐらいになるには、あとどれ位かかるんだろう?)」
ふう、とため息をつくと、バスタオルを肩から掛け博美は更衣室のドアノブに手をかけた。
プールサイドでは男子学生が三々五々集まって話をしては女子更衣室を伺っていた。
「うー 秋本さんの水着ー…… どんなだろうなー……」
「あの美脚が見られるんだぜー 俺、このクラスになって幸せだなー」
「俺は、あの細い腰が良いと思うんだ。 きっと素晴らしいカーブだぜ……」
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「ったく、こいつらは……」
盛り上がるクラスメートを横目に加藤は憮然としている。
「おい、加藤。 なにぶすっとしてるんだよ。 なにか? 彼女を見られるのがそんなに嫌か?」
何時の間にか学級委員長の西村が隣に立っていた。
「うるせーな。 別に博美は俺の持ち物じゃ無いぜ。 嫌だなんて俺が言う訳にはいかないだろうが。 ただな、女性に対する姿勢の問題だ。 誰だって興味本位で見られるのは嫌だろう?」
組んだ腕に加藤は力を込める。胸から肩、二の腕にかけて筋肉が盛り上がった。
「まあ、正論だな。 しかし男子が盛り上がるのも仕方が無いってのも、分かるよな? ちょっとは大目に見てやれよ」
西村が加藤の肩を叩く。
「分かってるよ。 心配すんな。 乱闘騒ぎは起こさ無いから」
「よろしく頼む「華長中の加藤」さんよ」
「うるせー その呼び方をすんな。 もう卒業したんだからよ」
込めていた力を加藤は抜いた。
「ぅおーーーーー」
その時、更衣室から出た博美を見た男子たちから歓声が上がった。その中を博美が歩いてくる。肩に掛けたバスタオルを振りながら、まるでモデルのようだ。競泳用の水着に締め付けられたウエストは細く、そこからヒップにかけて見事なカーブを描いている。ハイレグ気味の水着から伸びる脚は細すぎず、然りとて太くもなく、見事なバランスをとって足首へと続く。
「(はあ、これじゃ男どもが騒ぐのも仕方が無いか……)」
改めて加藤は博美の肢体を見て納得した。
ゆったりと、しかし力強く博美の腕が水を捉える。博美の前には水しぶきが上ってなく、横にも誰も泳いでいない。それもそのはず、彼女はぶっちぎりで先頭を泳いでいた。と言うか、誰も彼女についてこれなかったのだ。
「……なんちゅうスタミナだ……」
「お、俺は、少しは自信があったんだぜ…… いったい秋本さんは何キロ泳げるんだ?」
良いところを見せようと、初めに飛ばしすぎた連中は、既にプールから上がっている。見栄を張らずにセーブしていた連中は、まだ泳いではいるが20メートルほど引き離されていた。
「(うん、遅いが力を無駄にしない良い泳ぎだ) おまえら、秋本の泳ぎをよく見て参考にしろ。 無駄の無い良いフォームだ」
体育の教師がプールの縁でへたり込んでいる男たちを見渡した。
「ようし、秋本は上がれ。 後の連中も次のターンで終わりにしろ」
教師の声を聞き博美はハシゴのところに行った。
「(ふー ちょっと疲れちゃったかな。 ワンピースだと水着の面積が多いから上がる時に重いみたい)」
博美が水面から上がるにつれ、水着に含まれていた水が滴り落ちる。
「(んっ? ちょっとお尻のところがずれちゃってる?)」
ハシゴを上がる時に大きく脚を動かしたため水着が少し食い込み、丸いお尻が半分出た状態だ。プールサイドに立った博美は指を突っ込み、水着をお尻に被せた。
「ぅおーーーーーー」
再びプールサイドから歓声が上がった。
「お、お、お、おい。 見たか。 色っぽいなー」
「う、う、う、生まれてきて良かったー」
「お、俺はあの丸いお尻が少ーし見えたのが……」
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とても授業が続けられる状態ではなくなった。
「ねえ、さっきプールの方向から凄い歓声が聞こえたんだけど。 機械科がプールじゃなかった?」
永山が鮭の塩焼きを解しながら博美に尋ねている。此処は寮の食堂で、今はお昼ご飯だ。
「うん、そうだったよ。 皆が騒いでたけど、裕子ちゃんの教室まで聞こえたの?」
うるさかったよねー と博美が骨を引き抜きながら答える。
「何があったの? あんたが何かしたんじゃない?」
樫内が味噌汁椀をテーブルに置いた。縁が少し紅色になっている。
「あー 樫内さん、口紅つけてるー いけないんだー」
それを博美が目ざとく見つけた。
「乙女の嗜みよ。 それよりあんた何したの?」
椀の縁を樫内は指で擦った。
「別に何もしてないよ? なんだろうね、食い込んだお尻を直しただけなんだけど……」
博美が首を傾げる。
「もしかして、皆の目の前でやったの?」
永山が目を剥く。
「ん? プールサイドで」
博美が人差し指を唇に当てた。
「あっ、それは駄目だわ。 言ったでしょ、人前でしちゃ駄目だって。 あんたのその行動は色っぽすぎるの。 見てた男ども、絶対悩殺されたわよ」
あーあ、あれだけ言ったのに、と永山が呆れた。
「だってー お尻を半分出して歩くわけにはいかないじゃない」
博美が頬を膨らせた。
「だから水の中で直しとくの。 っと、そう言えば加藤君にカバーしてもらう話は?」
「えーっと、康煕君は最初に飛ばしすぎてプールサイドに倒れてた。 えへへへ、私が一番だったんだよ」
解し終わった鮭を博美は「ぱくり」と食べた。
「美味しー お腹が空いてると、何でも美味しいねー」
いつまでも平常運転の博美だった。




