連れてって
「ミネルバⅡ」がセンターの高い位置で空中に止まり、次の瞬間、機首を下げ左に回り始めた。所謂「きりもみ」或いは「スピン」と言われる機動であり、数回転で回転を止め、垂直降下姿勢になるのが通常の飛行だ。そして国際競技規定の演技となると任意の回転数で止めることは当然であり、その時の機首の向きまで厳密に決められている。角度が15度ずれるごとに1点減点である。今博美たちが練習しているP13という演技プログラムでは任意の方向に2回転、一旦止め逆方向に2回転することを要求されていて減点の可能性は2倍になる。
「うん、今の入り方は良かった。 ……うん、停止角度も問題ない。 ああ、少し前に出たね。 ……うーん、僅かに回りすぎたか…… 垂直姿勢はOKだね。 よしよし、上手く修正したね。 僕なら8点を付ける」
助手としては加藤が付いているのだが、その横に安岡が居て博美にアドバイスを送っていた。
「もう一度やります」
博美は「ミネルバⅡ」をUターンさせると再び演技開始点に移動させた。
「おい、燃料は持つんか?」
それを見て加藤が声を掛ける。既に飛行時間は10分を過ぎていた。
「大丈夫じゃないかなー 今日はゆっくり飛ばしてる所為か、あまり使わないんだよね」
「ミネルバⅡ」はゆっくりとセンターに向かっている。
「でも、この一回で終わるね……」
集中力を高めるため、博美は話すことを止めた。
着陸した「ミネルバⅡ」を森山が回収するのを確かめ、博美は送信機のスイッチを切った。流石にもう倒れることは無い。
「博美ちゃん。 後一回は飛ばせないだろうから片づけをしよう」
森山は「ミネルバⅡ」を整備スタンドに乗せた。
「はーい。 スプレーを取ってきます」
送信機を機体の側に置き、博美はチームヤスオカのワンボックス車に向かった。
「秋本さん。 まだ4時ぐらいだけど…… もう終わり?」
ワンボックス車から張られたタープの下に樫内が居た。
「うん。 次に飛ばすとなると5時を過ぎちゃうんだ。 お店まで1時間、片づけをして家まで… って考えるとそろそろ私は終わりにしないとね。 暗くなって帰るとお母さんが怒るんだ」
開けっ放しのリヤゲートから中に入り、博美はスプレー式の洗剤とウエス(ぼろきれ)を取り出す。
「高専生にしては時間に厳しいのね」
「仕方が無いよ。 家には男が居ないから……」
スプレー缶をふりふり、博美は機体の元に戻った。
戻ってみると森山が燃料を抜いていた。
「すみません。 どれくらい残ってました?」
燃料の消費量でエンジンの調子が分かるのだ。
「かなり残ってたね。 消費量は6割程度かな?」
空転を始めたポンプのスイッチを切り、森山が答える。
「博美ちゃんも体調が良いみたいだね。 スロットルの操作が滑らかだったようだ」
エンジンだけでなくパイロットの調子まで森山には分かるようだ。
「えっ? そんな事まで分かるんですか?」
「着陸直後のエンジンヘッドに触るとね。 調子の悪いときにはヒートしてるよ。 良いときだと触れるぐらいだ」
機体から燃料補給パイプを外し、森山はキャップを取り付ける。
「ただ女性については俺には分からない所も有るからね。 そこん所は勘弁して」
燃料缶を持つとワンボックス車に運んでいった。
「ねえ、それって何を吹き付けてるの?」
博美が「ミネルバⅡ」にスプレーを吹きつけ、ウエスで吹いていると樫内が来た。
「これねー 何だろ? 吹き付けて拭くと綺麗になるんだ。 触ってみて、すべすべだよ」
言われて樫内が手を伸ばした。
「ほんとだー すべっすべ」
言いながら樫内が博美の頬を見る。
「んっ? 何か付いてる?」
博美が首を傾げた。
「秋本さんのほっぺと同じだなー って」
樫内の手が博美の頬に伸びる。
「はは。 これは洗剤とワックスが一緒になっているんだよ。 元は車用だね。 便利だからラジコンに広まったんだ」
しかし横から聞こえた篠宮の声に手は止まった。
「そ、そうなんですね……(見られちゃったかな?)」
「ギギギ」と音がするようにぎこちなく首を回し、樫内は横を見た。
「うん? 博美ちゃんのほっぺもすべすべなのかな?」
にこにこ顔の篠宮が尋ねる。
「(聞かれてた!) ど、ど、どうなんでしょう。 分からないです」
樫内の顔が青くなった。
「樫内さん、よく触ってくるじゃない。 分からないなんておかしいよ?」
空気を読まない博美の言葉が樫内の耳に飛び込んでくる。
「うきゃー 止めて! 私は百合じゃ無いのよ……」
樫内が二人の顔の前で手を振り回した。それを優しく篠宮が受け止める。
「分かってるよ。 可愛い物が好きなだけだよね」
手を握られ、樫内は真っ赤になってしまった。
5時過ぎにはチームヤスオカ全員のフライトが終わり、後片付けも済んでいた。
「康煕君はまだ帰らないの?」
駐機場に「アラジン」が残っているのを見て博美が尋ねた。殆ど飛行機は片付けられていて、残っているのはスタントをしていないサンデーフライヤーのスポーツ機が数機だけだった。
「ああ、俺はもう一度飛ばさせてもらうつもりだ。 朝に一回飛ばしただけだから…」
遠慮して飛ばさなかったので、加藤も欲求不満ぎみなのだ。
「そうなんだ。 それじゃ先に帰るけど、明日はどうする?」
触れるほど近づき、博美は加藤を見上げた。
「何時でもいいから俺の家に来いよ。 それから一緒に行こう。 飲み物なんかは途中で買えばいいだろ?」
「うん、分かった。 海開きしてないから着替えるところは無いよね。 水着は着ていくから」
「気をつけて来いよ。 迷わないようにな」
「迷うわけないじゃない。 いーっだ」
それじゃーねー と博美はワンボックス車に乗り込んだ。
「秋本さん、最後に加藤君と何を話してたの? 海とか水着とか聞こえたけど」
ワンボックス車の後部座席、樫内が横に座っている博美を見て聞いた。
「んっとね。 明日海に行こうかって…… もうすぐ水泳の授業があるでしょ。 ぼ、私って人前で水着を着たことがないから、慣れておこうかなー と思って……」
博美も樫内を見て答える。
「機械科は男子ばかりだから、ちょっと恥ずかしいよね」
「えー、いいなー 私も行きたいなー」
樫内の言葉は博美の方でなく、直ぐ前に座っている篠宮の方に向いているようだ。
「えっ! 直海ちゃん、海に行きたいの? まだ海開きしてないからお店なんかが営業してないよ」
前を見てはいても意識は後ろにあった篠宮が、間髪を居れず答えた。
「あっ! そうかー 博美ちゃんたちは如何するの? お店が無いって」
それを聞いて、樫内が再び博美を見る。
「大丈夫じゃないかなー 別に海はそこに在るんだから。 飲み物はコンビニで買っていくし…」
人差し指を唇に当てながら博美はちょっと首をかしげた。
「それにいきなり人混みの中を水着じゃ恥ずかしいしねー」
「そうね。 持って行けば良いんだもんね」
樫内がうんうんと頷く。
「篠宮さーん ねえー 行こう。 連れてって~~」
樫内が甘えた声を出す。
「か、樫内さん…… どうしちゃったの? いつもと違うよ」
普段とあまりに違う様子に、博美は樫内から距離をとった。
「篠宮さん。 言っても良い?」
「あ、ああ。 まあ良いけど…」
樫内の問いに篠宮が小さく答えた。
「あのね。 篠宮さんから返事を貰ったの。 うふ…うふふ…… やだー 恥ずかしい」
樫内が手で顔を隠して悶え始めた。
「ひょっとして… あの告白の? わーー! ねえー 篠宮さん、なんて言ったの?」
自分の世界に入ってしまった樫内からは返事が聞けないと考えた博美は、篠宮に直接聞いた。
「い、いや… 流石にそれは…… まあ、お付き合いしましょ。 という事だよ」
窓から外を見ながら答えた篠宮の頬も赤く染まっていた。
「お母さん、お母さん! 上手く行かない。 助けて!」
日曜日の朝っぱらから博美が台所に駆け込んできた。メイクの途中らしく、まだファンデーションしか塗っていない。
「どうしたの? そんなに慌てて」
朝食の用意を中断して明美が振り向く。
「普段と違うからメイクが上手く行かない。 もう何度も落としてやり直してるんだけど…」
博美の手にはウォータープルーフのチークやリップなどが握られていた。
「いいわ。 やってあげるから落ち着きなさい」
優しく笑って明美が言った。
「海に行くんだから、日焼け止め効果のあるファンデーションを使ってるわよね?」
「うん。 それは大丈夫だよ。 ラジコンに行くときはいつもそれを使ってるから」
やっと落ち着いて博美は椅子に座った。
「いってきまーす」
荷物を前籠に詰め込んで、博美はスクーターに跨っている。
「ちょっとー あんたそんな格好で行くつもり?」
見送りに出てきた明美は博美の姿を見て呆れていた。
「うん? 変かなー」
博美は首を傾げながら自分を見た。ビキニの水着の上に、セットになっていたタンクトップとショートパンツを着ている。
「別におかしなところは無いよ?」
博美はウエストや胸の周りを触り、撚れたり挟まったりしていないことを確かめた。
「そんなことじゃ無いの! 肌を出しすぎでしょ。 それじゃ殆ど下着じゃないの」
はしたない、と明美が続ける。
「いいじゃない。 暑いんだからー」
明美の言葉を無視して、博美はスクーターをスタートさせた。




