02話
相変わらず筆の遅さが半端ないです。
目が痛いほどの日差しの下、うっすらと蕾がつき始めた桜並木。「青春を謳歌しています!」と全身でアピールしているかのような明るい笑顔で人々が行き交う中。とぼとぼと歩く鳥羽智之の後姿は、本人の線の細さも加わりそこだけ緞帳が下りているかのように暗く生命力というものにかけていた。心なしか、周囲の人達も彼の事を避けて歩いているように思える。
窮屈な服に慣れない言葉遣い。適当にすごしてきた日々を何とか脚色し、自分を飾り、数ヶ月に渡る就職活動の末になんとか内定を手に入れた企業。外から見る分には特別ぱっとしたものがあるわけではなかったが、それでも殆どの仕事なんてそんなものだろうし入ってみればそれなりにいい所もあるだろうと思い、学生として最後の春休みを満喫しようとしていた矢先だった。
入社予定の会社が倒産したのは。
(そんなギリギリの経営状態だったのに人を雇おうなんて思うなよ……)
それでも、文句を言う相手はもっと悲惨な思いをしているんだろうなと思うと、心の中でも文句を言うのが申し訳ないと思うようなお人好しな性格。
母校、境新大学を既に卒業してしまったため就職浪人という手段も取ることのできない智之は、この春晴れて無職となったのだった。
◇ ◇ ◇
築20年のやや汚れが目立つようになってきた2階建アパートが智之の住処だ。1LDKと一人暮らしにはやや広い間取りだが、築年数と間取りの割に安い家賃ということでなかなかのお気に入りであった。
しかしそんな居心地のいい"巣"も、今の落ち込んだテンションをあげる役には立たない。肩にかけたバッグに目を落としその中に入った求人雑誌の存在を確認して、大きく肩を落とした。
「とりあえず……バイト探さないとなぁ……」
一旦は終わったはずだった就職活動の苦労を想像しただけで心が折れそうになる。
ため息をつきながら鍵を取り出し、ガチャリと回した後ドアノブに手をかけた。
「……あれ?」
押しても引いても開かない。まさか引き戸だったりしてと考え、そんなわけはないとセルフ否定。4年間暮らした部屋の玄関扉の開け方を忘れるほどぼんやりとしていない筈だ。もしやと思いもう一度鍵を回してみると、今度はちゃんとドアが開いた。
「やばいなー、鍵掛け忘れてたか」
そう思ったと同時、彼の耳に部屋の中から人の話し声が飛び込んできた。足元に視線を落とせば、そこには見覚えのない靴がいくつか並んでいる。首を傾げながら数歩下がり、部屋番号を見て確かに自分の部屋であることを確かめる。そもそも部屋を間違えていたのなら鍵を開けることは出来ないという事に気づく。
しかし来客の予定などない筈。親しい友人に渡していた合鍵などは、卒業と同時に回収していた。そもそも実家組の一部を除いて、彼らは皆すでにこの地を離れて社会へと旅立っていったのだ。
笑い声も聞こえることからまさか泥棒ということはないだろうが、このまま部屋に入っていっていいものだろうか。部屋の主としては少々消極的な考えを浮かべつつこっそり耳を澄ましていると、中にいるうちの1人が名前を呼ばれたことで疑問は氷解した。
「なんだ、大家の姐さんか。何か用事あったっけ?」
同じアパートの101号室に住む大家は、30代半ばくらいの背の高い女性である。1人暮らしの智之にたまに差し入れをしてくれる、非常にありがたい存在だ。顔を合わせれば雑談する程度には良好な人間関係を築いているが、留守中にわざわざ上がって待っているというのは珍しい。
「……ただいま。どうしたんですか、わざわざ待ってて――」
玄関と居間を隔てる扉を開いた瞬間、3対の視線を向けられた智之は見事に固まった。
「おや智坊、おかえり」
居間の中心に鎮座する座卓を囲んでいるのは、年齢性別もばらばらな3人。
その中で最初に口を開いたのは、このアパートの主である大野マチ。長身で筋肉質な体躯に燃えるような赤毛と特徴的な外見をしている。娘と2人暮らしだというが、そちらの方とはあまり接点がない。見た目の通り基本的にパワフルな女性だが、今は火のついてない煙草をくわえたままごろごろとしている。
その向かいに座っているのはスーツを着た30代後半くらいの男性。開いているのか閉じているのか定かでない細い目と困ったように下がった眉が気の弱そうな印象を与えているが、手元で開げているのが本棚に並べてあったゲーム雑誌であるところを見ると、案外図々しいのかもしれない。無言で会釈をされたので慌てて頭を下げるが、智之はどこかで見たような気がするものの彼の顔を思い出すことが出来なかった。
しかし智之の動きを止めたのはそのどちらでも無かった。
人様の部屋のベッドで堂々と寛ぐ3人目。記憶にあるものとは髪の長さも色も違い、うっすらと化粧をしているが、それでも智之が彼女を見間違えるはずが無い。
「な……奈菜ねえ、何でここに!?」
「『な』が1個多いけど久しぶりだね!」
全身で抱きつかれる事によって感じる記憶よりもずっと柔らかな感触にもがもがとくぐもった声を上げる智之に、奈菜はぐりぐりと頬ずりをするのだった。
それまで手に持っていた薄型の携帯ゲーム機を無造作に放り出し、智之がまるで抱き枕であるかのように両手両足をしっかりと絡ませて離れようとしないのは、生まれたときからずっと一緒にいた幼馴染であり、姉貴分であり、そしてある意味で天敵。悪気も自覚もないままに、過剰なまでの甘やかしは人間的にダメになる危機感を覚えさせ、有り余るスペックからなる振り回しは物理的にダメになる危惧を抱かせた。そして彼女の"お願い"を断ることはできない。それはきっと、自分の本能に刻み込まれていたのだと智之は思った。
奈菜のべったべたなスキンシップが異常であることを意識するようになったのは、おそらく高校に入ってから。その後3年に渡りあの手この手を尽くしてその庇護下を飛び出し、今の住処に転がり込んだのが大学入学時。それ以降、事あるごとに押しかけようとする彼女を宥めすかして何とか平和を保っていたが、ついに――
「奈菜ちゃんやー、殴られてる殴られてる」
「あーっとヤバイ、平良さんパス」
実に4年ぶりの再会に満面の笑みを浮かべる奈菜に横から声をかけたのは、彼女のものと同じ型のゲーム機を持つ大家さん。スピーカーからしきりに殴打音が流れていることに気づいた奈菜がゲーム機を差し出すと、スーツの男性――平良はいろいろと諦めたような笑いを浮かべたまま、それを受け取った。
「平良ちゃん大剣使えるかい」
「うーん、どちらかというとボウガン派なんですけどね……」
などと会話しながらゲームを再開する2人は置いておき、抱きついたまま頭を撫で回す奈菜に顔を向けた。
「なんで奈菜姉がここにいるのさ……」
「智ちゃんを養おうと思って!」
冗談めかした仕草でビシィッと立てた親指を自分に向け、虫歯になったことのない白い歯を輝かせる奈菜に、智之はため息を1つ。
「……僕の部屋、誰に聞いたの」
「大野ちゃん。狩り友だから」
「どうやって探したのさ!?」
「総当り」
事も無げにそう言って差し出された携帯電話――待ち受けが明らかに隠し撮りと思しき自分の写真だというのは見なかったことにしてアドレス帳を開くと、そこに設定されたグループの中に"境新大学生アパート経営者連合"の文字が。登録件数は怖くて確認できないまま、そっと携帯を返却する。
「総当り……ね……」
「あ、でも智ちゃんがOK言うまで押しかけないって約束はちゃんと守ってたからね。今まで一度も来てないよ」
「……今日は?」
――ぎくり。
彼女の言うとおりならば、智之が是と言うまでは会わない筈ではなかったのか。痛いところをつかれた奈菜は抱きついた姿勢のまま、視線をあらぬ方向へ向けて口笛を吹き始める。やたら上手い。
「きょ……今日は大野ちゃんに会いに来ただけだもん。お仕事だもん。たまたま打ち合わせしてた所に出くわしただけなんだから、会いに来たのは智ちゃんの方じゃないさ」
唇を尖らせながら自分で言いだした理屈にだんだん嬉しくなってきたのか、感極まっていっそう強くしがみついてきた。
「そう、智ちゃんがあたしに会いに来てくれたんだ! 嬉しいな~!」
遠くから見ている分にはきりっとして男前な姉は、どうして自分といるときはいつもこうバグってしまうのだろうか。いや、記憶にある限りはさすがにここまで壊れてなかった気がする。
「……奈菜姉、涎垂れてる」
「うおっと、ごめんごめん、久しぶりの智ちゃんの匂いに興奮しすぎた」
ポケットから取り出したハンカチで、べとべとになりかけた智之の顔をぬぐう。一頻りぬぐった後、そのまま智之の頬に両手をそえ、額同士を合わせるようにして間近で目を覗き込んだ。
「ほんと、4年ぶりかなぁ。なんで会ってくれなかったの」
その瞳がわずかに潤んでいる事に智之は気まずさを覚えるが、それでも目をそらさず、じっと見つめ返した。
「……ずっと一緒にいたら、ダメになると思ったから」
「それはどっちが?」
「両方。……奈菜姉には格好いいままでいて欲しかったし、僕がそのままじゃきっと足を引っ張るだけだったから」
その言葉に嘘はない。2人の間に欺瞞は通じない。どれだけ時間があいたとしても、きっとそれは変わらない。
それがわかっているから、奈菜はただ小さく頷いた。
「……うん、分かった。昔のかっこいいお姉ちゃんに戻る」
「それは程々にしてほしいかなぁ」
そう言って真面目な顔で見つめあい、やがてどちらからともなく吹き出した。
4年の月日は決して短いものではないが、2人の間の距離を広げるには足りなかった。
部屋の中には小さく笑う2人の声と、2つの殴打音。
『…………』
フローリングに転がり抱きつかれた状態で智之が振り返ると、なんとも形容しづらい生ぬるい表情の狩人2人。
「――っと、平良ちゃんかじられてる」
「――うわ、なんで回復G持ち歩いてないんですか」
目が合った事に気づいて慌てて誤魔化すように画面に目を落としたが、その後もちらちらと向けられる視線に耐えられず、わずかに赤い頬を隠すように床に突っ伏す智之だった。
◇ ◇ ◇
「……で、仕事で来たってどういう事なのさ?」
「あぁ、そうだったねー」
気を取り直して座卓を囲む4人。向かいに座った奈菜に改めて問いかけると、彼女は淹れたてのお茶をずずっと啜って答える。
「あたしが起業したって知ってる?」
「以前、親から聞いたよ。何やってるか知らないけど」
「うーん、昨今流行のVR製品関連。もともとは実家の研究グループの一部だったんだけど、最近そのメンバーの一部を連れて独立してね。一応系列会社ってことになるけど」
「へぇ、どんなものを作ってるのさ?」
「今はヒミツ。だけどもうじき教えられるようになると思うよ」
「今は駄目?」
「そ。仮にもトップが真っ先に部外者に情報漏洩するわけにはいかないでしょ」
そういえば姉は案外その辺の公私は弁えていたタイプだったという事を、智之は思い出す。
「で、最近この近くに移転したんだけど、寮として契約できるところを探してて見つけたのがここ」
「たまたまうちに入ってた子達はみんな今年卒業でねぇ。都合が良かったんだよ、全員出てく予定だったから。まぁ……1人を除いてね」
肩をすくめて答える大家に、その1人は嫌な事を思い出して肩を落とした。
「そういえば、僕が働くはずだった会社、ここから通おうと思ってたんだった……」
寮になるならどっちにしろ出て行くしかなかったのか。それにしてもそういう事はもっと早く言って欲しかった。
鬱々とした思考に沈みかけた所で、パンと手を合わせる音で我に返った。
「と・こ・ろ・で!」
奈菜は胸元で合わせた手を芝居がかった仕草で広げ、結局未だに思い出せないスーツ姿の来訪者へと向けてみせた。
「こちらのおじ様が誰だか分かるかな?」
「……すみません、ちょっと思い出せなくて」
首を振る智之に、平良は少し落ち込んだように肩を落とした。
「そうですか、まぁ確かに1回しか会ったことないですけどね……」
「あ……なんというかスミマセン……」
ぺこぺこと頭を下げあう2人は、どことなく似たようなオーラを纏っている。具体的にいうと、振り回されるタイプの。そして典型的な振り回す側であるところの奈菜は、悪戯が成功したときの子供のような顔で笑ってみせる。
「このオジサンはね、最近まで勤めていた会社が潰れちゃった所を拾ったんだけど」
そう言って告げた名前は、ある意味で非常に聞き覚えのあるものだった。
「そこって……」
「はい、鳥羽君が今年から入社する予定のところでした。そういう意味では大変申し訳ない」
「……そういえば面接の」
「おぉ、思い出してくれましたか! まぁ実際あの時私はあまり喋ってませんでしたし、印象も薄かったでしょう。
よく言われるんですよね、『いつの間にいたの』とか『いつ帰ったの』とか。ちゃんと声もかけたし返事もされてるんですけど、そんなに影が薄いですかねぇ」
「あー……」
なんとも答えづらい言葉に思わず視線をさ迷わせる弟分を横目に、姉貴分は腕を組んでうんうんと頷いてみせる。
「平良さんのいた所はねー、現場の人達はなかなか優秀だったのに、上の人がちょっとアレでさぁ」
「まぁ、今だから言えますけど、正直言ってアレでしたからねぇ」
疲れたような笑いと溜息に、相当の苦労があったことが想像できる。
そういう上司がいるところに入らなくてすんだと言うのはある意味不幸中の幸いだったのだろうか。
「もともと智ちゃんが入る会社乗っ取ろうかなーと思って調べてたんだけど、なんかちらほらとキナ臭い所が見つかったんでつい潰しちゃった」
えへ、と可愛く笑って見せるが正直似合わない。彼女はもっとこう『ふはははー』といった笑い方が合うと智之は思うが、それを口に出さない程度の分別はある。というよりも、
「……え、潰したって?」
「うん、そう。ぷちっと」
そう言って目の前で親指と人差し指をすり合わせてみせるが、こちらの仕草は実に似合っていると言える。偉そうなところが特に。
「あ、とは言ってもちゃんと働いていた人達は、実家の系列を紹介したからね。何人かはうちに来てもらったし。どっちにしてもそんなに悪い待遇じゃないと思うから安心して欲しいな。
……まぁ、慈善事業じゃないんでアレな人達はさすがに切ったけどね」
「なら……まぁいいか」
というより不祥事やら何やら、そもそも自分の預かり知らぬ話である。
対象が自分の勤めるはずの会社、目をつけられた切っ掛けが自分というのは微妙に複雑ではあるが、奈菜や平良の様子を見ていると遅かれ早かれこうなっていた気がする。結局真っ当に働いていた人達はもっとまともな所――奈菜の紹介という事で、その点については疑っていない――に転職できたわけなので、むしろ良かった部類だったのかもしれない。
まぁそれも部外者からの視点であり、ある意味当事者である智之にとっては結局己が無職であることには変わりないのではあるが。
そもそも何故わざわざここを訪れてまでそのような話をしたのか。智之が顔を上げると、こちらをじっと見つめる奈菜と目が合った。
「他の人は皆うちに来るなり系列会社に言ってもらうなり、そのまま無職になってもらうなり決まったんだけど、1人だけまだ声かけてない子がいてさ」
「え?」
「仕事が決まってないならうちに来ない? まぁ贔屓するわけには行かないからちゃんと仕事は覚えてもらうけど、アルバイトしながらまた就職活動するより良くない?」
半ば予想していたが、改めて告げられるその言葉に少し黙り込む智之。
差し出された手を拒むことは容易い。同じ大学へ行こうという誘いを断った数年前のように。
あの時は一緒にいるのが当たり前だという盲目的な想いに耐えられずに離れた。それは今でも間違っていないと思う。
しかし今は、しばらく距離を置いておいたおかげでお互いに少し大人になれたのかもしれない。以前は智之のことを最優先していた彼女が、切欠が智之とは言え無関係な人を助けるようになった。再会の様子を見るにべったり癖が抜けたとは言えないが、それでも視野狭窄からは脱しているようだ。
もしも彼を優遇するというような事を言い出したならば、悩むことなく断っていただろう。それは智之が姉の足を引っ張り続けるという事に他ならないし、ささやかとは言えど智之にもプライドはある。
だから――
「少しだけ気を回しすぎだと思うけど、ありがとう」
先ほどは事も無げに言っていたが、一企業を潰すのもその後のフォローをするのも簡単な事じゃないだろう。だが、それをわざわざ実行したのも結局のところは智之のためだ。もしも彼女が手出しをしなければ、智之はきっと苦労する事になっただろう。
「よろしくお願いします」
今は少しだけ甘えて、そしていつか恩を返せるようになろう。
そう思って、智之は頭を下げた。
◇ ◇ ◇
「よっし、智ちゃんのOKも出たことだし、今日の残りの仕事はダッシュで終わらせる! 平良さん、車回してー! 大野ちゃん、引越し週末だからよろしく!」
「はぁ……僕は何でここまで連れて来られたんでしょうか」
「あいよ了解ー」
ばたばたと三者三様に玄関へ向かう3人。玄関でつま先をとんとんしながら、ふと思い出したかのように奈菜が差し出したものを、見送りに来た智之は反射的に受け取った。
「これは……?」
「地図。あとセキュリティカード。明日からさっそくお願いね。私服でいいけど遅刻は厳禁だからよ・ろ・し・く!」
「え? え?」
急展開に目を白黒させる智之を置き去りに、奈菜は笑う。
「きっと面白いものを見せてあげるから楽しみにしててね! いやー、明日が待ち遠しいな!」
心底嬉しそうに飛び出していく幼馴染の姿を呆然と見送りながら、智之はほんのちょっとだけ、早まったかもしれないと思った。
このシリーズは今後も姉成分多目でお送りいたします。
姉系のキャラにべったべたに甘やかされたいです。
もしくはめちゃくちゃ甘やかすのでもいいです。
美人姉募集中。




