5.廬江を攻略せよ!
土日は2話ずつ投稿させてもらいます。
興平元年(194年)2月 揚州 九江郡 寿春
魯粛から協力の約束を取り付けてからも、長江周辺で有望な人材に声を掛けていた。
そして年が明けると、いよいよ袁術にあいさつをしにいく。
「孫策 伯符と申します。亡き父 孫堅に代わり、袁術さまの下で戦いたく存じます」
「おお! おぬしが孫策か。よく顔を見せてくれ」
さっそく傘下入りを表明すると、袁術は大喜びで近づいてきて、俺の手を取った。
彼はマジマジと俺の顔を見つめ、そしてボロボロと涙を流しはじめる。
「おう、おう……亡き父上の面影が残っておる。孫堅どのの最期は、本当に残念じゃった」
「お言葉、ありがとうございます。志なかばとはいえ、最後まで戦って逝けた父は、それなりに幸せだったでしょう。今後は私も袁術さまの戦陣の端で、槍を振るわせてください」
「何を言う! 勇猛をもって鳴らした孫堅どのの嫡男ならば、遠からず我が陣営の主力になるであろう。以後、期待させてもらうぞ」
「はっ! 粉骨砕身の覚悟をもって、働く所存です」
「うむ、励めよ」
こうして初めての就職面接は、大成功に終わった。
その就職先は、袁術 公路。
汝南袁家の御曹司にして、三国志を彩った群雄の1人である。
後に皇帝を僭称して周囲から袋叩きにあい、ぶざまに死んでいく人物だが、バリバリの名家出身だ。
どれだけ凄いかと言えば、太尉、司空、司徒という最高位の役職者(3公)を、4世代にわたって輩出するほどの家柄である。
それは”四世三公”と呼ばれ、周瑜の実家ですら、小物に見えるほどだ。
その生まれの良さゆえか、袁術は3品の後将軍にまで出世するが、董卓の下につくのを嫌って、出奔した。
その後、南陽に勢力を築いていたが、やがて結成された反董卓連合に参加する。
この連合軍の盟主となったのが袁紹で、袁術の従兄弟に当たる男だ。
この袁術たちの仕打ちにブチギレた董卓は、洛陽にいた袁家の本流を、皆殺しにしてしまう。
そりゃあ、いろいろ気を遣ってたにもかかわらず、出奔して反乱軍を組織されたりすれば、誰でも怒るだろうさ。
後世では”暴虐の権化”みたいに言われてる董卓だが、俺はそれほどひどい人間でもなかったんじゃないかと思っている。
彼のやったことには、佞臣の粛清や、政界の一新など、それなりに評価できることもあるからだ。
にもかかわらず、袁家を中心とする名家連中は、董卓を”田舎者”、”成り上がり者”と馬鹿にして、協力を拒んだ。
その結果、董卓は暴走してしまい、暗殺のはてに、後漢王朝崩壊の責任をかぶせられた、なんてのが歴史の事実ではなかろうか。
その真相は、今では誰にも分からないが、もっと評価されていい人物な気がする。
それはさておき、袁術と孫堅は、荊州の南陽郡で出会った。
ちょうど袁術が南陽に浸透しはじめた頃、親父がその太守をぶっ殺したのがきっかけだ。
おかげで袁術はやすやすと南陽を掌握でき、親父は反董卓連合に参加したかったのもあって、利害が一致。
その後、孫堅は袁術のバックアップを受け、対董卓戦で武功をあげた。
反董卓連合が瓦解してからもその関係は続き、劉表との戦いで親父は命を落とすに至る。
そんな経緯があるため、俺が袁術を頼るのは、不思議でもなんでもない。
孫堅の軍勢を引きついだ孫賁や呉景も、袁術の傘下に収まっているしな。
親父の軍勢を取りもどすためにも、しばらくは頑張らないと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
興平元年(194年)6月 揚州 九江郡 寿春
袁術の傘下に収まった俺は、まずは足元を固めることに専念した。
信頼できる部下を集め、孫策軍団の基盤を作るのが目的だ。
そんな俺の最初の腹心は、孫河と呂範だった。
「孫堅さまの分まで、お仕えします!」
「一生、兄貴についていくっす!」
孫河は25歳の青年で、黄巾討伐の頃から孫堅に従っていたベテランだ。
彼は孫堅に匹敵する可能性を俺に見出したのか、絶対の忠誠を誓ってくれている。
逆に呂範は18歳のひよっこで、町中で絡んできたのでボコってやった。
そしたら妙になつかれて、俺の子分2号に収まっている。
さらには黄蓋、程普、韓当、朱治などといった、旧孫堅軍団の古強者とも親交を深め、着々と足元を固めていた。
そんなある日、袁術から打診を受ける。
「……廬江の攻略、ですか?」
「うむ、廬江太守の陸康がな、儂の兵糧要請を拒否してきおった。このままでは示しがつかんので、奴を攻め滅ぼすことにした。孫策であればそれぐらい、たやすいであろう? 無事に廬江を攻略した暁には、おぬしを太守にしてやろう」
とうとう来たか、この話が。
これは袁術が徐州を攻めようとして、陸康に兵糧3万石の供出を求めたことに端を発する。
しかし正式な上司でもない袁術の要請を、陸康は拒否した。
なにしろ袁術はこの時、揚州刺史を殺して寿春に居座った、ただの叛徒に過ぎなかったのだ。
まともな役人であるほど、その要請に応えるはずがない。
しかしこれに逆ギレした袁術が、俺に討伐を命じてきたという流れである。
史実では、孫策も陸康に恨みを持っていたため、ホイホイと出撃して、廬江を攻め落とした。
その恨みとは、孫策が陸康を訪ねた際、無下に扱われたからだという。
そうして廬江を攻め落としたはいいものの、袁術は前言をひるがえし、別の部下を太守にしてしまう。
実はこれ以前にも袁術は、九江の太守に俺を任ずると言いながら、反故にした前科がある。
”元祖言うだけ番長”とは、袁術のことだ。
しかしまあ、真の問題はそのことではない。
決して良くはないが、大した問題ではなかった。
真の問題は、陸康が声望の高い名家の当主だったってことだ。
それを考慮せずに陸康を殺したため、孫策はそれ以降、周辺の名家からそっぽを向かれるんだな。
この辺の名家といえば、陸家の他に顧家、朱家、全家、張家、凌家などがあり、それぞれ役人や軍人を輩出する、いわゆる上流階層を形成していた。
一応、孫策にも周家と呉家がついているが、その他の名家には嫌われてしまう。
江東に地盤を築こうとしている孫策にとって、これはよろしくない。
ただ戦争をするだけならまだしも、統治を安定させるには、知識層である名家の協力は、不可欠だからだ。
もっとも、史実では孫策が早死にして、孫権に代替わりしたため、この問題は解決に向かう。
陸康の甥の陸遜だって、孫権の代になって仕えてるからな。
仮に孫策が長生きしていても、恨みを持つ陸遜はなかなか出仕しなかっただろう。
しかし今生では長生きするつもりなので、この状況をなんとかせねばならない。
そんなことを考えながら、俺は調子のいい返事を返す。
「分かりました。陸康はお高く止まってて、嫌いだったんですよね。すぐに軍勢を整えて、討伐に向かいます」
「おお、やってくれるか。よろしく頼むぞ」
「任せてください……だけど、敵が城に引っ込んだら、時間が掛かるかもしれませんよね。その場合には、交渉を任せてもらえますか?」
「なんじゃ、奴の命を助けろと言うのか?」
「もしも城を明け渡してくれるなら、それぐらいはしないと。ムダに兵士や兵糧を損なうよりは、いいと思うんですが」
遠慮がちにそう頼めば、袁術も渋々と認める。
「ううむ、まあ、仕方ないか……たしかに今、必要なのは、奴の命ではなくて兵糧じゃ。十分に攻略期間が短縮できたと言えるなら、それぐらいはよいじゃろう」
「ありがとうございます。それではさっそく、準備に取りかかります」
「うむ、頼んだぞ」
こうして俺は、廬江の攻略に取りかかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
興平元(194)年 9月 揚州 廬江郡 舒
ハロー、エブリバディ。
孫策クンだよ。
あれから3ヶ月後、俺は陸康のこもる城を、2千の兵で囲んでいた。
「チッ、あいつら、一向に出てきませんね。ちょっと兵を率いて、特攻してきましょうか?」
「それよりも俺が忍びこんで、陸康の首を取ってくるっすよ」
暇を持て余した孫河と呂範が、物騒なことを口走っている。
しかし彼らがそう言いたくなるのも、分からないではない。
なにしろ敵の陸康は、初戦に敗れてから、亀のように城に閉じこもっているからだ。
こちらがいくら挑発しても出てこない徹底っぷりは、いっそ見事なものである。
「まあ、待て。むやみに兵を損なうのは、俺の好みじゃないんだ。それに他に手がないわけでもない……お、噂をすればってやつだ」
「え、他の手って、なんすか?」
ちょうどその時、陣営に駆けこんでくる騎影があった。
馬を操っているのは、無二の親友である。
「周瑜! よく来てくれたな。その分だと、頼んだことは上手くいったようだな」
「ああ、孫策。いろいろと大変だったけど、期待には応えられそうだよ」
周瑜はそう言いながら馬を降りると、同乗させていた子供を降ろす。
「彼がご要望の、陸遜だ」
「り、陸遜です。はじめまして」
「ああ、はじめまして。俺が孫策だ。よく来てくれたな」
彼こそが名家を敵に回さず、廬江を落とすための切り札だ。
そして後々まで孫呉を支える、重臣にもなってもらわないとな。




