エピローグ 【母が俺を忘れても】
数年後の春。
柔らかな陽射しが降り注ぐ、海辺の街。 白い壁の家に、潮の香りを孕んだ穏やかな風が吹き抜けていた。
遠くで波の音がリズムを刻み、カモメの声が平和な午後の空に溶けていく。
庭には色とりどりの花が咲き乱れている。 その花壇の手入れをしていた女性――日向 奏は、ふと顔を上げて汗を拭った。
健康的な肌艶。輝くような笑顔。 かつて硝子の檻に閉じ込められていた面影は、どこにもない。
「奏ー! おーい、そろそろお茶にしないか?」
家の中から、優しそうな男性が顔を出した。 彼女の夫だ。
学生時代から交際していた彼と、彼女は数年前に結婚した。 誰にも邪魔されることなく、平穏に愛を育み、結ばれた。 彼の手には二人分のティーカップがあり、湯気が立っている。
「ええ、今行くわ!」
奏は立ち上がり、パンパンと土を払った。
愛する人と、愛する庭。何気ない日常。 それが奇跡であることを、彼女の魂だけが知っているかのように、彼女は毎日を大切に生きていた。
その時、庭の隅にあるベビーベッドから、元気な泣き声が聞こえた。
「あらあら、起きちゃった?」
奏は微笑んで、ベッドの中を覗き込んだ。
そこには、生まれたばかりの男の子が、小さな手を空に向かって伸ばしていた。 何かを掴もうとするように。あるいは、見えない誰かと握手をするように。
奏は赤ん坊を抱き上げ、その頬にキスをした。 愛しい、愛しい我が子。
夫が近づいてきて、赤ん坊の頭を優しく撫でる。
「さて、そろそろ名前を決めてやらないとな」
「ふふ、もう決めてあるのよ」
奏は、窓の外に広がる青い空を見上げた。
どこまでも高く、澄み渡る青。
なぜだろう。 この青空を見ていると、胸の奥がキュッと締め付けられるような、懐かしい切なさを感じる。
ずっと昔、冷たい雨の日に、誰かに助けられたような気がする。顔も名前も思い出せないけれど、その人が残していった「温もり」だけが、今も胸の奥で灯っている。
だから、彼女はその名前を選んだ。
一瞬の奇跡。 かけがえのない時間。 この幸せな時が、永遠に続きますようにという願いを込めて。
「……刹那」
彼女は、赤ん坊に優しく語りかけた。
「あなたの名前は、刹那よ。一瞬一瞬を、大切に生きるの。……誰よりも強く、優しくなれるように」
刹那。
その名前を呼ばれた瞬間。 赤ん坊が、まるで「わかっているよ」と答えるかのように、にっこりと笑った。
その笑顔は、かつて世界を敵に回して母を愛し、時を超えて彼女を守り抜いた、ひとりの少年の笑顔によく似ていた。
風が吹く。 花びらが舞い上がり、光の中で踊る。
時間は流れる。 誰にも止められない、優しく、愛おしい時間が、未来へと続いていく。
母が俺を忘れても。 愛は、ここにある。




