第36話 水晶の夜を阻止せよ、その4
ここは、ロンドン郊外のロスチャイルド家の屋敷。
ルーシーこと、ルクレチア・レイブンクロー・ロスチャイルドは、庭に置かれたテーブルでチェスのコマを動かしつつ考えに耽っていた。
チェスにはコンポジションと呼ばれる、詰将棋的なものがある。しかしこれは、より創造性、審美眼、盤外に沿えられた意味に重きをおいたものであり純粋なゲームとは趣を異にする部分がある。ルーシーは、今日も午後のひと時をそれに費やしていた。
彼女は知っている。『水晶の夜』には不幸な偶然が積み重なっている。ドイツのポーランド国籍のユダヤ系住民に対する施策、フランスで起きてしまった一人の青年の自暴自棄な行動、そしてドイツ国内の虚のような溜まった空気……それぞれが持つ力が、あの時、あの関係で起こらなければ、事件はあそこまで大きくならなかったし、歴史を動かす要因とはならなかった。
……果たして、この裏側に隠れた真の事実を東洋の狐たちに理解できるのか。ただ一つの出来事を止めても、別のところから歴史の流れは溢れ出す。すべての力の流れを御してこそ歴史を変える者たり得るのだ。
「お嬢様、紅茶が冷めてしまったようです……換えをお持ちしましょうか?」
彼女の執事であり、共に仕事をするワタリがそう尋ねる。
「……ええ、そうね。もう少し掛かりそうだから」
「ドイツの東洋人たちの事をお考えですか?」
仕事中でなければ、そのような余計な事を口にしないワタリの言葉にルーシーは、珍しいものを見るように見上げた後、独り言のようにつぶやいた。
「キングには、まだ手が届かないけどルークとビショップは手を掛けられそうなのよね……あと、アンパッサンもできそうだけど……まだまだ駒が足りないと思うの」
「そこを我々が手を差し伸べると?」
紅茶を入れ替えた後、ごく自然にワタリは声を沿えた。
ルーシーは思案げに新しい紅茶のカップを口元に運びながら
「でもそれはルール違反だと……お年寄りたちが口を出しそう」
ずっと自分たちで世界を動かしてきた自負のある”お年寄りたち”は、何かと口うるさく指示を出してくる。今回のことも、あの人達は『手を出すな』と言っていた……それでは、いつまでたっても世界を変えられないというのに。
「……彼らがやっているのはチェスではないかもしれませんが」
「?」
「東洋には似たゲームで『将棋』という物がございます。これは手元に隠した別の駒を置くこともできるそうです」
ワタリにも思うところがあるのか今日は言葉が止まらない……そういえば彼の一族の出処は同じ東洋の国だという事を思い出した。
「……そうなの?」
「さらに、相手の駒をとると自分で使うこともできるそうですよ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こうなったら、取っておいた切り札を使ってでも、こっちに流れを持ってきてやるわ」
テンちゃんがなにか恐ろしそうなことを言いだした。
「……『取っておいた切り札』って?」
「あれ、前に話さなかったっけ? オリンピックの時」
「オリンピック?」
そういえば何か聞かされた気がする……あまりに荒唐無稽なので、そのまま聞き流していたけれど。
あれは、ベルリンオリンピックの3ヶ月くらい前だったと思う。
「もうすぐ、ベルリンオリンピックがあるんだけど……」
「ああ、そうだね。オレもドイツの小島さんから開会式の観覧席に招待してもらってる」
「それじゃあ、たーくんも参拝者の一人になるのね」
「参拝者?」
「そう、参拝者」
そう言って、いつものごとくテンちゃんの信じられない話しが始まった。
「アルベルト・シュペーアって人が悩んでいたみたいだから覗いてみたのよ」
シュペーアって誰? って思ったんだけど調べてみたらヒトラーお気に入りの建築設計士で、ナチス党のニュルンベルグ党大会の会場を設計したり、総統官邸の設計の手直しや、ベルリンの大規模改修計画『世界首都ゲルマニア』の帝国首都建設総監としてヒトラーと一緒に詳細な検討をする役割の人で、さらには飛行機事故で死亡した軍需相に代わって軍需品生産計画を見直し、『装甲の奇蹟』と呼ばれるほどの生産量の向上を成し遂げた、まさしく万能人間という感じの人だった。
「で、そのシュペーアさんは何を悩んでいたんだい?」
そう聞いてみると
「彼、総統にオリンピアシュタディオンを設計し直すように言われて、もう時間もお金もないのにどうしたらいいんだって」
オリンピアシュタディオンと言うのは、ベルリンオリンピックのメインスタジアムのことだ。オリンピック開催まで3ヶ月を切ったような時期に、そんな事を言われたら困ってしまうのは確かだ。
「……何が気に入らないんだろう?」
「それがねぇ、威厳が足りないんだって」
「威厳?」
「うん。総統は、別の設計者にローマのコロッセウムをイメージしていて、それを大きくしたデザインでオリンピアシュタディオンを作らせたらしいんだけど」
「だけど?」
「迫力がないっていうか、のっぺりしているらしいの。で、彼に直せって……」
それは……今更、そんな根本的な事を言われてもシュペーアさんも困るだろうなぁ。
「それで、迫力を出したいなら私がアイデアを教えてあげるって」
……言ったのか?
「うん。それを話したら彼、驚きながら『素晴らしいアイデアだ。早速それを作ろう!』って言ってくれたわ」
えぇっ! 天才建築家が褒めるアイデアって何だったんだろう。オレはテンちゃんに聞いてみたら、勿体つけて教えてくれない。そんなに知りたいなら後で本物を見ながら教えてあげるって……それより今日は話したいことがあると、その日はこれで終わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そしてベルリンオリンピックの開会式当日。
オレは小島武官と共にオリンピアシュタディオンに来ていた。そして入口、手前の所で急にテンちゃんの声が頭の中に聞こえてきた。
「(たーくん、どう? これが私が教えたアイデアを加えたスタジアムよ)」
「(どうって言われても……迫力があっていい感じだね。どこを直したの?)」
「(最初は、スタジアム前の五輪マークが掛かっている石柱がなかったのよ)」
言われてみると、目の前の石柱が大きく圧迫感を醸し出している。これがないと……うん、スタジアムが横に広いせいで、あんまり迫力はない。
「(へぇー、これは確かに迫力を増しているね)」
「(本当は鳥居にしたかったんだけど……)」
「(えっ、神社の鳥居?)」
「(うん。その方がかっこよくていいじゃない? 元気が漲るっていうか)」
……元気が漲るのか? でも間違いなく非難轟々になると思う。鳥居は止めておいて正解だ。
「(……まあ、シューペアさんは正しい判断をしたと思う)」
「(???)」
テンちゃんには通じてないみたいだけど、あえて説明はしない。
そしてスタジアム内の招待席に座って開会を待っていると、またテンちゃんが話しかけてきた。
「(入口前の鳥居はダメって言われたんだけど、代わりにこっちを作ってもらったの♡)」
「(こっちって?)」
「(正面の聖火台を見て……何かに見えない?)」
入り口の反対側の正面には、スタンドの一部を削って聖火を灯す聖火台が置かれていた。黒い金属の直線的なデザインで平たい皿とそれを支える二本の柱……って、鳥居?
「(正解♡)」
なんと、テンちゃんは入口前の鳥居の代わりに聖火台が横から見ると鳥居に見えるようにデザインしてもらったらしい。さすがに色は赤ではなく黒だったが。
「(確かに鳥居に見えるけど……何か意味あるの?)」
オレは、それがどうした? という感じでテンちゃんに言うと
「(これは、すごい意味があるのよ……スタジアムに来た人は全員、この神社に参拝したのと同じ扱いになるの。これですごく大きな霊力を行使することが出来るようになるわ!)」
なんと、テンちゃん曰く、鳥居を作らせたことで、スタジアムが神社と同じ扱いにできるそうだ。そして何万人も参拝するような神社を作ると、それを力として霊力……超自然的な力を行使することが出来ると言った。
そんなバカなと、オレは頭の中で思っていると、
「(あら、飢饉とか怨霊の力を治めるために神社やお寺を作らせたのは、同じやり方よ。集まる人間の力はこっちの方が大きいかも……)」
とテンちゃんに反論された。




