第131話 レニングラードにて、その2
ドイツ軍のモスクワ侵攻は、目標の遙か手前でソビエト軍の物量の前に阻まれ、停滞を余儀なくされた……ドイツ軍がレニングラードから出撃し、空白地帯になる周辺の守備を受け持つはずだったアーロン達、グルカ山岳旅団の属するフィンランド、イギリス連合軍も、担当予定地域でドイツ軍とソビエト軍が睨み合っているため、出撃できずレニングラード市内で足止めされていた。
「さて、どうしたもんかな……」
アーロンは空いた時間、宿舎の指揮官室で今後について思いをめぐらせていた。
前回イギリス本国に戻った際、王室・貴族関係で面倒を見てくれているボールドウィン卿は
「いいかねアーロン中佐、いやハミルトン騎士爵。君は既にイギリスの事を第一に考えて生きるべき存在となった……君のために多くの人間が動いているという事を忘れないように」
と考え方を根本的に改めるように告げた。そして、
「とはいえ君は、まだ無名の存在だ。早急に国民の信頼と支持を集める必要がある。いつまでも軍務に専念しているわけにもいかないのだ」
と話を続けた。彼の話からするとアーロンは近いうちに軍務から離れ、政治や外交関係の仕事に関わらなければならないことになりそうだった。
「軍の仕事の方が、私には合っていると思うんだが……」
アメリカで自分たちの部族の戦士としての過ごしていた日々が心をよぎる……だが、彼は家族や仲間のために故郷を離れることを決意した日のことを思い出し、気持ちを前に向き直した。
しかし彼はもうひとつ、気がかりな問題を抱えていた……タルタリアの人たちの事だ。本来なら現地採用の協力者など利用するだけで、彼らのために軍が何かすることなどあり得ない……しかしアーロンの場合、アメリカに残してきた仲間の姿が彼らに重なり、そう簡単に切り捨てることができない感情を抱いてしまっていた。
アーロンはイギリスで彼の家族の由来などを教えてくれた歴史学者に、タルタリアに関する遺物がレニングラードにあるという話を知っているか手紙で聞いたところ、『そんな話は聞いたことがない』と一言で片付けられてしまった……それでもしつこくタルタリアとウクライナの歴史などについて繰り返し手紙を送り続けた結果、根負けしたのかオックスフォード大学のフィンネルというロシア歴史学者を紹介してくれた。さすが専門家だけあって彼は手紙で詳しい回答を送ってきてくれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『ご質問のロシアにおけるタルタリア人の祖先の遺物についてですが、おそらくレニングラードにはそういったものは存在しないと考えます……』
そう始まった手紙は、まずロシアの歴史についての概略が語られていた。
ロシアの地には古くからルーシと呼ばれる、スラブ人を主体とする人々が住んでいた。ルーシというのは、9世紀頃にビザンツ帝国がドニエプル川中流域の南ロシアのキエフ大公国を指して呼んだ名前だそうだ……一方、北方では周辺のハザールやバリャークといった諸民族に挟まれて、弱い立場にあった別のスラブ系住民がユーリュクというノルマン人の一派を招き、ノヴゴロドの地に国を作り、これが現在のロシアの起源となったと説明されていた。
さらにロシアの地には東からモンゴル系の騎馬民族が押し寄せて来たらしい……13世紀半ばに、この地域の勢力図は一変し、いわゆる『タタールの軛』と呼ばれるモンゴル帝国の征西により、キエフ公国を始めとするルーシの諸公国は、軒並み征服・蹂躙され一部を除いたロシアのほぼ全土が、モンゴル帝国の支配下に組み込まれた。タルタリア人は、このタタールと呼ばれる人々のグループの一つのことだと手紙に書かれていた……何のことはないキエフを滅ぼしたのは他ならぬタルタリア人だったというわけだ。
『1245年のローマ教皇イノケンティウス4世の使者、プラノ・カルピニが彼の地を通った時には、キエフは骸骨が散乱する僅か200戸ほどの寒村だったと記録が残されています。タタール人はその後、ヴォルガ川支流の河岸に陣営を建て、首都サライを中心にモンゴル帝国の西方を管轄するジョチ・ウルス国をつくり、キプチャク平原とルーシ諸国に貢納と兵役の義務を負わせ、300年近くこの地に君臨することになります。
しかし彼らは、貢納と兵役以外については寛容で宗教(モンゴルの支配者はテングリと呼ばれるシャーマニズムの信仰を持っていました)の押しつけや統治者の入れ替えなどもせず、それまでの統治者をそのまま受け入れたようです。このことからタタールの軛は一般に言われているような厳しい支配関係ではなく、むしろ西方のドイツ騎士団などローマカトリックの勢力に対抗する防衛同盟関係だったのではないかと考える専門家もいます。ロシア史では、このような関係は多く見られ、前述のノヴゴロド国を作ったバリャークもこういった傭兵的なものであったと考える者もいます。
14世紀にルーシ諸公国のひとつであるトヴェリが反乱を起こすと、モスクワ公イヴァン1世はモンゴル側に味方して戦い、その功績によりジョチ・ウルスから諸公国の貢納の徴収などを行う主導的立場であるウラジミール大公位を与えられました。イヴァン1世はそれまでより高い税率を徴収し、その一部を自らのものとして財力を蓄え、モスクワに最初の石造教会堂であるウスペンスキー教会堂を建てコンスタンティノーブル総主教に働きかけ、ウラジミールに置かれていたキエフ府主教をモスクワに遷座させることに成功しました。この『キエフ府主教座』という立場をモスクワに奪われたタルタリアの祖先の遺物と見ることも可能ですが、私としては後述するもう一つの意見を支持します。
14世紀後半、タタール人の内紛に乗じロシア公国はジョチ・ウルスへの貢納を廃止し、以後モンゴルのルーシ支配は崩れ、この地域の覇権は徐々にロシア公国に移っていきます。16世紀末にイヴァン4世(イヴァン雷帝)の後、フョードル1世を最後にリューリク朝が断絶するとモスクワ大公国は動乱期に入り、この混乱を収拾するためミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、近代ロシア帝国の基となるロマノフ朝が開闢することになります。
ロマノフ朝は周辺各国と戦い領土を拡げ、農奴制を制度化と専制体制の強化を行い、1712年ピュートル1世の時代に、新たにサンクトペテルブルクに首都を建設し、西欧化を押し進め列強と肩を並べ、皇帝の称号を贈られてロシア帝国となりました』
ここから後がようやく、彼の質問に関する答えだった。
『私は、このロシア史上最初のツァーリの戴冠式で使われた『モノマフの冠』が、お訊ねの物ではないかと推測します。これは12世紀のキエフ大公、ウラジミール・モノマフが祖父であるビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスから贈られたと言われるものであり、また形状が中央アジアのテュペイカと呼ばれる民族衣装の帽子に似たものであるため、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンの妹であったコンチャーカのものとも言われておりタルタリア人由来とするに相応しいものであると考えられるからです。
上記の事由により、これはキエフ大公のツァーリとしての権威を示すものであり、その後キエフからモスクワに持ち出され、イヴァン雷帝がツァーリの正当性を示すものとして即位式で使用された為、祖先の遺物をモスクワに奪われたという表現にも適合すると考えられます。モマノフの冠はその後、モスクワのウスペンスキー大聖堂のアナロイに置かれていましたが。ポルシェビキ政権となった際の混乱で行方不明になったとされているため、レニングラードよりもモスクワを探す方が見つかる可能性が高いのではないかと考えられます』
つまり彼の考えではロシア皇帝が昔、使用していた戴冠式用の冠がタルタリア人の祖先の残した遺物であるという結論らしい……タルタリア人たちの捜し物が、思っていたよりも大物だったことにアーロンは思わずため息を漏らした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アーロンが手紙を読んでいた頃、ドイツ軍はソビエト軍の抵抗を打破するため、ひとつの秘策を繰り出していた。彼らにとって文字通りの虎の子、ティーガーⅠ型重戦車を戦場に送り込むことにしたのだ……最初こそ、ごくわずかの数だったが、やがてそれはドイツ、さらに同盟国イギリスを巻き込んでの増産により、徐々に戦局を動かすまでの存在になっていった。
ドイツにとって幸運だったのは、ティーガーⅠの投入時期が史実の泥濘の残る春先でなく、既に初夏になろうかという時期であったことだった。機動力を犠牲にして重装甲と高火力を手に入れたドイツの重戦車は、ソビエトの傑作戦車を射程外から貫き、あのKV-2すら仕留められる8.8cm砲を所持していた。そしてその正面装甲はT34/76ではゼロ距離でも貫けないものだった。走行系の問題が史実ほど発生せず、まだ西部戦線が存在しないこの世界では史実のキルレシオ1:7を遙かに超える数字を叩き出し、ドイツにとって、まさしくタイフーン作戦の救世主となっていった。
しかしソビエト軍も黙ってやられ続けるているわけではなかった。多大な犠牲を出しながらぎりぎり維持したモスクワ最終防衛ラインに、改良した高初速砲を搭載した新型T34を、さらに8月にはティーガーⅠの正面装甲を貫通できる55口径85mm砲に主砲を換装したT34/85を投入し、戦場は機動兵器の消耗戦の様を呈していった。




