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第100話 スターリンという男

 ヨシフ・ジュガシヴィリは1878年12月にカスピ海の東岸のグルジアのゴリという町で生まれた。古くから交通の要衝でワイン生産が盛んなこの地はキリスト教の伝道が最初期から行われ、世界で二番目に古いキリスト教国家も存在した。


 彼の父親は靴職人で母親は煉瓦職人の娘の第三子として生まれたが上の二人は幼くして死亡した為、実質的にはひとりっ子だった。家は多くの職人を使うほど繁盛していたが、時の流れで伝統的な靴の需要が減ってくると父親は酒におぼれ妻や子に暴力を振るうようになった。彼の5才の頃、母は父と別居し彼も母親について何度も転居を繰り返した。そして8才の頃、司祭の家に居候しながら教会付属の学校に入学した。成績は良かったが他の子と頻繁に喧嘩をしたり馬車にはねられ満足に治療もできず左腕に障害が残ってしまったりした。16になると奨学金で首都トビリシの神学校に入学したが、徐々に神学への興味が薄れていくと共に成績も落ち、図書館で見つけたマルクスの資本論の影響を受けマルクス主義者となった。


 21才で神学校を去ると、気象台で働く傍ら社会主義者として周囲を牽引する活動を行い、ロシアの秘密警察に目をつけられて地下活動を余儀なくされた。何度もストライキや抗議デモを扇動し、当局に逮捕されて東シベリアに3年間の流刑となった。東シベリアに流刑されながらもロシア社会主義労働党に参加した。党は当時、主流派のメンシェビキと少数派のレーニン率いるボリシャビキに分かれ対立していたが彼はメンシェビキを嫌い少数のボリシャビキに属した。


 1905年1月、首都サンクトペテロブルクで血の日曜日事件が起こり、ロシア第一革命として全土に紛争の火が広がる中、彼は滞在するバクーで武装部隊を組織し警察や軍隊を襲い商店などから活動資金を強要調達しながら闘争での頭角を現し始めた。その後も逮捕や流刑、逃亡を繰り返しながらレーニンと懇意となり、この頃書いた論文「マルクス主義と民族問題」でスターリンというペンネームを使い(レーニンの名前を模したとも言われる)その後、彼はずっとこの名前を用いるようになる。


 1914年、第一次世界大戦が勃発しロシア帝国が戦時下に入ると、スターリンは同様に流刑されているボリシェビキの同志と共に軍に召集されるが、腕に障害を持つ彼は兵役不適格者としてはじかれた結果、党の専従としてプラウダ編集局で働くようになる。二月革命で帝政ロシアが崩壊し新ロシア政府が誕生しても相変わらず国内情勢は不安定で、レーニン率いるボリシェビキが権力を掌握したが、支配に抵抗する勢力の蜂起は頻発していた。


 そうした中、彼はレーニンの構想した秘密警察組織「チェーカー」の創設に関わり、党内の粛清装置を手にする……その後、ロシア内戦での食糧徴発の責任者として南ロシアにも赴くと、現地の軍の指揮権を自らのモノとし赤軍兵士を動員して白軍(軍を中心とした反社会主義勢力)の攻撃を開始した……反革命分子の嫌疑をかけたものを裁判なしで処刑し、食糧調達に反発する農村には火を掛け、赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため脱走兵や反逆者の処刑も行うようになる。


 彼はいよいよ粗暴な性格を隠そうともしなくなっていく……1919年末ロシア内戦がボリシェビキ派の勝利で終結すると、その代表たる人民委員会議は革命の国外への輸出を計画しコミンテルンを結成された。スターリンは、このレーニンの国際主義的考えには賛同していなかったがソビエト・ロシアを守るため他国との協力が必要という点は同じ認識を持っていた。


 1921年2月近隣諸国に支配を拡大することを望んだソビエト政府はグルジアに侵攻した……またこの時期政府による食糧徴発に反発する農民や労働者のストライキが頻発し、レーニンはその対策として市場経済を容認するネップ(新経済政策)を施行する。一方でレーニンの政策に反発するトロツキー派に対してスターリンは反トロツキーの党派を組織し、レーニンは彼を党書記長に就け権力闘争を制しようとした。しかしここで歴史の歯車が回転する……1922年5月、レーニンは脳卒中の発作で半身不随となる。彼は静養生活を余儀なくされ人民委員会議とのやり取りは面会に訪れるスターリンのみを通じて行われるようになった。レーニンはスターリンを党内政治的に味方につけていても、考えについてはアジア的で知的でないと低い評価を下していた。


 レーニンが三度目の脳卒中の発作を起こし死去するとスターリンは葬儀を取り仕切り自身でレーニンの棺を担いだ……彼の遺体は防腐処理を施され赤の広場に安置され、ペトログラードは彼を偲んでレニングラードと改名された。彼は個人崇拝の対象となった。残る党内の大きな存在はトロツキーであったが、彼はチェーカーや書記長という立場を利用し、巧妙にトロツキーを党から追い落とした。


◇     ◇     ◇     ◇     ◇


「同志スターリン。キーロフ一等書記暗殺テロの扇動者たち16名の裁判の公開裁判の準備が整いました。ジノヴィエフ、カーメネフら幹部11名については有罪判決で処刑、残り5名はナチス・ゲシュタポとの関係を自白することと引き換えに助命嘆願を出す予定です」

「うむ……助命は却下だ。全員を銃殺にしろ。レニングラード共産党支部関係者もだ。わかったな」

「はっ、残りの反対派についても既に逮捕済みです。教育完了と共に、第二回裁判で自ら罪を認め刑に服することでしょう」

「よろしい……ドイツや日本への牽制も必要だな」

「わかりました。起訴事実に追加しておきます」


これら一連の裁判は「大粛清」と呼ばれ、さらに第三回裁判も含めて右翼トロツキスト達や外交官、NKVD関係者さらにはソ連構成国の幹部まで含めた多くの人間が処刑された。それと共に「スターリンの憲法」の制定と彼の神格化、ソビエト外敵に対する警戒を声高に主張しナショナリズムの喚起が行われた。


 もうすでにソビエトに彼に対抗できる者は存在しなかった。スターリン独裁体制の成立である。しかしそれは何の気休めにもならなかった。彼はますます無慈悲で冷酷で猜疑心の塊と化し、あらゆるところに敵の姿を見出し、スパイを疑い、部下を盗聴させ、疑いのかかった人間はすぐさま粛清した。自分の周りは誰でもが敵であり革命を妨げようとしているという偏執的思いを抱き、ついには「誰も信用できない、自分さえも」と自ら部下に語るほどだった。



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