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籠の中の龍2

 燐湖(りんこ)聖我(しょうが)の「教育係」に就いてから、およそひと月。

 初めて出会った日から毎日のように燐湖は聖我の執務室を訪れるようになり、何も知らない「教育係」に対し、逆に聖我が教育をするという謎の習慣も、すっかり定着していた。

 茶を入れれば零す、文字を書かせれば墨を落とすし、相変わらずすぐに胸や脚を晒す。

 はじめこそ何故こんなに何も知らない女をあてがってきたのかと疑問だったが、やってみてわかった。彼女の天然ぶりは置いておくとして、誰かに教えることで自分の知識を再確認することも自分にとっての教育になるのだと。それがわかれば、すぐに意図も掴めた。

 自分の口で一族について説明させることで、一族の当主として責任感のない自分に、その役割を自覚させるため。


「……はあ」


 考えれば考える程、ため息が出る。

 求められている役割はただ一つ。跡継ぎを作る。実の妹との間に。

 そんなこと、どう頑張れば納得でき実行できるというのか。


「どうなさったんですぅ?」


 縁側に腰かけ、中庭で剣を振る庶家の子供たちをぼんやりと眺めていた燐湖が振り返る。


「こんな家の当主なんざやってられねぇなぁっと思って」


 燐湖の隣に立ち、袖の中で腕を組んだ聖我は同じ景色を眺めながら答えた。

 今日は一切、雲がない。何にも邪魔されることなくその姿を現している月のおかげで、照らされている中庭は明るい。


「こんな家、とは?」

「跡継ぎの件。嫌なんだよ俺、生理的に」

「聖我さまのその感覚は、ふつうです」

「でも宗家じゃ変わり者だ。なあ、今日は燐湖が俺に教えてくれ」


 え?と聞き返す彼女の輪郭が、その灰色の髪が、月に照らされて美しく映る。

 彼女の姿はずっと眺めてられるなと、そんな風に思って隣に腰かけた。

 好きだとかそのたぐいの好意はないが、最初に在ったあの日から、なんとなく彼女の事を気に入っていた。媚びないところや、党首である自分をやたらと畏れたりしない態度がいい。

 最近になって気が付いたが、彼女の髪から香る特有の甘い香りも気に入った。


「んふふ……いいでしょう! 何を知りますか?」

「燐湖のことがいい。そうだな……いままでどこにいた?」

「どこ、と言いますのは?」

「いや、庶家とはいえ龍崇家の事を知らなすぎる。それに今まで見たこともなかった。この屋敷にはいなかったんだろ?」

「さぁすが。えぇお話ししましょう! わたしはですね、つい先日まで──」


 真剣に話を聞こうと、身体を燐湖の方へと向けた聖我だが、視線はその後ろへと向かう。

 燐湖の奥で素振りをしていた少年。その手に握られていた剣がすっぽ抜けて──


「危ない」


 声を上げたのは聖我だった。

 こっちに飛んできた武器を払おうと、その手に大鎌を生み出す。

 燐湖と少年の間には十分に距離があったものの、ここまで飛ばすには十分な勢いがあったらしい。聖我は燐湖の肩を引き、遠心力により回転し飛んでくる剣を見極める。

 ここだ──と聖我が動くより先に、二人の目の前に光の壁が生み出された。

 当たった剣は甲高い金属音を響かせて、弾かれ飛んでいく。

 目の前の壁に気を取られた聖我は、ただただ目を見開き、弾かれた剣が地面に落ちていく光景を眺めていた。

 何もないところに、突然現れた光。なんの前触れもなかったと思う。

 直接お目にかかるのは初めてだが、なんとなくこれが何かは分かる気がした。


「聖我さま!」


 青い顔をして駆けつけてきた少年の声で我に返り、一旦燐湖から離れた聖我は少年へと近づいていく。転がる剣を持ち上げて、先ほど少年がそうしていたように一振り剣を振って見せた。


「気にするな。俺にぶつかるわけないだろう。どんな角度から飛ばしてきたって避けてやるよ」

「ごめんなさい……」

「謝るんじゃない。見ていたが、少し力が入り過ぎているみたいだ」


 少年に剣を返し、構え方の指導をする一方、頭の中は今目の前で展開された壁のことでほぼ埋まっていた。

 あれは天使や人間などが使用している魔法と呼ばれる技術に違いない。

 死神の持つ魔力ではうまく扱えないというのが定説だが、今のは完璧にコントロールしているように映った。


 振り向けば、在るのは眼鏡を掛けなおしている彼女の姿のみ。剣を弾いた光の壁は既に消滅している。


「今の、魔法か?」

「はい。教育係として招集されるまで、魔界で人間に混ざり魔法の研究をしていたものですから……先ほどのは一種の防御魔法です」

「死神の持つ魔力は純度が低くコントロールも難しいから魔法を使うには適していない、と聞いているが」

「聖我様と一緒です。あのぅ……突然変異、といいましょうか……どうやら、わたしの魔力は他と異なっているみたいなのです」


 ぽりぽりと頬を掻きながら、どこか困ったように笑っている燐湖に、聖我はぐいと詰め寄った。


「屋敷の者は知っているのか?」

「えぇ、あの少年も知っています。先ほど驚いていなかったでしょう? 私が変わり者ということは、既にバレてしまっているのです」

「バレ──……まぁ、そうか。道理で」


 ふむと腕を組んで考える。

 魔界で人間に混ざって魔法の研究を……。

 普通に聞けば考えられないが、ちょっと変わった彼女ならなるほどと納得できる。

 魔界というのは、人間という種族が魔法と科学という技術を使い生活する場所。

 己の武器を持って生まれる死神に比べ、生まれつき武器を持たぬ人間という種族は戦闘力に乏しく、下等生物として語られることがほとんどだ。

 しかし、彼らの住む魔界では昼と夜が交互に訪れ、法というルールが人を監視し、人間が開発した電力という便利な力が、彼らの生活に安寧をもたらしていると聞く。

 そんな彼と彼らの世界のどこが、自分たちよりも劣っているというのだ。

 むしろ素晴らしいではないかと思っている。


 魔法というものを生まれて初めて目の当たりにした。

 あんな自在に生み出し、消失させられるものなのか。


 ********


 その日の夜、魔界や人間のことで頭が埋め尽くされてしまった聖我は、まったく眠ることができずにいた。しばらくは布団の中からじぃっと天井の竿縁を眺めていたが、いつまでたっても意識は覚醒したまま。とうとう諦めた聖我は起き上がり昼間燐湖と眺めていた中庭へ向かった。


 時間の概念はあっても、この世界の空の色は昼間と変わらず。

 屋敷から一歩も出たことがない聖我は、紺色以外の空を見たことがない。

 青も、黄色も、赤も、紫も、そんな色の空、絵や写真の中でしか知らない。

 実際に体験してみるまではどうにも信じがたいのだ。


 世界の事は嫌というほど知っている。

 知識としては知ってはいるのに何一つ見たことがない。

 象徴が、そんなでいいのだろうか。

 やっぱり、ここじゃない世界を見てみたい。


 今ですら軟禁状態なのだから、普通に出ようとしたって止められる。

 下手すりゃ拘束されるかもしれない。武力を行使すれば、あるいはこの身に宿る龍に力を借りれば、たやすく出られるだろう。しかし自分のわがままで誰かを傷つけたいわけじゃない。

 魔法なら誰も傷つけずに、誰からも気づかれずに抜け出すことができるのではないか?

 なんだっていい、ほんの少しだっていい、この鳥籠から出られるなら。


 燐湖にお願いできないだろうか。

 ここから連れ出してほしいと。


 そんなことをひたすら悶々と考え続け、気が付けば離れたところにある台所から朝食の匂いが漂い始めた。しまった、一睡もしていない。と慌てて床にもどった聖我だったが、眠れるわけもなく、また天井を眺めて時間を過ごした。今度考えているのは、燐湖と会った時に何と言って頼むのか、ということ。次会った時、絶対に言う。承諾してくれるだろうか。

 さすがにリスクが高すぎて断られるだろうか。何と言ったら協力してもらえるだろうか。


 でも、きっと燐湖なら──




 ********


「しょーがさまーッ」

「燐湖!」


 障子の影に、彼女の姿が映った瞬間、待ってましたとばかりにスパーンと勢いよく障子を叩き開け、唖然としている彼女の腕を引き、室内に引き込んだ。すかさずスパーンと閉め密室を作る。結局少しも寝ることができずこの瞬間を待っていた。


「えっ? え……? 聖我さま?」

「頼みがある。燐湖にしかお願いできないことだ」


 うっすら聞こえた足音に一度口を閉ざし、通り過ぎるのを待ってから、願いを告げた。


「俺を、魔界に連れて行ってくれ」


 頼みがあまりに予想外だったのか燐湖は聖我を見上げたまま、動きを停止させた。


「一度でいい、見てみたいんだ、この目で、世界を」

「だ、だめです……宗家の方が、ましてや当主が敷地をでるなんてことは……」

「俺は一度も敷地の外に出たことがない。容姿は知られてないんだ、俺が当主だって誰もわからない。危険はないはずだ。特に魔界なら」

「ですが、しきたりは守るべきであって」

「たとえ力を貸してくれたとしても、燐湖にはなんの責任もない。何が起きたとしても俺の責任だ。一族からは俺が絶対に守る、だから──」


 両手を胸の前で組み、おろおろする燐湖。

 何が起こってものんびりしている彼女の困り果てる姿は初めて見た。

 世間から隔離され続けた一族の当主を外に連れ出すなんて、発覚すれば大事になるだろう。

 例え当主本人の望みであったといえ、連れ出す燐湖の責任は重大だ。

 こんなことをお願いして申し訳ないとは思う。だけど、簡単に引っ込められる願いじゃない。

 この人ならきっと叶えてくれると、そう思えてしまったのだから。


「教育係、なんだろ。俺に世界を教えてくれ」


 自分でもこれはズルいなと、わかっていてそれでも言った。

 思った通り、その言葉で息を呑む音が聞こえてくる。


「……わかりました。いいでしょう。ただし、準備があります。今日すぐにはできません。覚えて頂くこともあります。そして、作戦も必要です」

「わかった、ありがとう! いい、なんだっていい! なんでもしよう」


 意外とあっさり得られた承諾に、肩の力が抜けた聖我の口角は自然と緩やかな弧を描いた。

 初めて目にする何処か気の抜けたようなその表情に、燐湖は少しだけ驚くも、すぐに腰に両手を当て、片方の頬を膨らませる。


「全く、ずるいんだから。聖我さま、紙と筆を貸してください。まずは魔界への転送に使用する魔法陣を覚えて頂きますよ」

「しかし俺、魔法は……」

「異世界転送の魔法陣は、魔力さえあれば発動できるのです!」

「そ、そうなのか。わかった、覚えよう」


 聖我から差し出されるのを待たず、勝手に机を借りて何やら紋様を描き始める。

 昨日までの頼りなさは一転、途端に心強い存在となった彼女を追いかけ、魔法陣と呼ばれるそれが描かれていくのを聖我も覗き込んだ。


「いいですか? あちらにいけば人間化することができます。こちらは魔法ではありませんので、誰でもできます。魔界では基本的には人間の姿でいてくださいね? 魔界の秩序を守るためです。それから、あちらでは必ず私の指示に従ってください、聖我さまでも反論はなしです。あと、人間のふりをするということは──」


 そこからの燐湖は、説明の仕方も頭のキレかたもまるで別人のようだった……聖我はただただ質問を繰り返し頷くことしかできず。


「聖我さま? 何が可笑しいのでしょうか?」

「いや……あ、すみません」


 逆転した二人の様子にいよいよ「教育係」だなと思えば、なんだか可笑しくなってきた。


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