79話 知らないチカラ
見上げた先には、鏡の向こうでしか見たことがない人物──自分の姿があった。
「もう、やめよう」
この場に、すぐ動き出せる者は居なかった。
敵ですら動きを一度止め、こちらの様子をうかがっている。
姫の姿を借りた千聖も、全くもって予測していなかった事態に動きが止まったまま。
「ちょっ」
自分の姿をした何者……というか、ユキだ。
自分の姿を纏ったユキに抱きしめられているこの状況。
一体何がどうなっているのか、状況が飲み込めない千聖は、視界の大部分を覆う胸板を押し返しゆとりを生み出そうとする。
それを『逃げようとしている』と判断されたのか、抱き締める腕の力がさらに強くなった。
「いたいッ……力強いって!」
中身は男でも所詮女の子身体では、この状況になってしまうと力じゃ男に敵わないと実感する。目の前の男は自分なのに、それでも敵わない。
「あ、ごめん! 加減がわからなくてっ」
慌てて力を緩めはするものの、依然として左手は千聖の肩を抱いた状態。
離すつもりはないらしいユキと、なんとかして腕から抜け出したい千聖の戦いが始まる。
そんな二人を目の当たりにした敵が、こんな大きな隙を見逃すわけもなかった。
近付く気配に気付いて千聖が振り返った頃には、すでに杭を引っこ抜いた天使が左手に剣を構えてこちらに向かって来ていた。目でとらえることができても集中力が切れた今、「あ」と思うだけで体の反応が追い付かず、反射的に目を閉じ、自分の姿をしたユキが着ているシャツにギュッとしがみ付く。
(いや怯むな、さっきみたいに防壁使って──)
一瞬怯んだものの、すぐに自分のペースを取り戻す事を考えはじめた千聖が目を開けた時、ふわりと優しく、それでいて切り裂くような冷気が頬を撫でた。
千聖を庇うように抱きしめ続ける左手と、前方にまっすぐ伸ばされた右手。
その右手の延長線上にいる天使は足元から首元にかけて、見事に凍り付いていた。
驚いてもう一度見上げれば、肩で息をしながら目を見開いて凍り付く相手を凝視する千聖の顔がある。
凍り付かせた本人ですら驚いているようだ。
「はァ……はァ……」
(おれ──いや、ユキの手から氷……? だけど直接氷を生み出せる魔法はないはずだ。ってことはこれは魔法じゃない……?)
すっかりユキの攻撃で気を取られている千聖だが視界の隅ではしっかりと、先程蹴り飛ばしたもう一人の天使が起き上がり駆けてくる姿を捉えていた。
「ユキ! 右からくるぞ!」
「うっ!!」
伸ばしていた右腕を引き、勢いを付けて肘部分で思い切り突っ込んでくる天使の男の顔面を殴りつけ、よろける男の胸ぐらを掴んで蹴り飛ばす。この一連の反撃に関して、千聖の目にはユキが手加減をしているようには見えなかった。全部全力だ。
(人を静止しておきながら男の力でボロッボロに殴ってるじゃないか!)
単純に力の加減が分かってないだけかもしれないが、おれを止めた意味ないだろなんて思う千聖はムッとしながら、何気なくぶっ飛んでいく男を目で追う。
受け身も取れず地面に叩きつけられた情けない天使の姿。
その様子にふと違和感を覚える。
なぜ受け身がとれない?
右手を壊してやった方の天使よりは動きが良かった気がする。なぜされるがまま地面に叩きつけられたのだろう。羽根もあるのだから、やろうと思えば空中で態勢を立て直すことだって出来たのではないだろうか。
変だなと目を凝らしてみれば、先ほどユキが掴んだ胸元を中心にして、身体全体にうっすらと霜が降りているみやいだ。
千聖は再びユキ……というよりは自分の顔を盗み見る。
胸ぐらを掴んだ瞬間、ユキが魔法を使ったようには見えなかった。
やっぱりこのお姫様、何か力をもっている。
さっき見た本人表情から、自分でも扱いきれないほどの力を。
「あぁ……こ、これで何とか」
二人の動きを封じた事に安心したのか、千聖を抱く力が弱まった。
それを機に腕から抜け出した千聖は、自分の姿を纏ったユキと向き合う。
力の事も気になるが、そんなことよりも今はこの状況が問題だ。
ユキは学校に行く計画だったはずなのに、なぜこっちに来たのか。
最初はなにか重大な危機にでも見舞われたのかと思った。が、ユキの態度からなんとなくそうではないということがわかる。
「どうして学校に行かなかったんだよ」
「ごめんなさい、何か千聖の事、気になっちゃって……」
顎を伝う汗を手の甲で拭う様子から、どうやら走って追いかけてきたらしい。
そもそもどうしてユキが千聖の姿をしているのか。
触れても違和感がないから幻覚ではなく、千聖の使った魔法同様、身体を作り替える方法をとっている。近くで見て、触れて、我ながら再現度が高い。となると、見本もなしに一体どうやったというのだろうか。なんだか、彼女が恐ろしく思えてくる。
「それから、邪魔してごめん。あのっ」
「いや、平気」
本当の事をいえば、邪魔されてまず最初に悪い意味で "マジかよ" ぐらいの感想は持った。それでも姫が走って追い掛け、戦闘の真ん中に割って入ってまで止めるという、行動を伴った主張をしてくるのであれば、もはや文句はない。
むしろよく入ってきたなと感心すらしていた。
「お姫様がここまでして選んだ事なら文句ないよ」
「そ、そっか……ありがとう」
困ったように、それでいて申し訳なさそうに笑いながら髪をいじる自分の姿を、千聖は物珍しそうに眺める。当たり前だが、自分が動く姿を客観的に見るのは初めてだ。中身が女の子だからかちょっとナヨナヨしてるなと冷静に分析していた。
「千聖の身体、凄いね。足が速い! 力も強いし」
「速いのがおれの取り柄だからね。力は、男だからそりゃユキに比べれば……まぁ眠のがゴリッゴリだけど」
とりあえず1つの難を乗り切った事に安堵の表情を浮かべる自分の顔を、やはり千聖はまじまじと眺めた。聞くのが怖いが、魔法の他にも気になることがありすぎる。
例えば、その服はどうやって着たのか、とか。
変化してから着替えたのか、変化する前に着替えてくれたのか。
更に言えば、この再現率の高い身体はどこまで精密に再現されているのか。
聞こうかスルーすべきか悩んだ結果、口を開いたその瞬間──
赤い光が、二人の間を横切る。
一瞬遅れて、ヒュンッと風を切る音が聞こえた。
「え、何、今の」
「痛ってぇ……」
飛んできた方向に対して身構えようとするユキに対し、千聖は自分の右腕を抑えて身を硬くする。少しだけ掠めたような感覚はあったが、当たったような衝撃はなかった。
掠ったと自覚しているのは右の上腕、それなのに右手全体が痺れるように痛む。
「当たったの?」
千聖の反応に、心配したユキが様子をうかがってくる。
ユキにも見えるように抑えている手を退かして掠めた部位を再度確認するが、怪我はおろか衣類すら傷付いているようには見えない。
「いや掠っただけ……なのに、手が痺れて……」
ぎこちなく開いた千聖の右手は、小刻みに震えている。
「うまく動かない。なんだこれ……神経に直接攻撃食らった感じ」
「神経に……? さっきのやつ、魔法の気配はしなかったよね?」
ユキの問いに答える代わりに、千聖は光が飛んいった方向を睨みつける。あとには何も残されておらず、速すぎて何が通過したのかもわからない。ただ音よりも速いということ以外に情報がない。
苦い千聖の表情にユキは息を飲んだ時、初めて聞く声が響いた。
「貴方達が、此処で好き勝手やるなんて赦さない」
この場に響く凛としたその声に視線を向ければ、15mほど離れた位置に長く艶やかな黒髪を靡かせながら弓を構える少女の姿があった。身に纏っているベージュのブレザーと長めの赤いスカートは何処かの学校の制服だということは分かるが、千聖もユキも具体的な学校名は知らない。見た目だけで言えば “清楚” という一文字をそのまま人間として具現化したような風貌だ。
「あの子、人間だ」
千聖は腕をさすりながら、慎重に女の子の様子を観察する。
彼女の主張から、舞の同志である可能性が高い。彼女の言っていた「他のやつらはどうか知らない」というのはあの少女の事をさしていたのだろうか。
だとしても先ほどの攻撃は一体何だ。
少女が弓を構えている様子から彼女の攻撃手段は弓矢と判断できるが、肝心の矢束がどこにも見つからない。一度放てば終わり? さすがにそれはないだろう。
彼女が舞の同志なのだとしたら、きっと人間でありながら人間以上の力をもっているはずである。矢は──弓すらも、自分の能力で創造しているのかもしれない。それこそ千聖の大鎌みたいに。
さっきの光があの弓から放たれた矢だったのであれば、放たれてからでは避けきれない。
加えて問題なのが、先ほどの一撃は牽制のつもりであえて外したのか、それとも運よくそれただけなのかという点。
問答無用で仕留めようとしていたのであれば、交渉可能と思わない方が良さそうだ。
("貴方達"って言ってたな。おれらが人間じゃないってのは分かってるのか。それにあの矢は一体何だ? 何を攻撃対象にしている?)
チラリと左手で抑えている患部を見やる。未だに掠めた部分にはビリビリと痺れるような鈍い痛みが居座ったままだ。
外傷はない。まるで内側から魂そのものを壊されるような、そんな攻撃。
そのうえ物凄く速かった。
秩序なき神速を発動したとしても瞬発力では相手の方が上、このまま次を放たれたとしたら、躱しきるのは難しい。防壁を展開したところで突き破られるだろうし。
そしてこれは何の確信もないただの直感だが、まともに当たればやばい。
この身体でユキを持ち上げることができるかわからないが、彼女(今は彼だが)を連れ神速で逃げるのが一番安全だ。ただし、下手に動けば的にされかねない。
結局のところ、動けない状態である。
手近に何か、壁になるものはないかと千聖は視線を辺りに巡らせる。
残念ながらここからベンチまでは距離がある、転落防止の策なんて盾にはならないし──あるとすれば先ほどユキが最初に氷漬けにした天使を壁役にするくらいしか──と、動きを封じられている天使へと視線を向けたとき、千聖は思わず目を見開いた。
一切動かないその身体からは、魂の反応がなくなっている。
視線は固定したまま、この場に居る誰にも悟られないよう息を呑む。
なぜ死んでいる?
自分は殺していない。氷漬けにされただけで死ぬとは思えない。
身動きは封じられていたのだから、自害もありえない。
だとしたら──
(まさかこの子……殺したのか!?)
蹴り飛ばして放置していた方の天使は、霜が解け逃走したのか姿が見えない。
あとで色々聞き出してやろうと、折角生かしておいた捕虜は気が付けば殺されているし、もう一人には正体がバレている上逃げられた。それでもって今では自分たちが殺されかけている。何から何まで最悪だ。
「異界から来た魔物が、我が物顔で何をしているの」
金の眼光が、獲物を射抜く。
「此処は貴方達の世界ではない。私たちの世界よ」
ピィンッと高い、まるで鈴のように済んだ音が響いた。
矢が放たれたと認識したと同時、到達するまでの1秒にも満たない刹那の中で千聖は綺麗に交わすにはやはり間に合わないと確信する。せめて致命傷にならない部位にと身体を捻らせた時、目の前に、まるで壁になるかのように少年の背中が広がった。
これ誰だ?という疑問と、これはおれの背中だという答えが一度に沸き起こる。
「ユキ!!?」
明らかに千聖をかばって前に出た。
千聖の立ち位置からは、ユキの何処に当たったのかまでは確認できない。
だが、当たったのは確実だろう。
千聖の額から、嫌な汗が一筋、流れ落ちた。




