75話 ヒトの原罪
「悪ぃ、寝てた」
ノックもなしに王屋のドアを開ければ、丁度ドアの直線上にワインの瓶を傾ける恐夜がいた。入室した瞬間にかち合う視線。ちょっと呆れた彼の瞳はノックくらいしたらどうなんだと言いたげである。
とりあえず恐夜のそばまで移動した眠は、近くのテーブルに二つのグラスが置かれていることに気がついた。どうやら瓶の中身はこのグラスに注がれたようだ。
「まあいい、晩酌に付き合え」
その言葉とともに王から差し出されたグラスを受け取り、天井に翳して中身を眺める。壁に括り付けられた松明の灯りを反射して濃い紅がキラリと輝いていた。まるで赤い宝石を液体にしたかのようなそれは大変美しいが、眠にとっては苦手に分類されるものである。
「オレ魔界じゃあ未成年なんだけど?」
一度グラスに鼻を近づけ、それからグラスを回してふわりと浮いた香りを吸い込んだ。なかなか高価そうなものだ。
「生憎ここは帝国だ。未成年などいつの話をしている」
恐夜がワインを口に含んで、喉を鳴らす。
眠もそれに続いた。
帝国の成人は15だから、もう3、4年も前の話になる。でもその頃には恐夜も千聖も既に今のポジションに付き、不都合なく務めていたのだから、人間に比べて死神は精神の成熟が早いのだろう。それならば15での成人も妥当と言える。
「これ、良いやつだろ?」
「だろうな。値段は分からんが」
天蓋付きの豪華な装飾が施されたキングサイズのベッドに腰掛けて、眠はもう一口ワインを味わった。やっぱりどれだけいいものであろうが、ワインは他のアルコール類と比べると苦手だ。
「今度は恐夜がオレに用事、あったんだろ?」
恐夜はつまみとして小皿に盛られてるナッツを一つ口に入れて、小さく「話が早い」と呟いた。
「お前は、ニンゲンにとって最も重要なものは何だと考える」
投げかけられた問い。
恐夜はグラスの中で揺れるワインを眺めたまま、眠が口を開くのをただ待っているようだった。
「ニンゲンにとって、重要……?」
「あぁ……答えはバランスだ」
問いかけたくせに、何故かこちらに答えを言わせることなく、即座に回答を言ってきた。
どうせ問いかけるならせめてもう少し考えさせてくれよと、ガックリと肩を落としツッコミを入れたい気持ちになるが、今はそんな揚げ足をとるような空気ではない事ぐらい分かっている。
バランスか。と眠はもやもやする頭を切り替えるように心の中でその言葉を繰り返した。
そういえば、ルナも同じようなことを言っていた。
「光と影、陰と陽、幸と不幸。その全ては同じだけ与えられるべきであり、どちらかの偏りは崩壊を招くことになるだろう。こちらの世界で生を受けた我らには、その微妙なバランスを崩さず人間たちへと与え続ける役割を与えられている」
眠は、一口赤い雫を口に含む。
ニンゲンを生かすために与えられた生。とでも言うような口ぶりだ。いや、言い方の問題ではなく本当の事なのだろう。
「生命体が存在する星全てに言えることだが、魂には階層がある。簡単に言えば昆虫や人間を含む動物は下位。植物や我々の様な天使、死神といった存在は上位。下位の魂を育て、多くの魂の階層を上位に引きあげるのが世界の目的だ」
恐夜の視線の先は、石壁の奥。
まるで窓のように壁をくり抜いたそこには、星空が広がっている。
王の視線の先と今伝えられたその内容に、世界は空に広がっているのかもしれない、なんてことをぼんやり考え始める眠。
「それができない星は滅ぶ。進化が止まったということだからな。まぁ、王間で語った世界の仕組みの裏には、こういった事情がある。世界の仕組みについて知る者は多いが、何故そういった仕組みになっているのか、そこを知り理解している者は、理に触れたもの以外にいない」
眠は何でもないかのように、もう一口流し込んだ。
ナッツの入った皿を恐夜に差し出され、一粒手にして口に入れることはせずに、手の中で遊ばせる。
あまりにも壮大すぎる会話の内容に気が遠くなる気がした。
なぜ理に触れたものしか理解できないような話を、今ここでしたのだろうか。
世界の原理を知っている者からしてみれば根本の部分からちゃんと知ってほしいのもしれないが、正直眠からしてみればそこまでの事情はどうでもよかった。知ったところでどうすればいいかなんてわからないし。というか、こちらから話のきっかけを作っておいてなんだが、そもそもやたらめったら話していいのか、世界の理なんてものを。
それとも、王が自分に何かを期待しているとでも……?
「よーはこの世界って、ニンゲンの魂の質を底上げするために出来上がってるモンで、レベルアップさせるにはいろんな経験を積ませないといけねーから、オレらがその手助けをしてやってるっつーことか」
眠の言葉に、王はふっと息だけを漏らして口角を上げる。
「そうだ。話した通り、“いろんな経験を積ませないといけない” これが、我とアスガルド王の意見だ」
これがという、他にも考えようがあることを匂わせる発言が、妙に引っ掛かった。世界がそういう風にできているって話じゃないのか? とそこまで疑問に思い、ようやく気が付く。
巧みに王の思想を刷り込まれていたことに。
つまり『バランスよく経験させる』以外にも魂の育て方について意見があるのだろう。単純に考えれば、下界が優勢であり続けて『困難な目に合わせ苦労ばかりさせる』ことで魂は鍛えられ磨き上げられる説とか、天界が優勢であり続けることで造り上げられる『人間が幸福であり続ける』環境こそ、人に高みを目指させる説とか……。
なんだか、ゆっくりと全てが繋がっていく気がした。
「目的は同じだけど、それぞれの派閥で考え方が違ぇってことな。それがこの戦争の本当の理由か?」
知らぬ間に掛けられていた洗脳に、恐ろしいもんだなと王の横顔をまじまじと眺める。
いつぞやの千聖の演説は分かりやすいものであったが、王の仕掛ける洗脳は千聖のそれと全然質が違う。
結局、帝国に身を置く者としては洗脳されていようがいまいがやることはかわらない。とはいえ自分の持つ意見くらい、ちゃんと自分のものでありたいと思っている眠にとって、王のこれは非常に恐ろしいと思えるものだった。
「その通り、争いの根本にコレがある。しかし世界の理に触れる権利を持つ者はごく少数。死神王家が帝政から離れて以降、歴代の帝王どもはおおかた世界を知らぬまま政権を握っていたのだろう。だから結局は恩恵を巡ったただの勢力争いに成り下がるのだ」
「よく全部知ったうえで王になんてなろうと思ったな」
嫌味でも何でもなく、よくも世界を知った上で王なんて面倒くさそうな立場を買って出たもんだと純粋に関心していた。
「全てを我の思い通りに動かしたかっただけだ。無駄な事が一番嫌いでな」
右手でグラスを緩やかに回しながら、開いている左の手のひらを目の前にかざし、ぐっと閉じる。
「いくら戦の歴史が続いていようと、無駄なものはこの手で終わらせる。目的を同じくしたもの同士の争いほど無駄なものはないだろう?」
その姿を見て眠は、元々出会った頃から感じてはいたが、やはり彼とは生きる世界が違うんだなと改めて実感する。きっと、“光の王” や “神” などと呼ばれているアスガルド王と同じ次元にいるといっても過言ではないだろう。
「オレみてぇに聞いた知識なんかじゃなくて、この世界を本当の意味で理解してて、それなりの権力をもってんのはアスガルド王と恐夜だけみたいなもんなんだろ? その二人の間で意見が一致してるってんなら、もう全部思い通りになるだろ」
立ち上がり、恐夜の横にある机に空になったグラスをそっと置いた。
懸念は色々あるけれど、両世界のトップの意見が一致しているのなら進む先の未来は一つしかないだろう。
「さぁ、どうだろうな。禁忌を犯しておきながら生きながらえた我は、世界の理に反した存在だろう。光の王となる者はアスガルドの名を継ぐことで理に触れる権利を得るが、それと同じように下界にも”世界の理”に触れる正統な権利を持つ者がいる」
一呼吸置くようにそこで区切ると、一気にグラスの中身を飲み干して、眠が置いたグラスの横に同じく空になったグラスを並べる。
「その者の意が我と違えた時、衝突が起きるかもしれんな。まあ、本来その者が王としてあるべきなのかもしれないが」
「へぇ……強ぇのか、その権利を持つ者ってぇのは」
「さぁな。手合わせをしたことがないからわからん、ただ──お前が一番わかっているだろう? 元死神王家の血を継ぎ、水龍を崇める一族がいるな? その中で龍の名を継ぐ男がそれだ」
眠は、グラスを机に置いて良かったと思い知る。
「水龍の名は確か──」
持ったままでは間違いなく手から滑り落ちたグラスが床にぶつかり割れていただろうから。
「『聖』といったか」
***********
眠は、王室の扉をくぐり王のもとを後にする。
長たらしい廊下に、大きな扉が閉まる音が響き渡った。
木霊する音が全て消え去るのを待って、眠は壁に身体を預け、へなへなと力なく床に腰を下ろす。
王の目前では何でもないようなフリをしていたが、気力はとうに消え失せていた。
本当は立っていることすら嫌だった。
頭の中でぐるぐるまわっているのは、千聖の存在について──でははくて。
恐夜の話を通して知ってしまった世界──世界によってすでに定義されていた自分たちの存在理由。
『ニンゲンを守り、魂を育てるための存在』
極端に言うとこういうことだ。
何故、感情ある生物が世界の理に触れることが出来ないのか、ある意味で “触れてしまった” 今ならわかる。生かされている意味が分かってしまえば、生きる意味を見失う者がいるから。
世界というのは特定の誰かの為にあるものではない。
世界にあふれる命だって、誰のかのものではない。
そんなことはわかっている。あたりまえだ。
でも逆に自分の為の世界でもなければ、この命は自分の為にある命でもなかった。
床に敷かれた赤い絨毯の模様を睨みつけ、つくった拳を壁に叩きつける。
家族の夢のため。
彼らが見ていた王家に仕えるという夢。
その夢のせいで殺された彼らの死を無駄にしてたまるか。
その一心でここまで生きてきた。
だからこそ自分は千聖のためにこの命を使う。
千聖のために生きることこそ、家族が生き、そして死んだ意味になるから。
それがいま、完全否定された。
世界の定義がなんだ、自分は自分だろう。そう思える人が大半かもしれない。
でも眠にはそれが無理だった。
聞かされてしまった以上、考えないんなんてできない。そんな性分だ。
何のために生きようと、何をしてどうやって生きようと、自分は世界を回すだけのシステムの一部に過ぎず、それ以下にもそれ以上にもなれないまま。
誰かの為に必死で生きたって、少しもその誰かの為なんかにはならない。
ニンゲンを生かすために生まれ消費されていく命のひとつ。
そんな自分の生に価値を見出せる人格者はどれくらいいるだろうか。
「オレは別に、こんなことまで聞きたかったわけじゃねぇんだけどな……」
ただ天界と下界の、戦う理由が知りたかった。
もしかしたら争いの理由に魔界が関係してるんじゃないかと思ったから。
だから、3つの世界にはどんな繋がりがあるんだろう、と疑問に思っただけだ。
本当に純粋な興味、好奇心だった。知りたいという欲求だった。
この世界の生き物に与えらえた生の意味まで知るなんていうのは想定外だ。
生かされている理由なんてものが、まさか決められたものだとは思わなかった。
生きている理由も、いかされている理由も、それぞれが好きに定義していいものだと思っていた。
生まれる前から──死んだ後も──決められている。
そんなこと知りたくもなかった。
挙句の果てに知った戦の理由すら、自分たちのためのものではなかった。
そんなことなら、知らないままのがよかったかもしれない。
あぁそういえば、ヒトの原罪は──。
眠は嘲笑気味に、片側の口角だけを吊り上げる。
自分は神を崇める天使たちと敵対している存在ではあるが、知識の一つとして、聖書を読んだこともある。読み込んだわけではなくさらっと、有名な話を知る程度に。
天とは真逆の存在である自分自身を聖書となぞらえるなんて、なんて滑稽なんだろう。
アスガルド帝国にいる光の王は神と呼ばれているが、どうかんがえたって聖書に書かれている神とは別人だ。今アスガルドにいる神は、どちらかといえば光の世界の支配者であって、創造主でないと思う。
だとすれば聖書に書かれている『人間』が差しているのは、魔界に住んでいるニンゲンだけではなく、自分たちも含まれているのではないだろうか。
人が抱く欲求の中で一番罪深いものが知識欲だとは、よくいったものだ。
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「愚かしくも賢い犬は、知恵の果実を口にした──か」
王室で一人、王は変わらず夜空を見上げていた。
視線が掴んで離さない月は、欠けている。




