66話 婚約者
「はぁ、はぁ……」
薄暗い倉庫の中、千聖は両の掌を膝にあてがい、下を向きながら、荒くなった息を整える。
息を整える間、それを邪魔する者はいない。
この空間にいるのは千聖と、それからアスガルドのお姫様、その2人だけだった。
千聖がここに来た時、姫を襲っていた男たちは全部で3人いた。
つまり、結論から言えば千聖はこの喧嘩に、よく言って勝ったのだ。
登場までは我ながらカッコよかったと思う。
だけど自分自身、想像以上に喧嘩は強くなかった。
殺し合いと喧嘩は違う。
騎士団の奴らなら迷いなく始末していた。
しかし結局ここにいたのは人間だった。
死神にも、やみくもにこの魔界で人間に対する殺生を行ってはならないというルールがある。どんな馬鹿で愚かな人間だろうと、犯罪者だろうと、勝手に裁くことは許されない。
有象無象どものうち、たった数人消したところでバレない……なんてことはない。
魔界にはそれの管理を仕事にしている死神がいるからだ。
だから千聖は、普段したことなんてない喧嘩に臨む羽目になった。
人の殴り方なんて知らない。
であれば魔法を使えばいい、なんて楽観視していたが、よく見ればこの小屋、結構な掘建具合で、下手したら崩れそうだったから迂闊に使うわけにもいかなかった。
そして実際、けっこうボコボコにされた。
だけど、まぁ、本当に死神の強度と動体視力様々で……。
ある程度の攻撃は避けられたし。
いっぺんに来られてタコ殴りにされたけど、何とかなったし、鉄パイプで殴られても、何とかなった。痛かったが、倒れる程ではない。
そんな死神の不死身さを気持ち悪く思ったのか、最終的には向こうが逃げていった。ようするに、粘り勝ちである。
どんな経緯であれ勝ちは勝ちだ。
おれが勝者だ。鼻血は止まらないけど。
カッコ悪いけど、間に合わないよりは良かった。
うん、これでいいんだよ。頑張ったし。
眠なら、カッコ良く瞬殺なんだろうけど。
千聖は内心でがっくりとため息をつきながら、口内に転がる固形物を追い出したくて、脇の地面に向かって血と一緒に吐き出した。
地面に叩きつけられたそれが、壁の隙間から差し込む微かな月光で一瞬白く光る。
舌で歯列をなぞって確かめれば、上の、犬歯の横あたりの歯が一段低くなってる。
喧嘩の途中から口の中に何かあるなと気になっていたが、どうやら上の歯が欠けたみたいだ。
「千聖くんっ……!!」
歯医者行かないとな、予約なしで急に入れるかな、欠けた歯は持って行った方がいいんだっけ? 等々1人で現実的な悩みに直面している最中、お姫様に名前を呼ばれて我にかえる。
慌てて声の聞こえてきた方向に目を向ければ、左手をロープで結ばれ、柱に括り付けられている女の子の姿があった。
千聖は急いで駆け寄り、ロープに手を伸ばす。
固く結ばれているが、これなら素手で解けだろうと、さっそく拘束を解こうとする千聖に対し、お姫様──ユキは掠れたような、小さな声で心配の言葉を零す。
「千聖くん、歯が……」
「あぁ、大丈夫。あれは元から差し歯なんだ。職業柄、まともに歯なんて生えちゃいないよ」
視線だけを向けてユキの様子を確認すれば、その瞳は涙で潤んでいた。
聞こえてくる息遣いが少々荒い。彼女もずっと不安で怖かったのだろう。
心配させるのもカッコ悪いと思って、さらっと適当な嘘をついて笑ってみせた。
もちろん欠けた歯は見せないようにして。
「えっ……そう、なの? でも……」
「そんなことより殴られてたよね? 大丈夫?」
結び目が緩んだロープの端を引っ張り、そのまま部屋の隅の方へと投げ捨てた。
「私は大丈夫ッ……本当に、ごめんなさい」
胸の前で左手首を摩る彼女は俯き、その身体は小刻みに震えている。
彼女の左頬が微かに赤くなっていることに気が付いた千聖は、そっとその頬に右手を添えて、撫でるように触れた。頬に触れた親指が、微かに濡れる。
くすぐるように手の甲に触れる髪も、やっぱり濡れていた。
「痛い?」
千聖の問いにはふるふると首を振って応答する。
その動きで新たに瞳からこぼれた雫が千聖の親指をぬらした。
泣いているのだと確信して、今度は親指で目元から涙を掬う。
「もう大丈夫だから」
気が付けば、泣いている彼女の肩を引きよせてそのまま抱き締めていた。
彼女の身体は、あっさりと腕の中に収まってしまう。
「おれ喧嘩強くないんだ。カッコ悪いところ見せちゃったね」
「そんなことない……そんなことないのっ」
暗くてよく見えないけど、初めてあった時はアップされていた髪が、今日は下ろされている。鼻先をくすぐるユキの髪がくすぐったくて、頭を撫でるように、彼女の髪を優しく手で梳いた。長くて美しい銀髪はさらさらで、よく手入れされているみたいだ。
「千聖くん、とっても、とってもかっこよかったぁ……」
よく考えてみれば、こうして彼女とちゃんと話をするのは始めてである。
そう思えば無駄に緊張してきた。
少々ぎこちなさを残しながらも彼女の言葉に答えるように強く抱きしめる。
普段なら、いきなりこんなことは絶対にしない。だけど今は、何かしてあげたい気持ちと、助けに入ったことも、追い返したことも、全てがギリギリで、怖い思いをさせてしまったことがどうしようもなく申し訳なくて、身体が勝手に動いていた。
「全部遅くなって、本当にごめん」
自分が抱きしめることで少しでも安心してくれたら……なんて、いいだけ殴られておいて差し出がましいというかなんというか……。自分でも恥ずかしいやつだと思う。
とはいえ心を許してもらえたのか、少しだけ体重を預けてくれるユキの反応に、引かれてはいないみたいだと安心した。
「ごめんなさいは私の方だよ。私のせいで、怪我させちゃったから……治療費とか、全部払わせて……領収書とかっとっておいてくれたら、大丈夫だから……振込先の銀行口座、教えてくれたらそこに……」
鼻をすすりながら、一生懸命に放たれた台詞は、完全に予想外なものだった。
大真面目にそんな事をいうユキの様子が可笑しくって、千聖は思わず息を漏らして笑ってしまう。
なんだか想像していたよりもずっと庶民派な姫様だ。
「呼び方、千聖でいいよ」
「ちあき……?」
「うん、そう。あと治療費とか心配しなくていいから。こんなところで何を言うかと思えば……」
身体を少し離して、笑いながら答えれば、それにつられてユキも少しだけ笑う。彼女の笑顔を見て、千聖の緊張の糸も完全に切れてしまったのか、殴られた頭がガンガンと痛んでくるようになった。自分でも思っている以上にダメージを受けているのかもしれない。
「あ、鼻血……」
千聖と向かい合ったことで鼻血に気が付いたユキは、スカートのポケットを探り始める。
「もう止まってるかな? 鼻痛くない?」
取り出されたのは丁寧に畳まれたハンカチ。そのハンカチで、そっと千聖の鼻の下を抑えると、優しく血を拭きとっていく。前回鼻血を出した際、丸めた布を鼻に突っ込まれた思い出がある千聖は、今回もそのパターンが来るかもしれないと身構えていたが、正直ほっとした。それ以上に、綺麗なハンカチで拭いてもらって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。お姫様の持つハンカチとか、ものすごく高級そうだし。
そもそも女の子の前で鼻血出し過ぎじゃないか?
「ありがとう……洗って返します。鼻、痛くはないよ」
「よかった。あ、ハンカチは気にしないで」
そう言って、にっこりと笑ってくれる。
くらくらしてきた頭を摩りながら、そんな彼女の様子を観察していた千聖の視線は、ふとハンカチを持つ彼女の左手で止まった。
左手の薬指には、きらりと光るリングが嵌められている。
シンプルな結婚指輪と、重ねるように嵌められた婚約指輪。
婚約指輪の中央には、花を思わせるように装飾された、キラキラと輝く宝石。
まるで、雪の結晶のようにも映るそれは、彼女によく似合っている。
心臓が跳ね上がった。
このリングは間違いなく、千聖が贈ったものだ。
顔合わせの際に渡そうと思っていたが会えず、彼女の父親に託した指輪。
付けてくれているんだ。っていうか、サイズ合ってたんだ。
「あの、千聖は私のこと……守るようにって、将軍から言われてるんでしょ?」
嬉しい気持ちと感動から、視線をリングから逸らせなくなっていた千聖だったが、ユキから放たれた言葉によって、視線も意識もユキの顔へと戻される。
「え?」
「さっきも、人の嫁にーって言って助けてくれたじゃない」
「……うん」
「わたし、てっきりナンパかと思ってたんだけど……千聖は将軍のお付きの人とかで、だから、なんかあったらって連絡先教えてくれたんだなぁって気付いたの。ナンパとかそんな風に思っちゃってごめんなさい」
千聖はちらりと、自分の薬指を見る。
彼女のものと対になった指輪が嵌められている。
彼女の顔を見る。俯いて、ハンカチを握りしめている。
もう一度彼女の左手を見てから、こう確信した。
これは完全に、目の前の男が自分の婚約者であるという事実に、気付いていない。
そういえば、お姫様は政略結婚が嫌で、『結婚するより前に運命の王子様をみつける』とかなんとか、そんな作戦を立てているんだったなと思い出す。
そしてそんな作戦を人づてに聞いた時、だったら……と自分は「自分が将軍とバレる前に運命の王子様だと思わせる」なんて作戦を立てたことも。
これはまだセーフだ。
都合よく勘違いしているようだし、 “将軍のお付きの人” でいこう。
千聖はそう決意した。
「だけどね、ひとつだけいい?」
「どうぞ」
「数字が汚い! 8なのか3なのかわからないし! 6と0も! 分かり難いよ!」
「えっ……ごめんなさい」
直前までふわふわしているような喋り方だったのに、急にきつくなるその口調。
うわあ怖い、と感じた千聖は、とりあえず謝罪するが、内心では何故たかだか数字が汚いくらいでこんなに叱られるのだろうと疑問になる。
想いのほか痛みはじめる頭を摩りながら考えるも、答えは全然出てきそうにない。
答えが出てくるどころか、こめかみ辺りを中心にして世界がぐにゃりと動き始める。
「えーと……将軍と結婚、したくないんだっけ?」
話題を変えながら、なかなか合わない焦点を必死にユキ合わせようとする。
上げられたその顔は、歪んで焦点の合わない世界でも判断できるくらい、わかりやすく驚いていた。
「え、知ってるの?」
「詳しくは知らないけど。ちらっと聞いたよ、王国に行った時」
「そうなんだ。将軍とは会ったこと、なんだけどね」
そこで言葉を途切らせると、ユキは自分の左の薬指に視線を向けた。
彼女の様子を観察している千聖の視界の中では、世界がぐるりと回転しはじめた。
身体の重心が傾いているのか、それとも世界が回っているのか。
「どうしても譲れないことがあって」
右手で、優しくリングをなぞって、彼女は静かに己の希望を言葉にする。
「一度でいいから」
──こ──をし──……たい─
言葉を紡ぐ少女の声を聴きながら、千聖の視界は徐々に真っ白になっていく。
音は聞こえるのに、脳が言葉を認識してくれない。
聞き返そうと口を開くが、声になるより先に、目の前の光景とともに千聖の意識は消えていった。




