62話 彼だけ。
お化け屋敷の話で盛り上がって以降、4人が座るテーブルから聞こえるのは、教科書のページやプリントをめくる音の他、ペンを滑らせる音ぐらいだった。たまに誰かが空になったグラスをもって席を立つくらいで、1、2時間は真面目に課題に取り組んでいる。
千聖から戦力外通告を受けた舞だけは、ずっとスマホをいじっていたが。
キリのいいところで一度手を止めた眠は、スマホの液晶を光らせ、表示された時刻を確認する。
そのついでに、ちらりとルナへと視線を送った。
顔の前に垂れた髪を耳に掛けながら、難しい顔をして問題と向き合っている。アイコンタクトを取ろうと思って彼女へと視線を向けたのだが、夢中になっている彼女はこちらの視線に気付きそうにない。
諦めて、眠は視線をプリントへと戻した。
もともと、今日はこの後、もう1人とここで合流する予定だった。
そのもう1人というのは他の誰でもない、アスガルドの姫、ユキである。千聖とユキは婚約関係にあるにもかかわらず、顔合わせの日にユキが逃げ出したせいで、ちゃんと会ったことがないらしい。
しかしこのままいけば、今日、2人はここで顔を合わせることになる。
ユキに関しては、未だに婚約者となる帝国将軍と顔を合わせるつもりはないみたいだが、何故か将軍に対して謎の偏見を持っており、腹の出たおっさんだと思い込んでいる。
だから、千聖を見ても彼が将軍本人だとは気が付かないだろう。
千聖は千聖で、自分の正体を悟られずに距離を詰めようと計画しているような事を言っていたから、これほど都合のいいシチュエーションはない。
元カノと呼ばれる舞の存在は少しリスクがあるとはいえ、天界や下界での肩書きなど関係のないここで顔を合わせ、普通の友達として出会うことができれば、いい方に発展するのではないかと期待していた。
約束の時間まで、あと少し。早ければ10分もしないうちにユキはここに到着するだろう。
どんな展開になるだろうかと、楽しみのような少し怖いような、サプライズを企画しているような気持ちでそわそわしつつも、眠は課題へと戻ろうとした。
「そろそろ暗くなってきそうだ……」
そんな時、この場で最初に声を上げたのは、千聖だった。
それにつられてルナと舞も顔を上げ、窓の景色を眺める。
オレンジ色に染まる空は、奥の方から紺色へと色を変え始めていた。
「課題もう終わりそうじゃん! さすが分担しただけあるー!」
「舞だけ何もしてないけどね」
容赦ない千聖に、舞はテーブルに置いていたくしゃくしゃのおしぼりを投げつけた。造作もなくそれを左手で受け止めて、千聖はテーブルの上を片付け始める。舞も、手にしていたスマホをカバンへとしまい込んだ。
帰り仕度を始めるような二人の動きをみて、眠とルナが驚いたように顔を向ける。
「え、もう帰んの?」
「あたし、夜から友達と会う予定があるんで。千聖ぃ、あとでソレ、写させてねー」
「はいはい。2人ともありがとう、おれひとりじゃ終わりそうになかったし、すごく助かった」
課題を手伝ってくれた2人にお礼を述べながら、散らばったプリントを回収し、トントンと揃えてファイルにしまう千聖。
帰る理由があるのは舞だけのようだが、この様子だと千聖も舞に合わせて帰るみたいだ。
「あのっ、もしよかったら、夕食をご一緒に……」
「千聖だけでも飯食って帰れば?」
ほぼ同時に同じ提案をして引き止めようとするルナと眠に構わず、千聖はファイルをカバンの中に詰め込んで席を立った。
千聖だけでも引き止めようとしているあたり、結局ルナも眠と同じ事を考えていたらしい。
二人から食事に誘われたところで彼の帰るという意思は固いらしく、迷うそぶりもなく財布から札を取り出すと、それを机の上に置いた。
置かれた金額から、ここは千聖がもつつもりのようだ。
「明日こそ一日中補習だしね……おれも遅くならないうちに帰るよ」
そう言われてしまえば、これ以上食い下がるのは不自然だし、彼を困らせるだけになる。
そう思ったルナは席を立って、千聖に道を譲った。
「また今度ね」
「……おぅ」
何か言いたそうに、それでも何も言えないルナに変わって、眠が挨拶をする。
そのまま舞を追って小さくなっていく千聖を見送ってから、眠はテーブルの上に置いたスマホに触れ、改めて時間を確認し静かに息を吐いた。
すっかり冷めてしまったポテトを一つ掴んで口にいれる。
「なんか、もったいねえな」
それは冷めたポテトに関してなのか、それともこの状況についてのコメントなのか。
ルナも真似して──とはいえ、素手は気が引けたので箸で、皿からポテトを一つとりあげて口へと運ぶ。味は悪くないがどことなく湿っていて、それなのに口内の水分が思いきり持っていかれる。とてもボソボソした食感だった。確かに、こっちももったいない。
「もう少しだったのですが……なかなかうまくいきませんね」
「あぁ、そうだな」
眠も同じく、口の中の水分がなくなってしまったのか、手元のグラスに入ったお茶を一気に流し込んだ。
「ルナ、明日も暇なら図書館付き合ってくんね?」
「図書館、ということは……何か調べたいことができたのですか?」
「そ。ちょっと気になることができた」
「わかりました、行きましょう!」
両手で拳を作り、ぐっと意気込むルナの姿に、満足げな笑顔を見せて眠は席を立ちあがる。
飲み物をお代わりしに行こうとコップに手を伸ばし、眠の動きを目で追っていたルナと視線が絡んだ。
「どした?」
「あのっ、そういえば、先ほど “ホムラ” さんって呼ばれて……」
ルナの疑問に眠は、あぁ。と軽く笑ってコップを手に取った。
そして空いた手をそっと口元に持っていき、人差し指を立てて妖しく嗤って魅せる。
「オレの秘密。知りてぇなら、もっと親密度上げねえとな?」
呆然としているルナに構わず、そのまま何事もなかったのようにドリンクバーの方向へと歩いて行った。
不意に魅せてきた無駄な色気に、一瞬彼から視線が逸らせなくなってしまったが、すぐに「かっこつけない千聖君の方が100倍はかっこいい」と思考が視界に対して反論してきた。一度はその勝手な反論に納得しかけるが、一体何を考えているんだと冷静になって、ルナはゆっくりと肩の力を抜いた。どうしてすぐに、何かにつけて千聖が出てくるのか。
そのまま背もたれに身体を預け、遠くなったその背中をぼんやりと眺めた。
それにしても、本当につかめない人だ。
千聖とのやりとりを見てても思う、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、彼という人物の本質が全然つかめない。というよりは、他者に本質を掴ませない、そんな男。
友人であるぶんには信用できるし、頼りにもなる。
だが、彼に恋をした女の子はきっと苦労するだろうなと、恋愛経験のないルナでも想像するのは簡単だった。
(千聖くんがいてくれてよかった。変な男の人からガードしてくれそうな気がする)
何故かふと、無意識でそんな事を思っていた。
我に返ってハッとする。眠を変な男とか思ってしまったのは別として、また千聖が出てきてしまった。それだけじゃない。今心の中で思った “千聖がいてくれて” というのは、物理的な問題ではなく、心のはなしであるように感じたのだ。
心の中に千聖がいるから、他の男にはひっかからない。こう表現するのが正しいような気がする。もちろん、そばにいれば物理的な意味でも守ってくれるだろうが、今思っていたのは明らかに心の中の問題だった。
守ってくれる、でいえば、幼馴染のフォールハウトやアイルだって同じだ。
だけど彼らと千聖は何かが違う。何が違うのかはわからないけど、ルナのなかで何か、明確な違いがある。立場の違いかといえば、多分それは関係ない。付き合いの長さも、多分違う。種族だって、何でもないと思う。同じ異性で、どうしてこうも千聖だけが特別なのだろう。
フォールハウトやアイルに触れることがあったって、何でもない。正直、彼らが男だなんて意識したことすらなくって、なんでもなさ過ぎて触れた事すら忘れてる。
それなのに千聖に触れた時だけは、いつまでもその記憶が残り続けてしまう。
感触も、温度も、その時の息苦しささえ、全部覚えてる。思い出せる。
ぐるぐるし始める頭の中、もう少しで、何かにたどり着ける気がしてきた。
もしかして、自分は千聖の事を、男性として──
「さっきからぼーっとして……どうした?」
「ち、千聖くんがっ……!」
反射的に出てしまった言葉に、ハッと両手で口を覆って戻ってきた眠を見上げる。自分でもわかるくらいに、顔がどんどん熱くなってきた。
不意打ちといっても差し支えないほどのタイミングで掛けられた声に、思わず頭の中にあった彼の名前を口走ってしまったみたいだ。
このままではなんだか、変に勘繰られてしまいそうだ。
「千聖がどうかしたか?」
「あ、いえ……そっ、そうえいば! 眠さんが呼ぶつもりだった友達って、千聖くんのこと、ですよね?」
「おぅ! なんでわかった?」
なにを気にした風でもなく、思惑通り誤魔化されてくれる眠の様子に、安堵のため息をこぼし、恥ずかしさを誤魔化すように横目で眠を睨みつけながら、実際に思っている事を告げる。
「……しかいないじゃないですか」
「どーゆー意味だそれ」
しかいない、との発言に、少しだけムッとした表情をみせる眠だったが、ルナはそれを華麗にスルー。少しだけ申し訳ないとは思いながらも、冷えたポテトに箸を伸ばす。
しかし箸がポテトに触れるかどうかのタイミングで、二人に声が掛かった。
「おまたせッ!」
その声の主に、眠もルナも、ちょっとだけ困ったような笑顔になる。
二人の心境は、まったくおんなじだ。
お姫様と将軍が出会うまで、本当にあと少しだったのに。
「ほら、夕飯なに食う?」
眠はそう言って、ルナの横に腰を下ろしたユキに、メニューを手渡した。
今だってもしかしたら、ここまで来る道のあいだで、ここから帰る道のどこかで、二人はすれ違っていたかもしれない。




