56話 してはいけない期待
──夕方。
「早く着きすぎたな……」
携帯のディスプレイが表示したのは待ち合わせよりも10分早い時刻。
眠は1人、夕方の帰宅ラッシュで混雑した駅構内、改札前のコンコースで柱にもたれて人を待っていた。
待っているのは、この前知り合ったアスガルドの姫様。
自分でも、まさかこんな事になるなんて想像もしなかった。
昨日の夜、そういえば姫から『あとで写真送って』なんて言われたんだったと思い出してメッセージを送ってみれば、いつの間にか夕方にお茶をする話になっていた。
向こうは友達を1人連れてくるという話だったので、こっちも千聖を連れてこようと思っていたが、ぎりぎりになって千聖の補習が夜までだということがわかり、結果としてこちらのメンバーは眠1人だった。
まだちゃんと会った事がないと言っていたから、サプライズでいい機会だと思っていたのだが……。
もう一度時計を見るために携帯の画面をつけようとした時──
ピクリ、と眠の身体が反応する。
すぐに視線を改札へと向けた。一際込み合っている改札を見ても、姫の姿はまだ見えない。が、その中に彼女がいるのだと眠は確信していた。狼と同じ嗅覚を持つ眠からしてみれば、『匂いで相手の存在を感知する』なんてことは、呼吸をするのと同じくらいに当たり前のことだ。
暫く人混みの中の一点を見つめ続けていた眠が、おもむろに一歩前に踏み出す。
それとほぼ同時に、人をかき分けながら銀髪の少女が飛び出してきた。
まるで未来でも見えるかのように、タイミングも場所もドンピシャ。
獣人以外の人たちはこれが出来ないというのだから、こういった人が多い場所での待ち合わせはさぞ不便なのだろうといつも思っている。
「おう」
少しだけ息を切らしながら飛び出してきた少女に対し、片手を上げて軽く挨拶をする。
少女は長い髪を軽く手櫛で整えてから、眠を見上げてにっこりと笑った。
「早いねっ」
「遅刻するわけにもいかねーからな。講習お疲れ」
ありがとーと言って笑うお姫様が身に纏うのはドレスなんかではなく、この世界じゃよく見るセーラー服だ。どうやらどこの学校でも夏休みは講習があるようで、彼女の学校も例外ではないらしい。だから、今日の待ち合わせも彼女の講習が終了する夕方になったのだ。
うちの将軍は補修だが、お姫様も夏期講習なんてつくづくおかしな状況だと、眠の口角が微かに上がる。
「どうしたの?」
「いや、お姫様も学校に行くんだなーっておもって」
「だって……お休みだったら王国に行かないといけないでしょ? そしたらほら、結婚の話が始まっちゃうし……本当は講習なんて受けなくてもよかったんだけどっ!」
「なるほどなー、逃げってことか」
「逃げっ、て……いじわるな言い方! あ、そうだ、私の友達なんだけど、ちょっと遅れるって」
人混みをかき分け、駅前の大きな通りに出れば、日中よりは涼しい風が二人の髪を揺らした。そびえたつビル群の窓ガラスが、傾き橙色を放つ太陽の光を反射させているせいで、世界全体が暖色で包まれている。
日も長くなったもんだな、なんて、そんなことを考えながら、眠はぐるりとあたりを見回した。
「どーする? どっかで時間潰して待つか?」
「お店、予約制だし、先に入っててって言ってたから、中で待ってよ」
「おっけー」
駅構内程の密集した混雑さはないが、それでも人の往来が激しいことに変わりはない。
歩き始めた眠は、自分の右側を歩くユキの歩幅にあわせて、はぐれないように気を付けながら、今日の目的であるスイーツバイキングの店へと向かい始める。
「あれ、眠、お店の場所知ってるの?」
「一応、調べてきたから」
最近駅前に出来たその店に行きたいと言い出したのはユキだが、眠もそれなりに楽しみにしていた。大食いである自分にとってバイキングは都合がいいし、なにより甘いものが好きだ。眠も駅前に店ができた、という情報はもともと仕入れていたが、女の子とでも一緒でない限り、なかなかこんな店に行く機会はない。
あいにくここ最近は誘うような女の子の存在はなかったし、いつも一緒にいる千聖はそーゆー店に行きたがるタイプではない。そもそも男二人でスイーツバイキングって、色がなくてつまらないし。
「そうなんだ……調べて、くれたんだ……」
一方でユキは、爪先をいじりながら、隣に感じるその存在に少しだけ胸をきゅんとさせていた。
騎士のフォールハウトや、幼馴染のアイルもよく自分の隣を歩くが、その2人と歩くときとは違う雰囲気が眠との間に漂っている。
フォールハウトやアイルといる時には感じたことのない緊張を、今は感じていた。
「ねえ、私、デートってしたことがなくて」
そう切り出したユキに、眠は視線だけを彼女に向ける。
意図されていないであろう上目遣いが、そこにあった。
「これって、デートになるの?」
眠はわずかな間、視線を逸らして考える。
すぐに答えは出たようで、もう一度ユキと視線を合わせて、右手をユキに差し出した。
「デートってのは、まず手を繋ぐ」
「手を……」
差し出された手の上に、おずおずと左手を重ねる。
触れた個所から伝わる、自分よりも少し暖かい体温と、女の子の手にはないごつごつとした感触に、ユキの中の緊張はさらに高まっていく。
もちろん、男性から差し出された手に、自らの手を重ねることが初めてというわけではない。
「でー、行き先が決まってたりそうじゃなかったりで、こんな風に一緒に歩くんだよ。だけど、一番大事なのは、お互いがこれをデートだって思っていることだ」
「お互いが……?」
「そう。でもってオレらの場合だけど──」
歩きながらも、眠は軽く握ったその手を自らの口元へと近づけていく。
それは、王族の女性に対する挨拶に似ていた。
「ユキは姫だ。そしてオレは、それを知ってしまっている。ただの女の子と男の子でいられる程、お互いに甘い立場じゃない」
そうして、ゆっくりと優しく放される手。
温かさから解放された手は、夏の外気を少しだけ冷たいと感じた。
「こっちの世界で姫を守る騎士ってところかな、オレは」
二っと笑うその表情。
わかっていたけれど、それでもユキは、再確認してしまった事実に、少しだけがっかりした。
この手は “女の子” じゃなくって、 “お姫様” の手なんだと。
*************
あぁ、参ったな。
左手に大きな皿と、右手にケーキを掴むためのトングを持ちながら眠は、ケーキを選ぶふりをしてぼんやりと考え込んでいた。
これってデートになるの?なんて、少し期待したような上目遣いで聞かれたりなんかしたら、そりゃもうこれからもう一人と合流だなんて路線を変更して、デートでもしてやりたくなる。
しかしなにより彼女は、親友の婚約者だ。
お互い結婚に納得いってないのは知っているし、ユキが「運命の王子様滑り込みセーフ大作戦」なんて計画を立てているのは聞いている。
だからって、婚約者である千聖の知らないところでデートなんてしていいわけがない。
さすがにそのあたりの分別くらいはついている。
『ねえ? 結婚式があったとしたらね、その結婚式ちょっとまったー! って言って私のこと攫ってくれないかな?』
分かってはいる、が
初めて彼女と出会った時、いたずらに言われたその言葉が、どうしたって頭から離れない。
これじゃあ、オレが運命の王子様じゃねーかよ。
皮肉めいた笑顔を作りながら、眠は目の前のチーズケーキをトングで掴もうとした、その時。
トンっと左肩が何かにぶつかった。その衝撃でチーズケーキを掴み損ねる。
もとより左側に障害物などなかったから、ぶつかったのは人だろう。
「あ、わりい」
「すみませんッ!」
重なった声、ゆっくりと顔を左に向ける最中、視覚よりも先に嗅覚で捉えたのは、嗅いだことのあるニオイ。続いて、視界の左斜め下に、皿の上にいくつかケーキを乗せた少女が映り込む。
若草色の肩にかかる髪。透き通るような青色の瞳。
「あれ、眠さん……ですよね!?」
彼女には、いつもの羽根と黄金の環がないが、間違いない──
「え、ルナ……?」




