30話 姫と騎士
天気は快晴。
噴水から零れ落ちる水が、太陽の光を受けて眩しく感じるほどにキラキラと輝いている。
フォールハウトは昼食後、アスガルド城中庭のど真ん中に設置された噴水から、無限に零れ落ちる水を眺めていた。
とはいっても意図して水を眺めていたのではなく、厳密に言えば考え事をしているうちに、視線の先がそこに固定されていただけ。
想い馳せていたのは水の事なんかではなく、数日前に同じ騎士仲間であるルナから共有を受けた内容についてだ。
まだ公ではないらしいその情報は、フォールハウトにとって全くもって予想外なものであり、そのうえ衝撃的な内容で──
「フォルト?」
ふと名を呼ばれ、ぼんやりとしていた視界がクリアになる。
鈴を転がすようなその声の持ち主は、我が主人アスガルド嬢。
声が聞こえてきた方向へと身体の向きを変えれば、長く美しい銀髪を揺らしながら、心配そうに小首を傾げる姫がいた。
パーソナルスペースなど気にしていないらしい彼女の顔の近さに一度は目を見開くも、フォールハウトはすぐに微笑む。
彼女の大きな黄金色の瞳に写り込んでいるのは、微笑を浮かべつつも明らかに心ここに在らずな情けない男の顔。
「申し訳ございません」
「あ、謝る必要はないんだよ!?ただ、さっきからずっとそうしてるから……どうしたのかなぁって」
少し大袈裟なくらいに両手を顔の前でぶんぶんと振りながら、姫は数歩後ろへと下がった。
その動きに合わせて彼女の長い髪がふわりと泳ぎ、風にのって甘い香りがフォールハウトの鼻先まで届く。庭のバラとはまた違う香り、これはきっと彼女が使っているシャンプーの匂いなのだろう。
「なんかっ悩み事?」
飾り気のないラフなワンピースを身に纏い、ヒールの低いサンダルを履きこなす彼女は、まるで友達の一人に話しかけるように、改めて先程よりもはっきりと問いかけてくる。
彼女を初めて見る者は、その格好や仕草から一国の姫だなんて思わないかもしれない。
だけど、フォールハウトはそんな彼女に好意を寄せていた。
着飾らないのは身なりだけではなく、心だってそうだ。
彼女が誰かに対し横暴な態度をとっている姿を一度だって見たことがないし、どんな立場の、どんな相手に対してもいつだって平等に接している。困っていれば手も差し伸べる。そして彼女は正直で、どんな嘘もつけない。
とても美しい心を持っている。
他所のお嬢様に仕えたことなどないが、彼女が一番、身も心も美しい女性なのだとフォールハウトは確信していた。
恋は盲目と言うが、そんなの知ったことか。
とは言えもちろん、自分の立場は十分に理解しているつもりだ。
姫と騎士。この関係である以上、この先の関係はあり得ない。だけど、それについても不満はなかった。
想いを打ち明けたいなんて思ったことも、一度だってない。
この姫が、幸せであってくれさえすれば、自分はそれでいい。
「いいえ、何でもありません」
「そう──」
何かを隠されている、ということには気が付いているらしく、少しだけ頬を膨らませて視線を斜め下に向かわせる。しかしそれも一瞬のことで、いきなり何かを思い出したようにハッとし、次にフォールハウトへと向けられたのは満面の笑顔だった。
「この前の野イチゴ、あれね、ジャムにしたの! 結構うまくできたからフォルトも食べてみて! 」
「よろしいのですか? 」
「もちろんっ持ってくるから、ここで待ってて! 」
忙しなくパタパタと走り去っていく姫の背中を視線で追っていく。
そして、姿が見えなくなったところでフォールハウトは小さく、ふふっと声に出して笑った。
それは、決して独り言の部類ではなく、先ほどからずっと薔薇の陰に隠れていた人物への合図のつもりだ。
「なんだ、気が付いてたのかよ」
「盗み聞きとは相変わらず性格が悪いですね、アイルは」
「そんなつもりねーよ。お前と話がしたくて来たんだ」
フォールハウトの意図した通り、笑い声を合図と解釈して出てきたのは、同じ騎士団所属のアイル。彼は目つきと態度が非常に悪い。言葉も選ばず発言してしまうためよく怖がられる対象とされている存在だ。しかし今は羽や団服、灰色の髪のあちらこちらに葉や赤い花びらをつけているせいで、少し情けない印象すら受ける。
いっそのこと普段から体中に葉や花をつけていればいいのに。なんて考えながら、フォールハウトはあえて指摘せずにそんな彼の姿を眺めていた。
「アニキから聞いた。まだ上層部だけの秘匿情報らしいが、結婚させられんだってなユキ」
「えぇ、まだ姫のお耳には──」
「わーってるよ。帝国側からの返事待ちなんだろ」
ユキというのは、先ほど野イチゴのジャムを取りに走り去っていった王国の姫の名である。
一国の姫であるものの、アイルから呼び捨てにされているのは、二人が幼い頃からの顔なじみであるからだ。ちなみにフォールハウトと、それからここにはいないがルナという少女も、ユキとは幼い頃からの付き合いになるため、4人はよく言う、幼馴染という関係になる。
アイルはフォールハウトの目の前に来ると、ドカッと勢いよく噴水の縁に腰を掛けた。
フォールハウトの視界からみると、彼の団服の裾が噴水に浸かっているが、そこもあえて指摘はせずにスルーした。
彼は昔からこうなのだ。羽根をぶつけて物を落とす、段差に気が付かず躓いて転ぶ。
言わないと後になって「早く言ってくれや」と怒り出すだろうが、もはやいつものことだから、いちいち指摘するのは面倒くさい。
「お前、会ったんだろ将軍に。どんな男なんだ」
「……気になるのですか? 」
「当たりめぇだよ! その、カッコいいのかよ、そいつ……」
いつも強気なアイルの口調が、いつになくどんどん弱くなっていく。
そんな様子を見て、なんとなく意図を察したフォールハウトは緩くなる口元を隠すため、あたかも真剣に考えるようなそぶりで指先を唇に添えた。
「まぁ、あれは──カッコいいでしょうね」
「はー……どーせ金も持ってんだろな」
「地位もあります」
「クソかよ」
うるさいほどわざとらしい溜息をつきながら、体重を少し後ろに掛けるアイル。
先ほどまで水面にプカプカ浮いていた服の裾は、水分を吸って重くなり水底に沈んでいた。
先ほどまでは湿っていなかった箇所まで、侵食していっている。
「将軍がその話、拒否るかもしれねーんだよな……」
「えぇ。ですが、彼なら──いや、帝国の王が受ければ、彼は拒否しないでしょうね」
「お前はいいのかよ……好きなんだろ、ユキのこと」
「姫という時点で、いずれこうなることはわかっていましたから。特には」
フォールハウトが先ほどからずっとしていた考え事というのは、今アイルと話題にしている姫の縁談の話にほかならない。
帝国将軍、彼ならおそらく、王の決定には従うだろう。
たとえ想い人がいたとしても、構わず、政略結婚の話を受ける。
だからこそ、心配していた。
ただ、気に掛けているのは姫のことではない。もう一人の幼馴染の事だった。
フォールハウトが姫の縁談の話を聞かされたのはルナからだ。
アスガルド王から手紙を渡された彼女が、帝都に向かって出発するその直前だった。
ヘーリオスでの共闘作戦をきっかけに、長らく続いていた戦争の歴史に終止符を打つため、和平協定を結ぶ。
その象徴として、アスガルド王国の姫と、ヘルヘイム帝国の将軍の婚約。
そんな内容が記載された手紙を、ルナが帝国の王と将軍へと届ける使命を負った。
ヘーリオスの地で王国と帝国の間に絆を結ぶことができたのは、手を取り合ったのが他でもないルナと帝国将軍だったからこそだと、フォールハウトは思っている。
そして二人の間に芽生えた感情は、信頼や尊敬だけなんかじゃなかったはずだ。
きっと二人が次に出会うことがあれば、その時は結ばれるだろうなとすら思っていたくらいに。だから、最初にルナからその話を聞いた時、思わず彼女に聞いてしまった。
「本当に、それでいいのか」と。
彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに不思議そうに首を傾けて笑ったのだ。
「どうして? 戦争が終わるのだから、絶対に成功させなくちゃ」
フォールハウトにはルナの本意が掴めなかった。
本来、王国では死神は穢れた存在とされているため、その死神と恋愛することは禁止されている。交わったと知れればそれだけで刑罰が下される程だ。
もちろんルナもそれは承知の上だろうから、いくら好きになろうとも、最終的に彼を選ぶ選択肢は、もとから彼女の中に存在しなかったのかもしれない。
もしくは天使としての決まりをまもるため、諦めるために話を成功させたいのか。
しかし、フォールハウトの目に映る彼女は、そのどれにも当てはまっていなかった。
自分の気持ちにまだ気が付けていないだけ。そう思えて仕方がない。
「そうですか。では、気を付けて行ってきて下さいね」
野暮なことをいうのは避けようと、彼女に対してフォールハウトがそれ以上何かを言うことはなかった。
「ま、俺としては将軍とやらがOKしてくれんなら、ルナが取られる心配しなくて済むから助かるわ」
「ですが、このままだとまず間違いなく他の男性に取られるでしょうね」
「うっせー! ンなことわかってんだよ」
「ルナは優しくて頼りがいのある男性に惹かれますから。少なくとも、今のあなたのように服の裾を噴水の底に沈めるような男はまず眼中にありませんよ」
「は……? うわっ」
勢いよく立ち上がった際に、バシャっと音を立てて沈んでいた服の裾が水揚げされる。
十分に水分を含んだ裾から水が地面に滴り落ち、アイルの足元のレンガを濡らはじめたちょうどそのとき、銀のトレーを両手で持った姫が戻ってきていた。
「あれ、アイルも来てたの? 」
「あ? まーなー。何それ」
アイルの意識は濡れた服の裾から姫が持つトレーの中身へと移ったらしく、ずかずかと歩み寄ってその中身をのぞき込む。
「うわ! これこないだのマッズいジャムじゃねーか」
「ちょっと! そんな言い方──」
「何、フォルト使って消化させようとしてんのか? お前にしちゃ名案だな」
「もう! アイル失礼すぎ! そんなんだからいつまでたってもドーテーなんだよ! 」
「童テ……はあぁ!? 」
いつも通りの微笑ましい喧嘩の始まり──のはずだった。
姫の口から発されたまさかの単語に、微笑を浮かべながら傍観しようとしていたフォールハウトですら、かくっと膝を折られそうになる。
そんな言葉を向けられた張本人であるアイルは顔を真っ赤にして、しかしながら何も言葉を返せないままユキをにらみつけていた。相変わらず、裾から水を滴らせている。
「嗚呼、姫……一体どこでそのようなお言葉を……アイル──貴様か」
「俺なわきゃねーだろふざけんなむしろお前じゃねーのか」
「僕がそのような低俗な言葉を姫にお伝えするとでも? 」
「あーそーだな、テメーの自己紹介にでも使っちまったんだろ」
中庭の穏やかな空気は一変。急に、まるで荒れ果てた戦場にでもいるかのように殺伐とした雰囲気となった噴水前で、二人は向かい合って不敵な笑みをお互いに向ける。
「お前の武器も槍だよな。石突対決。相手の胸を先に打った方が勝ち。これでどうだ」
「いいでしょう。サボり常習犯になんて負けませんよ」
「あー! 待って待って! 喧嘩はだめっ。そんなことよりドーテーって本当はどんな意味なの? 友達が使ってるの聞いただけで、ちゃんとした意味って知らなくて! 」
またしても飛び出したどうしようもない発言に、今度は場の空気が少しだけ和らいだ。
微笑み合い──もとい、にらみ合っていた二人もユキの方へと向き直り、そしてお互いに顔を見合わせる。意味を知らない、だと。
「そうだな……童貞っつーのは……」
「僕らのように堅実であり、謙虚で高貴な──男性ということです」
「つまりー……お前やルナみたいなやつが選ぶべき男の、特徴の一つ、だな」
「え……そうなの? 」
「えぇ、しかし意味はどうあれ、あまりその言葉を多用しない方が良いですよ、姫」
「んー……フォルトがそういうならそうする」
未だ頭に疑問符を浮かべてはいるが、納得した様子の姫はその場でくるりと回って見せて、先ほど姿を消した方向へと歩き出す。
「アイルもいるなら、せっかくだし三人でお茶しようよ! 私、アイルの分のカップも持ってくるからー! 」
それだけ言って、二人の反応を待たずにまた姿を消した。
それを見てアイルは苦笑い、フォールハウトもふふっとため息に違い笑い声をこぼしながら髪をかき上げる。
「将軍と顔合わせの席でいきなり聞かなきゃいーけどな」
「やりかねません……ね」




