序章 大火の兆し
月明かりに照らされた夜道。
桐の並木が続く坂を、男とその娘が必死の体で駆け下りていた。
桐の影法師を、何度も何度も踏み越えていく。
踏み越えるたびに、男の内に衝動が湧いてきた。置き去りにした妻のもとへ今すぐ駆けつけたいという衝動が、だ。
しかし、男はそれを必死に抑えこむ。
今は娘を、何処か安全なところへ逃がすことが先決であった。
「ちちうえ……ッ」
手を引かれた娘が、震える声で呼びかけてきた。
金紗に輝くまつ毛が涙に濡れている。娘は追いつめられた子犬のような顔をしていた。
「お待ちください! ははうえが、まだ……っ」
「今は構うな……ッ! 後で、必ず取り戻すっ!」
噛みしめた下唇に血をにじませながら、まるで自分に言い聞かせるようにして、男は言った。
「――クソッ」
自分で自分を殴りつけてやりたい気分だった。
何故、大した警戒もせずに見てはならぬものを見てしまったのか。
偶然が災いに転じたとはいえ、もし男が藩屋敷に忍び込んだ隠密を見逃していれば、こんなことにはならなかったはずだ。
斬り捨てた隠密の懐から見つかったとある密書が、男とその家族の運命を変えてしまった。
その挙句が、主家からの逃避行である。
――カチャリ。
男は刀の揺れる音が近づいてくるのを耳にした。
「もう、追手が――」
慌てて、後ろを振り返る。
笠を目深にかぶった影が四つ――二人の後を追ってきているのが見えた。全員、灯りは持っていない。
娘が、男の手を一層強く握りこんできた。
二人を追い立てる、死の気配におびえているのだ。
「何処か隠れられる場所はっ……!」
男は活路を求めて、左右を見る。
左手には江戸城の内濠が広がっており、右手には大名の拝領屋敷が隙間なく建ち並んでいる。追手を撒けそうな横道は何処にも存在しなかった。
屋敷の青白い漆喰壁に浮かび上がった追手の影が、徐々に、徐々ではあるが、二人との間隔を狭めつつある。
既に一間に迫ろうとしていた。
「もはやこれ以上は――」
男は焦りに思考を支配されつつある中、苦渋の決断を迫られる。
このまま坂を駆け下りても追手を撒ける可能性は限りなく低い。
遠方に見える、小山の向こう側まで辿りつければ、町屋の夜陰に身をひそめることもできようが、そこに至るまでにはいくつもの番所が設置されているのだ。
大名屋敷地の警備は決してざるではない。ゆえに追っ手付きで切り抜けられるようなものではなかった。
「致し方あるまい……!」
結論が出る。
二人がこの場を切り抜けるためには、ここで追手の数を確実に減らしておく必要があった。
「……ここから一人で走れるか。里世」
「……っ。いやですっ! 里世は、一人はいやでございますッ」
娘は親子の離別を予感してか、いやいやと頭を振った。
既に母は敵の手に落ちた。
再会できる見込みも薄い。彼女の気持ちは痛いほどに良く分かったが、今は危機が間近に迫っている。
後ろから迫りくる影は、子連れで何とかなるような手合いではなかった。
「案ずるな……すぐにお主のもとへ戻る。父が、それなりに腕が立つのは知っておろう」
「あっ――」
男は娘に微笑むと、その手を振りほどき、追手に向かって転進した。
一直線に坂を駆け上がる。
「お主はそのまま走れッ。里世!」
「いやっ。ちちうえぇッ」
急な転進を予想していなかった先手の影との距離が詰まる。
一間あった間合いが、一足一刀にまで肉薄する。
月夜の晩に、笠をかぶっていようとも相手の表情がよく見えた。狼狽の相をしている。
「……かくなる上は、許しなぞ乞わぬぞッ」
捻らせた上半身と連動させるようにして、自慢の愛刀を抜き放つ。
鞘走りをした愛刀が半月の軌跡を描き、男の首へと吸い込まれていく。
手のひらに伝わってくる肉を断ち切る感触に、男はぎりりと歯噛みした。
かねてより見知った者の命を、今この手で摘み取ったのだ。
言いようのない嫌悪感が、男の心を責め立てる。
男の所業を咎めるように、鉄さびに似た匂いが辺りに撒き散らされた。
頬に生温い感触を得る。
男はそれを拭おうともせずに、残りの追手たちに切っ先を向けた。
構えは正眼。男が最も得手とする構えである。
追手たちとの間合いは、余勢をかった連撃を警戒したのか波が引くように開いていた。
彼我の戦力差は一対三。勝ち目は薄いが、やるしかなかった。
「逃げられはすまいぞ、善吉」
上段に構えた追手の一人が、吐き捨てるように男の名を呼んだ。
それだけで、男の――善吉の胸の奥がずきりと痛む。
彼らとは生国を同じくする藩士であった。将来の展望について語り合い、同じ剣術道場でその腕を磨き合う仲でもあった。
皆、竹馬の友と呼んで差し支えない者たちである。
だからこそ、殊更に堪えた。彼らから受ける敵意は。
「……そんなことは、百も承知よ」
善吉には生き延びなければならない理由がある。
密書に記されていた恐ろしい計画――それは万が一にでも世間にことが漏れれば、藩の改易を招きかねないものであった。
ゆえに計画に関わる者たちは、秘密を知った善吉に容赦しないだろう。
善吉が死ねば、恐らく娘も口封じのために殺される。主家の手に落ちた妻も同様だ。
今はまだ人質としての使い道があるため、そう易々と殺されはしないだろうが、用済みになれば話は別。
家族の命を繋ぎとめるため、この場は何としてでも切り抜ける必要があった。
「そうか」
上段に構えた追手の身体が沈む。
――次の瞬間、間合いを詰めた追手の刀は善吉の脳天目がけて閃いていた。
手本のような先の先である。常人ならば、そう容易く受け流せるものではない。
だが、善吉は常人の範疇に含まれる類の者ではなかった。
「――ツェアッ」
垂直の一撃に合わせるようにして剣先を持ちあげると、振りの小さな一撃を放った。
両者の剣がかち合って、山を、もしくは合掌の体をなす。
擦れ合った切っ先から火花が飛び散り、追手の振り下ろした刀が斜めに逸れた。
「……相も変わらず、龍の口が甘いッ」
剣先の争いに競り勝った善吉は、吐き出した言葉を気合に変えて更に一歩踏み込み、追手の喉を勢いよく突いた。
ごぽりと、喉を貫かれた追手の口から血の泡が零れる。
善吉は息を長く吐いた。
そして、刀を引き抜く予備動作として追手の身体を新手に向けて蹴り飛ばす。
「チッ……!」
攻撃の初動を潰された新手が、忌々しげに舌打ちした。
蹴り飛ばされた仲間の身体を肩で払いのけつつ、新手は一歩踏み込んでくる。
繰り出したのは袈裟がけの一撃。
善吉はこれを潜りぬけるようにしてかわし、流れるように新手の胴を横に薙いだ。
真一文字の刀傷が、新手の脇腹に刻まれる。紛うことなく致命傷であった。
善吉は残心を取るべく、振り向こうとする。
その瞬間――善吉の左腕に激痛が走った。
どうやら、死に体となった新手が試みた反撃が当たったらしい。
執念を感じるまなざしをこちらに向けながら、新手は不敵な笑みを浮かべてその場に崩れ落ちていった。
「ぐ、ぅ……ッ」
浅からぬ傷に、善吉はたまらず腕を抑える。
致命的な隙であった。だが、最後の一人は剣を八双に構えたまま動かない。
「……合撃打ちに一寸の見切り。この土壇場でようも容易くこなしてみせるものだな」
純粋な賞賛に満たされたその言葉に、善吉は一瞬自分がいる場所が生国の剣術道場であるかのように錯覚した。
「いや、勝手知ったる身内の剣、ということか。本当に……皮肉なものだ」
最後の一人が苦笑いを浮かべる。
「佐助……」
善吉に呼ぶ声に応じるように、佐助が笠を脱いだ。
頬の痩せこけた、陰気な顔がよく見える。
彼のまなざしは哀しみを帯びていたが、それと同時に何か大事なものを捨て去ったような諦観の色が見て取れた。
「殿の覚えめでたき貴様だからこそ、今一度だけ問おう。我々に協力せよ。御家のためだ」
その問いに、善吉はゆっくりと頭を振った。
「……断る」
「どうしてもか」
佐助から感じる圧力が強まった。
ぶわりと、冷や汗が全身から流れ出す。
凡百の人間ならば、睨みつけられただけで心折れかねない殺気を受けながらも、善吉は刀を構え直し、佐助を真正面から睨み返した。
曲げることのできない信念があったからだ。
「くどいッ! いかなる理由があろうとも、“火付け”に成り下がるなどと……武士の誇りを捨て去るつもりは毛頭ない!!」
それは善吉の心からの叫びだった。
佐助はそれを決別の合図と受け取った。
肉薄した両者の間で刃が飛び交い、青白い火花が散る。
両者の実力は伯仲していた――が、片腕に負った怪我が善吉にとって大きく不利に働いていた。
一合、二合、三合と剣を交えるごとに、勝敗の天秤が佐助の方へと傾いていく。
そして、更なる不運が善吉に舞い込んできたことで、この戦いの趨勢は決した。
「ちちうえッ」
予想だにしなかった娘の声に、善吉は色を失う。
「馬鹿者ッ、何故! 戻ってきたッ!」
視界の片隅に娘が移り、善吉の心に迷いが生じた。
その直後――佐助の刀が振り下ろされる。
「あっ……」
――斬られる。
そう確信した。
まるで、時が遅くなったかのような錯覚に陥る。
まだ、死ぬわけにはいかない。
まだ、死ぬわけにはいかないというのに――いかんともしがたい現実に、善吉は自分の命を断ち切らんとする刃の軌跡を目で追いかけることしかできなかった。
濃密な死の感覚に囚われる。
そして――振り下ろされた刃は、善吉のすぐ横へと逸れていった。
否、何者かに逸らされたのだ。
両者の間合いが再び開く。
佐助は何故か利き手を押さえ、明後日の方向を睨みつけていた。
「邪魔が入ったか……」
佐助は憎々しげに呻きながら、その場を飛びのいた。
直後、彼の立っていた場所に小刀が数本突き刺さる。
更に、一本。佐助を追うようにして、小刀が次々と放たれる。
桐の木陰に何者かいた。
「……善吉、貴様の連れ合いがこちらの手にあること、ゆめゆめ忘れるでないぞ!」
分が悪いと見たのだろうか。
言うが早いか、佐助は逃げるようにして夜の闇へと消えていった。
「一体、何が……」
突然の事態に理解が追いつかず、呆然と呟く。
駆け寄ってくる娘の泣き声に混じって、何処か遠くで鳴り響いている半鐘の音が耳に残った。
その音は、徳川家康の慶長御入府以来、無法図に急成長を続ける江戸の夜空に吸い込まれていく。
江戸の空は、ゆらゆらと炎を受けて白んでいた。
――時は、明暦二(1656)年。秋の九月。
江戸を揺るがす大事件が巻き起こるまで、まだひとたびの時を要する。
※一……刀の握りのこと。
※二……敢えて刀と刀をぶつけて相打ちに持ち込む、攻防一体のカウンター技。




