幕間十六 教皇の決意と横やり
雷鳴がとどろくデリアズビービュールズの水の教会で、エランドヴィリリアングはその巨躯を豪奢な椅子に沈めていた。その目は混乱し怯える水神の信徒たちに向けられている。
彼女の周囲には青く光る何かが漂っており、手に持った長い金の笏を床に立てるその姿はまさに教皇にふさわしい威厳を見せつけていた。
「まったく、子供があたふたしてるんじゃないんだから。いい大人が、ちょっとは落ち着けないのですか?」
エランドヴィリリアングがカツンと天水の笏で床をつくと、「ヒッ」と短い悲鳴があがる。
雷を知らなかったが水神の力だと知っているエランドヴィリリアングがずるいだけだが、彼女は気にしない。
「げ、猊下……」
彼女の近くに、立派とは言えないが粗末でもない法衣を着た熊獣人の男性が声をかけてきた。金色の髪を刈り上げ、小ざっぱりとした印象の男で、神輿として担がれているエランドヴィリリアングに敵としてではなく案ずるものとして接してくる付き人的存在だ。
身の丈は彼女よりも低く、大悟よりは高いといった、高身長の熊獣人にしては背の低い男だ。
彼もまたエランドヴィリリアングと同じく寒村の出で派閥の思想に共感できず、宙ぶらりんのところを彼女に拾われ側近として仕えていた。その恩に報いるべく、またそれが故に教皇を敬愛していた。
「ほぅ、アーチェフは動じないようですね」
「……いえ、十分動じております。足の震えを法衣で隠すのが精いっぱいでございます」
引きつった顔を見せまいとするアーチェフだが、頬はピクリと動いてしまう。
「アーチェフ。水不足で神官の派遣要請が出ている村のリストはありますか?」
「は、今この手にはありませんが執務室に戻れば」
「よろしい。では今から行くとしましょう」
「猊下、こ奴らは如何いたしましょう」
アーチェフは、神に祈るでもなくただ怯えている水の神の信徒たちに目をやった。
「放っておきなさい」
「は、承知いたしました。では」
エランドヴィリリアングは立ち上がり、騒ぐしかできない者たちを一瞥すると、天水の笏で床を打ち鳴らしながら自身の執務室へ向かった。
「まぁ、無事じゃないとは思っていたけども……」
「申し訳ございません。帰られるまで清掃すらも待つように指示したのですが、私のいうことなど聞く耳も持たず……」
エランドヴィリリアングの執務室は、家探しされたように荒らされていた。彼女は何かを隠してはいないし、隠すものもなかった。だが、彼女を担ぎ上げたならず者はそうではなかった。
猜疑心で頭が詰まっている不心得者は、彼女の弱みをひとつでも見つけ、自陣を有利にすることしか考えられなかったのだ。
「アーチェフ、君は悪くありません。悪いのは悪意を持った者どもです。水神様が忌み嫌う、悪意を持つ者たちです」
エランドヴィリリアングが慈愛の笑みを浮かべ、優しくアーチェフの頭をなでると、彼は泣きそうな顔になる。
力及ばずも慰められてしまった。感ずるエランドヴィリリアングの暖かさを喜びつつも情けなさがそれを上書きをしてしまう。
敬愛する教皇の役に立ちたい。
だが自分には力はなさすぎる。
彼は葛藤の中でもがいていた。
「リストは、これですね。ふむ、緊急を要するのが3か所。残りはまだ猶予がありそうですが、急がねばなりませんね。アーチェフ、出立準備にかかる時間は、如何程ですか?」
「は、本日中には、用意いたします」
「……無理はしなくてもよろしいですよ。巡幸は、幾日もかかるでしょうから、現地調達も考慮してください」
「げ、猊下、教会を長期に留守にすると、奴らが勝手に何をするかわかったものでは!」
アーチェフが声を荒げた。
「教皇の座を簒奪する、くらいはするでしょうね」
「猊下!」
「教皇の座など、どうでも良いのです」
エランドヴィリリアングは手にある黄金の笏を撫でた。
「私は、この天水の笏と水のローブを、原初の水の聖女から預かりました。これをもって、水を拡げて行けと、水神様から申し付けられました。教皇の座など、もうどうでも良いのですよ、私にとっては」
エランドヴィリリアングは言い聞かせるようにアーチェフに語った。
彼女が教会に入ってすぐ、ワッケムキンジャルに師事したときに諭されたように。
「教会があてにならぬなら、水神様を慕う民が苦しんでいるのなら、私が行けばよいのです」
それだけのことです、と彼女は言い切った。
いままで何を悩んでいたのだろう。
なんだかんだ教皇という立場に安寧とただそこにいるだけだったのだ、とエランドヴィリリアングは思い上がりを恥じた。
力無き立場ならばそのような思考には至らないのだが、今は違う。託された力があるのだ。
力あるものが動かずしてどうする。
どこかで野垂れ死ぬもまた一興。
先生にお会いできないのは心残りだが。
「思うままに行動せよと、水神様はそう仰ってくださった。私はその言葉通りに生きようと思う」
エランドヴィリリアングは憑き物が堕ちたような、穏やかな笑みを浮かべた。
その時、執務室の窓の外に小鳥が止まりガラスを突いた。羽は雷雨に打たれ濡れそぼっている。
「おや、ごめんなさいね雨を降らせてしまって」
エランドヴィリリアングは窓に近寄り閉められていたガラス戸を開けた。
「やぁ、助かったよ。雨ってのはすごいね。予想以上に飛びにくくってさ」
部屋に入るなり、その小鳥がななれなれしくしゃべりだした。
「……その声は、風の教会の」
「あったりー! いやぁ、僕って案外認知されてるんだなって。嬉しいなぁ」
「アーチェフ、この鳥を焼いておしまいなさい」
「は!」
「ちょっとちょっとアーチェフ君、は!じゃないでしょ! 僕だって! 風の座主のダライアス14世だってばー」
やれやれという仕草をした小鳥を、エランドヴィリリアングは苦々しく睨みつけた。
「尻軽な風の神様の御使い様が何の御用かしら?」
「いやー、水の神様が何か楽しげなことをされてるって耳にしてさー。僕も混ぜてもらおっかなーって!」
「なんですって!?」
「風の神様がそう仰ったんだよねー! 楽しそうだからついていけって!」
エランドヴィリリアングは思わず手を額にあて、天を仰いだ。
小鳥の姿は依り代で、本体は風の教会にいるのだ。軽すぎてそよ風でも浮いてしまいそうなこの男だが神への信仰はズバ抜けており、風の神との会話も可能だと噂されている。
この小鳥を使った遠隔通話も、風の神の力を根源としているのだ。
水の教会の教皇として、他の教会のトップとも面識はある。各神を信奉する教会同士が対立することは、すなわち神が対立することにすり替わり、そうすると大陸が滅びかねない。そのため、各教会のトップは会合を開き、意見の調整やもめごとの調停を行っている。
風の座主のダライアス14世とは10年ほど前に初めて顔を会わせた。まだエランドヴィリリアングが教皇になる前であるが、その時に言い寄られたのが始まりだった。
当時のエランドヴィリリアングは32歳。ダライアス14世は35歳であった。
14世とあるが先代との血縁はなく、座主になったものが名を継ぐシステムになっている。
異性はワッケムキンジャル(当時45歳)にしか興味がなかった彼女は、愛想笑いで当たり障りのない対応に終始していたが、それが逆効果だったらしく、ダライアス14世はぐいぐい来たのだ。
「謹んでお断りいたします」
「いやー、そういわれても風の神様の御指示だし、従うしかないんだよね、僕は。あ、出発は明日とかなんでしょ? 準備はばっちりでついていくからよろしくね! いやーエランちゃんと一緒なんて、嬉しいなー、楽しみだなー!」
エランドヴィリリアングはきっぱりと断ろうとしたが小鳥は言いたいだけ言うとさっさと窓から飛び立ってしまった。
「……大丈夫です、猊下は私が御守いたします」
アーチェフはエランドヴィリリアングの手を取り、彼女の瞳をじっと見つめた。だが彼女は困惑を隠しきれない。
ちょっと待ってなんでこんなことになってるの?
何故ですが水神様。
エランドヴィリリアングは水神に助けを求めたが、この状況を打破できるようなお言葉はなかった。




