幕間十三 今代の水の巫女
教皇エランドヴィリリアングは非常に困惑していた。水神と同様に敬意を持っていた原初の水の巫女ロータンヴェンヘ-ザが目の前にいることにだ。
はるか昔、水不足にあえぐ民の前に遣わされた、初めての水の使徒であり、悪意を持った権力者に歯向かい殺された清廉な魂を持つロータンヴェンヘ-ザ。水の教会に所属するもので彼女を知らぬ者はいない。
水の巫女、聖女。
呼び方は人それぞれだったがそこには尊敬の念があった。エランドヴィリリアングは彼女の生き方にかなりの影響を受けていた。
その憧れの水の巫女がいる。そして自分に手を差し伸べている。
正常な彼女であれば「偽物」と断ずるはずだが、恩師でもあるワッケムキンジャルからの手紙、超常現象を目の前にし、彼女の精神は己の正当性が揺らいでいることを感知していた。
嬉しさと疑わしさ。心の天秤はどちらに傾くのかを決めかねているのだ。
『突然のことで驚かれてるとは思いますが、まずは話を聞いていただきたいのです』
静かに語り始めたロータンヴェンヘ-ザに、エランドヴィリリアングとワッケムキンジャルは黙って頷いた。
『此度のことは、内密にお願いしたいのです。前回までは私利私欲による妨害により、水神様の意向を断念せざるを得なくなりました。それにより、皆さんの生活が厳しくなったことは謝罪いたします』
ロータンヴェンヘ-ザが少し悲しそうな顔をした。エランドヴィリリアングは、胸に痛みを感じた。
昔話が本当ならば、その責は当時の悪意を持った権力者に負わせるべきものと考えたからだ。
『まずは、なぜ彼なのか、の説明でしょうか』
彼女はエランドヴィリリアングとワッケムキンジャル、ふたりの顔を交互に見た。
敬虔な信徒であるふたりは、水神の望みであるなら自分がその役割をと思うだろうと感じているからである。もし自分がその立場であれば、間違いなくそうしていたからでもある。
『過去の反省から、水神様はこのお役目を、この世界に捕らわれない他の世界の人物にやらせてみようとお考えになりました。勘違いしていただきたくないのは、水神様はこの世界の民を見限った訳ではないことです』
「ロータンヴェンヘ-ザ様、発言のお許しをいただきたいのですが」
『どうぞ、神官ワッケムキンジャル殿。あ、それと、私のことはローザと気安く呼んで頂きたく』
「あいやそれは……」
『気安く呼んでいただかなければ、ダイゴ様があらぬことを考えて萎縮してしまわれるかもしれないのです。これはお願いでもあります』
お願いと言いつつも強制なのだと、エランドヴィリリアングとワッケムキンジャルは肝に銘じた。自らの行動が回りまわって水神様の意思を挫くことになりかねないのだ。
水は、生きていくにあたり絶対に欠くことのできないものであり、その水を司るのが水神である。自らも、水は民に行き渡らせたいと願っているのだ。ロータンヴェンヘ-ザのお願いは聞くしかないのだ。
エランドヴィリリアングとワッケムキンジャルは顔を見合わせた。
「かしこまりました、ローザ様」
「僭越ながらローザ様と呼ばせていただきます」
『もう、様はいらないのに』とこぼす水の巫女の人間らしい面を見たエランドヴィリリアングは、伝え聞く高潔なイメージとは違うと感じた。彼女の偉業は、口伝えの際に誇張もされたのだろう。そもそもは信心深い、素朴な少女だったのかもしれないと、エランドヴィリリアングは思った。
小さな村の出の自分とあまり変わらない存在なのだなと、安心もした。
『水神様は、ダイゴ様に聖なる山で生活をして欲しいとの約束で、彼をこの地に呼び寄せています』
「呼び寄せた、ということは、こことは違う地の方、なのですか?」
ワッケムキンジャルは言葉を選びながら、冷静に努めている。
『えぇ、他の世界の神であるジゾウボサツ様を通じて、該当しそうな人物を派遣していただいてきました。それがダイゴ様です』
「「おお!」」
エランドヴィリリアングとワッケムキンジャルは教会入り口でふたりの女性に確保されている男性を見た。
『お人好しで、お願いされると断れない、まじめな方と聞いておりましたが、その通りなお方です』
「……そのようですなぁ、命を救われたとはいえ、なかなか気難しいリャングランダリ嬢が懐いておりますな。あぁ、うちの娘は言わずもがなですが」
ワッケムキンジャルはふふっと笑う。
『半分は胃袋を掴まれているようですが、穏やかな彼の性格もあるように思えます』
嫋やかにほほ笑むロータンヴェンヘ-ザ。
そんな彼女を見ながらエランドヴィリリアングは彼がどのような人物なのかをつかもうとしていた。ロータンヴェンヘ-ザとワッケムキンジャルは面識があるが彼女にはないのだ。
水神が選んだとはいえ、素直に信じるのは尚早だ。今の彼女の立場からしたら当然だ。
「水神様としては、彼が聖なる山で生活することが水の流布につながるとお考えなのでしょうか」
『ダイゴさまは住んでおられたところでは、穏やかな性格ゆえに良いように使われておりました。たいそう苦労されていましたので、ゆっくりとした暮らしをしていただきたいのは本心です。確かに聖なる山にある水神様の池から染み出す水が大陸中にいきわたりはするのですが、それだと数十年の時間がかかります。そこで水神様はダイゴ様を各地を訪れるように計らっております。彼には水神様の鱗を井戸に入れればたちどころに水が湧くとお話をしておりますが、実際は彼が訪れた場所の近くにある井戸に水が戻るようになっています』
だますようで申し訳ないのですが、とロータンヴェンヘ-ザは眉を八の字にする。
「なるほど、巡幸には違いないのですが、それは早めるためなのですね。その護衛にふたりが選ばれた、と」
ワッケムキンジャルは顎をさすった。
『それとぶちこちゃんもですね。あの子はおっとりして見えますが、フェンリルとケルベロスの純血の配合種なのです。闇の神の悪戯で生まれたそうで、大けがをして倒れていたので水神様が引き取ってこられました』
「「闇の神……」」
エランドヴィリリアングとワッケムキンジャルは声を揃え、そして知ることもなかった神々の行動に絶句した。
『ダイゴ様をお守りする人選に問題はないと思うのですが、優しいダイゴ様のことですので、悪意を持って近づく人間にも普通に接してしまいそうなのです』
「それはあるかもしれませんなぁ。ダイゴ殿はうちの孤児たちにも特に思うことなく接してくださりますから、悪意あるものが不幸を装って近づけば、たちまち引き入れてしまうでしょう」
ワッケムキンジャルはうむむと唸った。
『悪意が近寄るのなら、虫が光に吸い寄せられるように、一か所に集めてしまおうかと考えています』
「どこかで大々的に公表してしまわれるのですか?」
『廃墟となって数十年の、だれも住んでいないあの街を、豊かな水で作り変えてしまおうかと水神様とお話をしているところです』
「私にやらせてください。コルキュルが蘇るのならば、おいぼれの命はそこに預けとうございます」
ワッケムキンジャルは祈るように手を組んだ。
「……私に何かできることはございますか?」
エランドヴィリリアングはロータンヴェンヘ-ザを見つめた。過去の繰り返しは避けなければ。特に今代の教皇は自分なのだから。
『貴女には、ダイゴ様の身代わりをお願いしたいのです』
ロータンヴェンヘ-ザは、まっすぐエランドヴィリリアングを見返した。
『神に選ばれたと、宣言をしていただきたいのです。もちろん、貴女への助力は惜しみません』
水の巫女の言葉に、エランドヴィリリアングは渋面になった。
そんなことをしてしまえば、神輿でしかない自分の立場はより危うくなるだろう。自陣に引き込んで有利にするために拉致されるかもしれない。操りやすいように薬物を使われるかもしれない。最悪は暗殺だ。
『彼の身代わりというと乱暴ですが、そうですね、わたくしが託したという形ではいかがでしょうか』
言い終えたロータンヴェンヘ-ザが頭上に手を掲げ『証を』と告げると、水神の像が輝く。そして彼女の手の中に1本の金の笏が現れた。
全長2メートル。握りやすい太さの笏の先には蓮華が咲いており、その中央には水色の大きな宝石が鎮座している。エランドヴィリリアングは淡く水色に光るそれから目を逸らすことができなかった。
『当時のわたくしが持っていた、天にかざせば雨をもたらす、天水の笏です。これを貴女に託します。それとこれも』
彼女はローブから腕を抜き、丁寧に畳んで、笏と共にエランドヴィリリアングに差し出した。
『当時、わたくしが着用していた、本物の水のローブです。ダイゴ様のローブは、同じ力を持たせたものです』
エランドヴィリリアングは言葉を発することもできず、ただただ差し出されたそれらを見つめていた。
『貴女の心配はよくわかります。わたくしもかつてはそうでした。ですが、いま、大切なことは何かを理解し、その心の信ずるままに進む貴女だから、このお役目ができると思ってます』
エランドヴィリリアングは顔を上げ、ロータンヴェンヘーザと視線を交わした。
『今代の、水の巫女になっていただけませんか?』
ロータンヴェンヘ-ザの慈しむような微笑みに、エランドヴィリリアングが抱えていた不安はみじんに砕かれ、無意識のうちにその手を伸ばしていた。




