第4章:間引き(3)
闇夜を照らす明かりは、果たして有限か、それとも無限か。
星空はいつも、人を哲学へといざなう。
だからこそ、手の届かない場所にあっても尚、天文学が廃れる事は決してない。
フェイルは有限と考えていた。
特に根拠はないが、その方が夢があって良いと、それくらいの軽い感覚で思っていた。
限りある物には、いずれ手が届く。
真理だ。
尤も、それが実証されるのは果たしていつの時代になるのか。
エチェベリアは医学や兵学は発達しているが、天文学には余り明るくない。
未来は果てしなく遠い。
それでも、何時か何処かの国で、誰かがそれを実現する。
そうやって世界は形成されてきたのだから。
天と未来へと思いを馳せながら、フェイルが足を運んだのは――――懺悔室。
ノートの扉に挟まっていた紙には、『依頼をしたい』という旨の内容、待ち合わせの時間、そしてその場所となる建物の名称が記してあった。
アランテス教会ヴァレロン支部。
フェイルが定期的に訪れる最寄の教会だ。
場所には追記があり、『懺悔室』を指定していた。
それが一体、何を意味するのか。
結局、移動の間に考えは纏まらず、気付けば教会の前に着いていた。
二つノックを行い、返事を待つ。
すると――――
「お待ちしていました、フェイルさん。鍵は開いていますよ」
フェイルの返事を待たず、その扉の先にいる若き司祭ハイト=トマーシュは来訪者を特定した。
重厚な扉に手を掛け、フェイルはその中へと足を踏み入れる。
ハイトは祭壇の前で待っていた。
普段の顔とも、メトロ・ノームで見せた顔とも違う、何処か冷然とした表情で。
「まさか、とは思いますけど、貴方が……」
「いえ。私はただ場所を提供しているに過ぎません。どうぞ奥へ」
促されるままフェイルは礼拝堂を抜け、入った事のない空間へ足を運んだ。
壁に数多くの照明の炎が設置されている為、臙脂色の絨毯が汚れ一つなく伸びているのを、梟の目を使わずとも把握出来る。
懺悔室――――そう呼ばれた場所は、まるで最高級の応接室のように美しく在った。
「こちらです」
ハイトの案内に従い、視線を向ける。
そして、その先にいる人物を見た瞬間、思わず感情を顔に出してしまった。
「……!」
見開いた双眸に映るのは、かつて自分が狙撃した『標的』。
キースリング=カメインという名の宝石商だった。
ヴァレロンでも屈指の富豪だけあり、その服装、装飾品全てが一級品。
特に絹でこしらえたと思われる滑らかな上着と、胸元に光る巨大な宝玉は、眼識のないフェイルでも一目で特別な品であるとわかる。
ただ、驚くべき点はそこではない。
殺しはしなかった為、生きている事自体は驚愕には値しないが、かつて射た相手が目の前にいるこの状況は、歓迎出来ないどころか混乱すら覚える。
失態とさえ言える感情の露呈は、それが原因だった。
「さあ、早くこちらへ。呼んだのはこちらだ。客人である君が何時までも立っていては、私が非常識な人間と思われてしまう」
宝石商に多く観られる、ふくよかな体型のその中年男性は、威圧感を多分に含ませた物言いでフェイルを促した。
キースリング側も、フェイルから襲撃を受けたのを把握しているのは間違いない。
彼ら富豪の情報網をもってすれば、ヴァレロンの裏側で暗躍している人間を特定するのは造作もないだろう。
そうなれば、警戒すべきはやはり――――復讐。
だが、この室内、或いは室外、更には教会の周囲に到るまで、キースリングとハイト以外の人の気配はない。
フェイルも気付けないほどの達人が潜んでいる可能性は否定出来ないが、暗殺技能取得の際にデュランダルから散々鍛えられたその察知能力は、そう簡単に出し抜かれはしないという矜持がある。
それだけに、意図が読めない。
そもそもフェイルはビューグラスの依頼で彼を狙った。
ならば、キールリングの恨みはビューグラスに向くのが筋。
しかも命に別状がなく、後遺症もないような状況で、果たして実行犯たる狙撃者に近付いて何になるのか――――
「安心したまえ。こちらに君を恨んだり、殺意を抱いたりするような感情はない。君を呼んだのは、その腕を買っての事だ」
「……」
決して素直には受け取れない言動ではあったが、そう発言された以上、警戒ばかりしていても埒が明かない。
フェイルは沈黙のまま、懺悔室の中央に置かれている机のキースリングの対面側に腰掛けた。
ハイトはその二人から等距離の位置で静かに佇んでいる。
このハイトの存在も、警戒しなくてはならない一つ。
もしこの場でフェイルが襲われる事があるのなら、襲撃者は気配を消す達人か、司祭であると同時に魔術士でもあるハイトだ。
これまで何度も、彼の朗らかな笑顔に助けられてきたフェイルにとって、そんな相手に猜疑の目を向けるのは決して本意ではない。
だが、今のフェイルにはそれをする必要があった。
何しろ丸腰。
契約の際、フェイルは基本、武器を持ち歩かない。
ビューグラスから半ば専属に近い形で依頼を受けるようになってからは、その必要性は更になくなっていた。
弓矢は、短剣のように隠す事の出来る武器ではない。
よって相手にも見える形で持ち運ぶ事になる為、交渉相手によっては信用されていないと受け取るかもしれないし、何より暗に脅迫しているようで失礼に当たる。
極力持ち歩かないようにするのは自然の流れだ。
しかしそれを考慮したとしても、今回は弓を背負って来るべきだった――――そんな後悔がフェイルの脳裏を過ぎる。
メトロ・ノームでバルムンクを相手に満足いく戦いをしたフェイルは、何処か気が緩んでいる自分を自覚していた。
それが悪い方向に出てしまった。
「では、御用件を窺います」
とはいえ、過ぎた事を何時までも悔いる事に何の利もない。
重要なのは、この場面を大過なく乗り切る事。
フェイルは視線を狭め、眼前のキースリングを目で射抜いた。
「悪くない。恐らく心の中はパニック状態だったのではないかね? 建て直しが非常に早い。優秀であると同時に、臨機応変に対応出来る証だ」
そんな軽い寸評で始まったキースリングの口は、忙しなく動く。
「覚えているかね? その手から放たれた矢が、このうなじを掠めた瞬間を。残念ながらこちらは覚えていない。一瞬で意識を持っていかれたのだから」
「……」
返答に困り、フェイルは沈黙を守る。
それでも狼狽や焦りは見せないし、見せてはならない。
キースリングが接触を試みた以上、この件がビューグラスと無関係とは考え難い。
ならば尚更、気を引き締める必要がある。
これ以上の失態は許されないのだから。
「冗話はこの程度にして、早速本題に入ろう。こちらも忙しい身なのでね」
ハイトが見守る中、数多の揺れる炎がキースリングの影を僅かに傾ける。
そして――――止まった。
「君に任せたい依頼がある。これから行われる武闘大会エル・バタラにおいて、『調整』をお願いしたい」
「……調整?」
眉を顰めるフェイルに、キースリングは小さく首肯する。
「具体的に言おう。これから指定する人間を、指定した期間だけ『衰弱状態』にして欲しい。ただし、殺したり、完全な戦闘不能状態にしてはならない。あくまでも衰弱の範疇だ」
「……」
その説明で、フェイルは依頼内容と、その背景にある目的を理解した。
賭博が関わっている。
そう判断するのに躊躇は不要だった。
例えば、恨みを持っている人間や、勝ち上がらせたくない理由がある人物が標的なら、衰弱状態じゃなく出場不能の身体にするのが最も確実。
衰弱に留める必要があるのは、試合には出場させなければならないからだ。
エル・バタラの対戦カードを対象にした賭けは、合法なものから違法なものまで様々。
取り仕切る元締めによってオッズもルールも異なる。
談合を警戒して、不戦勝・不戦敗の場合は賭けが不成立としている所もあるだろう。
厳格なルールを定めている元締めは、その分大きな金額を動かす事が多い。
キースリングが、そのようなスリリングな賭博に興じようとしている可能性は、かなり高いと言えるだろう。
「わかりました。ただし仕事を円滑に行う上で、こちらから質問があります」
ただし、その件は決して口には出さない。
それがフェイルの、裏の仕事を受ける際の礼儀だ。
「無論、構わない。聞こう」
「ありがとうございます。まず……この依頼は、エチェベリア国でも屈指の規模を誇る武闘大会エル・バタラの権威を失墜させる可能性があります。だとしたら大会後、僕が無事でいられる保証はない。いや、可能性はないと言っておきましょう」
質問と言っておきながら、フェイルはまず断定口調でそれを語った。
実際、それは確実であり、質問はここからだ。
「この点をどうお考えですか?」
その問いに――――キースリングではなくハイトが一瞬口元を緩めた。




