断章:無駄無の弓(15)
既に戦局は、理想とは程遠い――――
フェイルはその現実を、砂を噛むように受け入れ、目を狭めていた。
遠距離からの射撃で相手を焦らせ、不用意に飛び込んできた所を、それまでと異なる技術――――両手をフルに使用した近距離用の弓術を用い、仕留める。
それがフェイルの思い描いていた理想。
だが現状は、幾つかの状況判断の誤りによって矢筒から矢を失い、左肩に限りなく致命傷に近いダメージを負ってしまった。
肩は上がらず、意識も揺らいでいる。
弓を構えようにも、固定する事さえ困難。
致命的な状態だ。
だが、このままで終われば単なる善戦。
余興にしては楽しめた――――そんな感想が限度だろう。
「シッ!」
微かな乱れもない、トライデントの打突。
槍の重さを考えれば、その槍先が描く直線は非常識なほどに正確無比であり、芸術的とさえ言える。
「……ぐっ!」
それを何度も避けられるほど、フェイルの身体能力は飛び抜けてはいない。
幾度かの鋭い踏み込みが、徐々にその逃げ道を消し去る。
空気を切り裂く――――というよりは圧縮するかのような突きに、フェイルは次第に追い詰められ、気付けば闘技場の壁を背負っていた。
「はっ……はっ……」
激痛が極度に体力を削り、同時に心肺機能の低下も生む。
あれだけ虐め抜き、鍛え上げたフェイルの身体は、僅か数分の戦いでもう限界に達していた。
やはり――――地力が違い過ぎる。
そう思わざるを得なかった。
この一連のトライデントの攻撃には、決して派手さはない。
基本的な打突を繰り返し、敵を後退させ、追い込む――――ただそれだけの作業に過ぎない。
だがその間、フェイルは幾度となくフェイントやタイミングをずらす為の挙動を繰り返し、攻守交替のをきっかけを作ろうと試みては、全て失敗に終わっていた。
自分の戦略が何ひとつ通用していない。
予想していた壁の高さは、余りに現実とかけ離れていた。
最短距離で、高精度の攻撃を繰り返すトライデントの瞳に、逡巡は微塵もない。
得物を追い詰める鷹のように、したたかに、しなやかに弄び――――フェイルを消耗させていた。
「良く頑張った。大健闘だ」
その労いの言葉も、フェイルをより深い絶望へと誘う手段。
トライデントの顔はそう語っていた。
「さあ、そろそろ見せてくれ。一枚皮を剥いだ醜い獣の姿を! 最高に美しい屈辱の貌を!」
その色が如実に濃くなり、それまでで最も速い突きがフェイルを襲う。
狙いは幸いにも回避し易い顔面。
フェイルは首を捻るように動かして――――
その時点で、目を見開いた。
槍の軌道が――――変わった。
その刹那、突きが払いへと変化していた。
これもまた槍による攻撃の基本の一つ。
だがそれは突きをフェイントとする事が前提だ。
トライデントの攻撃はいずれも必殺の攻めだった。
全力の突きを、途中で全力の薙ぎ払いへと変化させた。
それを槍で行う事がどれだけ困難か――――それを理解しているのは、この会場の中に数人しかいない。
フェイルもまた、その一人ではあった。
回避不可能。
だからこそ、そう悟った。
「……!」
迫り来る穂先なき槍の柄が眼前に広がる。
この一撃を貰えば、全てが終わるだろう。
全てを失う。
背負い込んだものは、あっという間に零れていく。
先程転がった際に、一瞬にして矢筒内の全ての矢を失ったように。
それは許されない。
弓の未来。
自身の未来。
それらが潰されるのはまだ良い。
実際には良くはないのだが、弓の未来はもしかしたら他の誰かが作ってくれるかもしれない。
自身の未来は自分の責任の下、納得出来る。
だが、一つ。
どうしても、この戦いにだけ全てが懸かっているものがある。
それだけは譲れない。
この戦いは決して譲れない。
絶対に守らなければならないものがある。
例え命を消し炭にしてでも。
その思いは――――
「う――――あ――――ああああああああ!!」
フェイルの咆哮を生んだ。
無論、吠えたからといって何かが変わる訳ではないのだが――――見開かれたその目が、迫った槍の全景を捉え、訴える。
『避けられる』
そう、訴えかけてくる。
自分自身の心へ向かって。
だとしたら、今の声は魂の叫びですらない。
感じるままに、フェイルは身体全体に対し、方向も強さもわからないままに動くよう命じた。
動け。
正解も不正解もない、兎に角動け。
そう体内で叫んだ。
刹那――――意識が飛ぶ。
が、次の瞬間には戻る。
激痛が気絶することを許さなかった。
直撃。
トライデントの槍は、フェイルの頭部を捉えていた。
壮絶な打撃音が、悲鳴にも似た響きで闘技場内を飛び交う。
そして――――
「……!」
トライデントが驚愕の顔で睨む中、フェイルの身体は壁を擦るように弾け――――そこで止まった。
倒れなかったのは、辛うじて急所への直撃を防いでいたから。
が、頭部からは血が吹き出ている。
「審判!」
トライデントの声と目が、致命打の判定を訴える。
しかし、そのコールはなされない。
それもその筈。
当たったのは急所でもなければ槍先でもない。
直撃のほんの一つ前、フェイルの身体は前方へ身を屈め、槍先の『穂』と呼ばれる刃の部分に該当する箇所よりも僅かに中央寄りの胴部が頭に当たった。
倒れて意識を失えば、また違った判断もあり得たが、フェイルは立っている。
これでは致命打とは言えない。
それでもトライデントが不服を唱えたのは、フェイルの心が折れたと感じたからだ。
ただ生き延びただけ。
戦況はますます不利になり、しかも満身創痍。
最早、フェイルに勝機などない――――誰もがそう思い、それでもその戦いを食い入るように眺めている。
この瞬間、弓兵と槍兵の一騎打ちが真の意味で成立した。
観客の評価も、既に大健闘から快挙へと変わっている。
それでも、このまま終われば御前試合に参加した意味がない。
弓矢で槍兵を仕留める。
近距離戦を制する。
そうでなければ、意味はない。
「意味は、ないんだ」
ポツリと、フェイルはそれを声にした。
「……?」
その言葉に不気味なものを感じ、トライデントの顔が歪む。
フェイルは――――既に意識が混濁し始めていた。
「僕がそれをする事に……きっと意味なんてない」
ぞれは、ずっと心の底に沈ませていた、偽らざる本音。
劣等感だった。
フェイルの弓術は、年齢を考慮すれば、周囲が驚嘆を覚える水準。
事実、だからこそ王宮に招かれ、その結果視野は広がり、腕も向上した。
だが同時に――――天才と呼ばれる才能に、自分のそれは及ばないと知る羽目にもなった。
天才でない自分が、果たして弓矢の復権という難題を成し遂げられるのか。
いや――――してもいいのか。
出る結論は毎日違った。
無理なのだろう、と思う日もあれば、いや大丈夫、と思える日もあった。
その連続で浮き沈みするアイデンティティは、徐々に研磨され、鋭くなっていく。
同時に細く、そして脆くもなっていた。
「僕がやらなくてもいい。僕には烏滸がましい。でも……それでも僕がやる」
その脆さと引き換えに。
フェイルの集中力は、一つ上の段階へ引き上げられていた。
濁ったその双眸が、小さな光を宿す。
鷹の目。
梟の目。
いずれも、この戦いにおいては何の意味も成さない。
フェイルが接近戦に拘った理由の一つでもある。
宿った光は、特殊な力ではなく――――フェイルの持つ意思の力だった。
「……判定は正しかったようだ」
それを悟り、トライデントが呟く。
同時に、これまで常にまとっていた狂気にも似た空気が消えた。
戦う目的が変わった――――そう言わんばかりに。
特殊な性癖を持つ人間ではあっても、騎士。
対戦相手から敬意に値するものを発見すれば、その精神に則り、全力を見せる。
トライデントは、全身の筋肉を隆起させた。
「参る」
通常、槍術の基本的な構えは、中段の半身構えなのだが――――その穂先なき槍の先端が、地面に付く。
下段の更に下。
そして、トライデントの体もまた、大きく沈んだ。
膝を屈め、脹脛を膨張させたその構えは、突進に特化したもの。
構えだけで、攻撃方法が断定できる。
同時に――――それでも回避不可であるという自信の表れだ。
フェイルとトライデントとの距離、8メロ。
初めてデュランダルと戦った時と同じ間合い。
その位置から、トライデントは――――跳んだ。
槍の先端が地面を爆ぜ、そのまま浮上するように突き進む。
あの日、フェイルは抵抗出来た。
同じ距離なら十分に適応可能。
――――そうはならない。
トライデントの速度は、当時の手を抜いていたデュランダルを凌いでいる。
そしてもう一つ、重大な理由がある。
槍のリーチだ。
剣――――オプスキュリテよりも長いその槍は、より速くフェイルの身体に到達する。
よって回避は出来ない。
そういう刹那の未来が待っていただろう。
ガラディーンの教範がなければ。
「……っ!」
ただの一度でも、それより迅い槍状の得物による打突を経験しているならば、その記憶は人間の目に焼き付き、体感を変える。
鷹でも梟でもない。
誰もが持つ、人間の学習能力だ。
『何だとっ!?』
そんな声が聞こえて来そうなトライデントの顔が、フェイルの左方を横切る。
フェイルは――――回避していた。
右方へ跳び、壁に激突しながらも打突を避けきった。
掠る事もなく、鮮やかに。
逆方向へ避けていれば、先程同様に薙ぎ払いへの移行で仕留められた可能性が高い。
そもそも、トラインデントが避けられる事を僅かでも想定していたとは――――
「……?」
否。
打突の勢いそのままに突進を続けているトライデントの横顔に、一瞬微かな笑みが見えたように、フェイルには見えた。
想定――――していた。
でなければ、その笑みはない。
トラインデントの身体が離れ行く中、フェイルの頭に去来するのは――――
――――願わくば。
――――この餞別が、友人の一助とならん事を。
封筒の中に収められていた指輪。
クトゥネシリカという女性の性格上、贈り物である事はない。
無意味な物でもあり得ない。
文言通り、自分への一助となる物――――そう確信するのと同時に、フェイルの目はトライデントの槍の先端を捉えていた。
本能が。
或いは、理性が。
その箇所に視点を固定していた。
フェイルの顔が険を帯びる。
次の瞬間――――
闘技場内に光を帯びた文字が躍り、爆発音が鳴り響いた。




