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断章:無駄無の弓(12)

 残すところ、あと――――三日。


「ご指導……ありがとうございました」


 副師団長室で崩れ落ちるように倒れ込んだフェイルは、その後全く身動きせず、暫くして寝息を立て始めた。


 もうまともに腕も上がらない。

 弓を構える事すら満足に出来ない中、その弓を手に握ったまま、夢の中へその身を預けていた。


 普段の何処か背伸びした顔と違い、その寝顔は歳相応のあどけなさを残している。

 後ろ髪がかなり伸びているので、うつ伏せの姿だけを見れば、まるで少女のような姿だった。


「失礼するぞ……と。これはまた随分絞ったな」


 その副師団長室を訪れたガラディーンが、フェイルの寝姿に思わず瞼を落とす。


 百日前とは明らかに体型が変わっていた。

 元々厚みのなかったその身体は、不治の病を煩っているように見えるほどゲッソリと痩せ細っている。


「賭けでした。白兵戦……それも槍を相手に接近戦を行うのであれば、身のこなしを最低基準にまで引き上げなければ、勝負にもならない」


「その賭けの結果が、この姿か」


「大した男です。必ずしも優れた才に恵まれている訳ではないが……一瞬たりとも音を上げず、辛うじて辿り着いた」


 目を細めながら、デュランダルは愛弟子を褒めた。

 眼前の男が、その手の言葉を好まない人間だと知っていたガラディーンは、驚きを禁じ得ない。


 王宮騎士の中で、誰よりも禁欲的で、誰よりも完璧主義。

 そして誰よりも、自他に厳しい男。

 剣士の弟子を取らない理由は、どんな才能豊かな人間であっても潰してしまうから――――それがガラディーンの解釈だった。


 その男が、畑違いの少年に『師匠』と呼ばせている事を知り、当初は懐いている仔犬を放置しているようなものと思ったものだと、そんな回想に脳を焦がす。

 そして、それが誤りであった事をあらためて理解していた。


「まだ十五の少年に、重圧を乗り越えろと言う方が無謀。極限まで身体を苛め、重圧を感じる本能すらも疲労で麻痺させたか。潰れずに生き残ると信じて。そして、それに全身全霊を込め応える愛弟子。ふふ、素晴らしい師弟関係ではないか」


「……」


 デュランダルは瞑目し、その顔を窓の方に向けた。

 ガラディーンは微笑みつつ、寝息を立てるフェイルに自身のマントを被せる。

 身分の関係上、城内では必ず着用しているが、実はガラディーンはマントを身に付ける事は余り好きではなかった。


「勝算は?」


 その剣聖が、唐突に問い掛ける。

 デュランダルは振り向き、その氷のような目をそのままに、本音で答えた。


「ありません」


「そうか……お前が言うのなら間違いないのだろうな」


 フェイルの対戦相手であるトライデントの実力を、二人は必ずしも全て見た訳ではない。

 だが、一流の先にある彼等の感覚が、既にその実像を捉えている。

 見解は一致していた。


「敗れれば、この男は王宮を出るでしょう。夢の中で生きている割に現実的なところもある男です」


「夢の中……か。夢から醒めた時、ここに自分の居場所はないと悟るのだろうな」


 これまで、数多くの平民がこの王宮に招かれ、夢中に潜った。

 そしてその殆どは、夢に溺れ、息苦しい時を過ごし、やがて沈んでいった。


 今までその光景を幾度となく見てきた二人だからこそ――――その言葉は重かった。


「だが"絶対に勝てないようになっている"からこそ、別の視点で言えば、何かが起こる可能性もない訳ではない。違うかな?」


「その通りです。そして、この男は努力をもって、そうなる可能性を残した」


「心情としては、見せつけて欲しいものだよ。この前途多難な若者が、それでも尚光り輝く姿を。お前もそう思うからこそ、敢えてこの場所を訓練所にしたのだろう? ここなら誰に見られる事もない。某以外には」


「……」


 デュランダルは、眠り続ける弟子にその目を向ける。

 ただ静かに。


「私はただ、この不幸な子に、強くあって欲しかっただけです」


 告げるその目は――――まるで銀仮面には似つかわしくない、慈しみに満ちていた。





 毎日丁寧に積み重ねてきた全身疲労が、たった二日間の休養で全て抜ける筈もなく、通算十一足目の靴の裏に樹脂を薄く塗ったフェイルは、まだ全身に気怠さを感じながら小さく溜息を落としていた。


 ――――御前試合出場兵士、控え室。


 異様に張り詰めた空気が流れるそこは、呼吸する度に体内へ痺れるような緊張が押し寄せてくる。

 その場にいる殆どの人間が顔を強張らせ、独り言を呟き己を鼓舞する者もいる。


 第一試合に出場するフェイルは、本来なら最も硬くなって然るべきだが、表情は落ち着いていた。

 ただし、集中出来ている訳でもない。

 未だに疲労を引きずっている為、重圧を感じる以前に自問自答で手一杯になっていた。


 王宮内に設置された闘技場には、二つの控え室がある。

 当然、対戦相手同士が戦いの前に顔を合わせない為だ。

 必然的に、向き合うのは自分になる。


 弓使いは、弓を引く一連の動作で自分の今日の調子を概ね把握する。

 矢を放つまでもなく、精度がどの程度かを理解する。


 フェイルは今日の自分を『好調』と判断した。

 絶好調と言えるほど神がかってはいない。

 だが疲労状態の割に、身体そのものは自分のイメージ通りに動かせている。


 筋肉も脂肪もかなり削ぎ落とした為、体力面には不安がある。

 戦闘中、疲弊した際の自分がどこまで弱ってしまうのかは想像もつかない。

 完全に短期決戦を想定した身体作りだったし、フェイルもそれを承知した上で修練に励んでいた。


 トライデントは一秒でも早く片付け、格の違いを見せつけようとする筈。

 よって持久戦に持ち込めば焦る――――等という甘い考えはない。

 弓兵が一朝一夕で槍兵の体力に並べる訳がないのだから。


 事前にやるべき事はすべてやり尽くした。

 後は、積み重ねてきたものを発揮するだけ。


 そう開き直れれば、一体どれだけ楽か――――フェイルは今、そんな心境の自分と言い争っていた。


 一定の満足を得ている自分がいる。

 デュランダルのしごきに耐え、今日を迎えられた事に充実感を抱いている自分が心の中に隠れている。


 それでは何の意味もない。

 辿り着く事ではなく、辿り着いた先で何をするかが重要なのだから。


 それでも、そうはわかっていても、甘い自分が中々消えてくれずにいる。

 このような公式の場で戦いに挑む経験がない為、心を落ち着かせる方法に覚えがない。

 仮に落ち着けたとしても、いざ戦いの場に赴けば、どうなるのかは本番になってみないとわからない。


 準備は万端。

 大きな保護の中で死力を尽くし、用意できる最高の技術と身体と精神を用意した。

 精神と肉体のバランスは現状がベストだと断言出来る。


 既に開会式は終了している。

 後は係員の呼び出しを待つだけ。


 周囲は全員、自分の世界に入り集中力を高めている。

 それでもフェイルには、曖昧模糊とした迷いがあった。


 この戦いは、ただの御前試合ではない。

 フェイルにとっては全てを賭けた試合になる。


 もし敗北すれば、今後この王宮で弓矢が一目置かれる事はない。

 時代遅れの武器が、その醜態を晒したという印象が固定される。

 御前試合にはそれほどの影響力がある。


「すぅ――――……ふぅ――――」


 深く息を吸って、深く吐く。

 ただそれだけの事を数回、繰り返す。


 弓矢の生き残りを賭けた戦い。

 王宮での生き残りを賭けた戦い。

 父親代わりの、もうこの世にいない恩人への誓いを果たす為の戦い。

 師匠や仲間に貰った期待と恩を無碍にしない為の戦い。


 体内の空気が入れ替わる度に、少しずつ心が重くなる。

 初めての経験だった。

 呼吸も、時間さえも、自分を蝕んでくるように思えてくる。


「……」


 フェイルは縋るような心持ちで、手荷物の中から一つの封筒を取り出した。


 それは、クトゥネシリカからの手紙。

 同梱されていた指輪の意味は、未だにわからずにいる。

 手紙の中にも、それに言及する内容は一切含まれていなかった。


 ただ、その手紙の中身は紛れもなく自分を奮い立たせてくれる。

 そして同時に、更に一つ心を重くする。


 志半ばで去った彼女に顔向け出来ないような真似は、絶対に許されない。

 大きな重圧だ。


 何故なら、この戦いは――――



「フェイル=ノート、時間だ。入場門へ」


「……はい」


 弓を握る手に力を込め、矢筒を担ぎ、腰を上げる。

 御前試合は極力血を流さないよう、それぞれの武器には殺傷力を落とす為の処置を施している。

 フェイルの場合は、矢の先端をカットし、刺さらないようにしていた。


 この場合、空気抵抗が強まる為、本来の矢より走りが弱くなる。

 ただ、それはトライデントの槍に関しても同じ。

 フェイルは意を決し、両手で自分の頬を張った。


「頑張って来いよ!」


「応援は出来ないが、健闘を祈る」


「一戦目、景気良く良い試合をして来てくれ」


 同じ控え室の戦士達が激励をくれる中、フェイルはその全ての言葉に頷き、一度目を閉じる。

 そして開くと同時に意識を集中させ、入場門までの道を歩き出した。


 足取りはやはり重く、そしてぎこちない。

 そして、それを自覚するだけの余裕もある。


 心と身体は乖離していない。

 それは好調の証だ。


 問題は、身震いする程の重圧。

 沢山の思いが力となり、同時に力みも生む。


 フェイルは訓練の日々に、この時を何度も何度も想像していた。

 果たして御前試合という大舞台に挑む直前の自分は、何を考え、どんな心を持って闘いへと赴くのか――――と。


 その答えは、いずれの想像とも違っていた。

 今、思い返していたのは――――直前に読み返す事が出来なかったクトゥネシリカからの手紙だった。





 フェイル=ノートへ


 この手紙がお前の元へ届く頃には、自分らはもう新しい生活を送っているだろう。

 とても平和で長閑な暮らしが待っている。


 フレイアにとっては、王宮より遥かに良い環境だ。

 心配には及ばない事を先に言っておく。


 さて。

 自分がこのような手紙をしたためるのが苦手なのは、お前も知っての通りだ。

 自分は心を形にする事が苦手だ。

 気に食わない事もあるだろうが、我慢して最後まで読んで欲しい。


 自分が王宮を去るに至った経緯は、お前なら詮索せずとも想像出来ていると邪推する。

 だが、一つ間違えないで欲しいのは、これは自分が望んで出した結論だという事。

 間違っても他の誰かを責めないで欲しい。


 正直に言えば、後悔はある。

 思い描いた夢、現実的な目標、最低限の成果、その何一つとして満たせなかった。

 男の支配する剣の世界で、女の身で伸し上がる事を野心と言われ、それを受け入れ今日まで粘ってはみたが、自分はここまでの人間だった。

 無念の極みだ。


 だが、それは本音ではないのかもしれない。

 正直に告白すると、自分は戦う理由を自身の心ではなく妹に預けていた。

 妹を傍に置く事で、妹に偏見を持つ者と闘い、その上に立ち、妹が誇らしく思う姉になりたかったのだろうと、今にして述懐する次第だ。

 それは決して、フレイアにとって最良の人生ではなかっただろう。


 自分は、フレイアの目に自分の姿が映らない現実が、ずっと怖かった。

 果たしてフレイアは自分の事をどう思っているのか。

 目に見えぬその姿を、頭の中でどう映し出しているのか、考える度に不安に駆られた。


 だから、強く在りたかった。

 強さを誇示したかった。

 目の見えないフレイアの、希望の光でいたかった。


 フェイル=ノート、お前はお前の大切な人の為に戦っていると言った。

 それは立派だ。

 だが、同時に脆くもある。

 自分がそうであったように、戦う理由を他人に委ねれば、いつか何処かで瓦解する。


 理由は幾つあっても良い。

 だが、その中に一つ、大きな柱を作れ。

 そしてそこには他人ではなく、自分の欲求をそのままに刻むと良い。


 最後に自分を支えるのが自分自身ならば、決して倒れはしないだろう。

 支えられる事に、何一つ遠慮が要らないのだから。

 それで結果的に悪の道へ走る者も多いが、お前ならその心配は必要あるまい。


 自分は、お前が妬ましい。


 デュランダル様に目を掛けられたお前が妬ましくて仕方ない。

 あの王宮で飄々と生きられるお前が疎ましくもあった。

 御前試合に出られるお前が心底羨ましい。


 そして、自分はお前に感謝している。


 フレイアに優しく接してくれたお前には随分と助けられていた。

 戦う理由を明かしてくれたのは、同士を得たようで悪い気はしなかった。

 唯一の平等な話し相手となってくれたのもありがたく思っている。

 お前が自分を剣士として認めてくれていたのも、それが自分の思い違いでないのであれば、嬉しかった。


 だから、差し引きひとつだけ。


 ありがとう。



 願わくば。

 この餞別が、友人の一助とならん事を。





 そう。

 これは――――


 友人を侮辱した男を倒す為の戦い。


 最後にそれを心の中に積み上げると、自然と力みが増していた。

 それなのに強張らない。

 ならもうこれでいいと、フェイルはそう確信した。


 様々な想いが渦巻く中、後ろ髪を紐で結い直しながら、入場門が開くのを待つ。


 程なくして――――遮っていた門が鈍い音と共に上部へと消えていった。


 準備は整った。


 全てを賭けて。


 全てを込めて。


 そして、全てを解き放って。


 歓声が高まる中、光に包まれたその場所へ、フェイルは歩みを進めた。



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