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断章:無駄無の弓(9)

 百日という時間は、長いとするには短過ぎ、短いとするには長過ぎる。

 フェイルがそれを実感したのは、その半分の五十日が経過した時点だった。


 毎日が訓練と訓練の往復。

 その日々は確実に、フェイルの身体を蝕んでいた。


 侵され、そして軋まれる。

 まるで自分の体内に雷鳴が轟いているような、奇妙な錯覚さえあった。


 それが果たして、吉と出るのか、凶と出るのか――――


「今のところは、五分五分といったところだな」


 自室で息を切らしながら天井を仰ぐフェイルを眺めつつ、デュランダルは鞘に収まったオプスキュリテを机に乗せ、そう呟いた。


「疲労の蓄積が致命的な怪我を呼び込むか。それとも、肉体の矯正を完遂するか。いずれにせよ、これからも綱渡りの日々が続くだろう。疲労は極力抜いておけよ」


「……あの、全身くまなく筋肉痛なんですけど……これ、大丈夫なんですか……?」


「バランス良く鍛えられている証だ。六分四分に訂正しよう。喜べ、順調だ」


 そんな恩師の到底喜べない発言に、フェイルは起立をもって応えようとしたが、それすらも敵わない。


 弓使いは通常、このように全身が疲労するような鍛錬は行わない。

 それは、接近戦を研究していたフェイルであっても例外ではなかった。


 下半身を強化するだけなら以前からある程度は意識していたが、首の筋肉まで鍛えるよう言われた時は流石に不安を感じずにはいられずにいた。

 それでも、言われた事を忠実にこなし続けているのは、フェイルのデュランダルに対する信頼に他ならない。

 強さを求める姿――――求道者としてのデュランダルは、その国内最高峰と言われる剣の技術以上に、フェイルには鮮烈に映っていた。


「弓兵の訓練も怠らないように。以上だ」


「ご指導……ありがとうございました……」


 這うようにして、副師団長室を出る。

 毎日が痛感との連戦だった。


 自分がどれだけ、緩い日常を過ごしていたか。

 弓矢で接近戦をこなすという考えが、どれだけ甘かったか。


 それを反芻しつつ、重い足取りで射的場へと辿り着く。

 弓兵訓練所とも呼ばれるそこは、毎日多くの弓兵が合同訓練を行う場。

 フェイルにとっては、鬼門ともいえる空間だった。


 だがデュランダルとの約束がある以上、ここに訪れない訳には行かない。

 弓兵としての訓練は、デュランダルに絞られたフェイルの身体を更に絞り上げる。

 終わる頃には心身共にボロ布のような状態で、そのまま眠りに付く日も多い。


「……ご指導、宜しくお願いします」


 そんなフェイルの来訪に、宮廷弓兵団隊長アバリス=ルンメニゲの目がゆっくり動く。

 腕組みをしながら、後輩の構えをチェックするその眼力は、一種独特のものがあった。


「今日も同じだ。中に入って、タイミングを合わせて的を射る。少しでも遅れていると判断したら、外周10週。自己判断だ」


「はい。わかりました……」


 特に首周りを気にしつつ、フェイルは弓兵達の輪の中へと加わる。


「おう。今日も出席か。元気じゃないか」


「……絶対そうは見えてないでしょ」


 先輩達の軽口に半眼で答えつつ、粛々と訓練を行う。


 フェイルの射撃は――――完璧とは程遠かった。

 呼吸を合わせ、同時に射るそのタイミングも、精度も、速度も、全てにおいて他の弓兵に劣っていた。


 それは当然。

 僅かな呼吸の乱れや微かな体調不良が多大な影響を及ぼすほど、射撃とは繊細さを要求される動作。

 今のフェイルに、それを正しく行える要素は何処にもない。

 弓兵としての力量以前の問題だ。


「……外周、行って来ます」


 それでも、フェイルは何一つ不平不満を口にする事なく、弓と矢筒を担いだまま走る。

 走って、走って――――気付けば、日が傾いた空を仰ぎながら黙々と走っていた。


 そして、最後の一周を走り終えたフェイルを待っていたのは、訓練所の壁に揺れる幾つかの炎と、変わらず腕組みしたまま虚空を眺めるアバリスの姿だった。


「……ご指導、ありがとうございました」


 そのアバリスに頭を下げ、帰宅の途につこうと弓を担ぎ直す。


「うぐっ……痛……」


 それだけの所作が、倒れ込みそうになるほどの激痛を首と肩にもたらした。


「残り五十日だ。そのザマでトライデント様と勝負になるのか?」


 そんなフェイルに、唐突な質問が飛んで来る。

 思わず倒れ込みそうになるほど、それは意外な科白だった。


 これまで、アバリスがフェイルに対し御前試合の話題を振って来た事は一度もない。

 関心がないか、自分を差し置いて選ばれた後輩に怒り心頭なのか……それすらも考えられないほど疲弊していたフェイルは、返答に迷い、暫し沈み黙す。


「……現状の技量だと、最高の体調で挑んでも勝ち目はないって、師匠が言っていました」


「デュランダル様がそう言うのなら、間違いあるまい」


 アバリスの言葉に、フェイルは瞼を落とす。

 ただでさえ苦手な相手が、いよいよ牙を剥いて来るのか――――そう思い、身構えようと心を起こしてみたものの、中々奮い立たない。

 それくらい、フェイルは疲れていた。


「腕は順調に伸びているのだから、焦る事はないぞ。残り五十日、根性で耐え切って見せろ。今こそ根性の見せ所だぞ、フェイル=ノート」


 その疲労感が、脱力感へと移行する。


 フェイルは思わず耳を疑った。

 自分の意識が確かなら――――今聞こえたのは、紛れもなく激励の言葉。

 しかも、皮肉や婉曲表現ではなく、真っ直ぐな。


 あり得ない事だった。

 アバリスが上司となってから、そんな言葉をかけられた機会は一度もなかった。

 そして同時に、今の自分の立場上、あり得ない事ではないとも理解した。


「……そうですよね。僕が善戦しないと、この宮廷弓兵団の肩身がますます狭くなりますからね」


「誰がそんな事を気にしろと言った? バカものが」


 が――――その理解も、あっさりと却下されてしまった。

 思わず疲労困憊の身体を引きずるようにして振り向く。


「貴様は、宮廷弓兵団の代表として試合場に立つ。それはつまり、宮廷弓兵団がそこへ立つのと同義。貴様がそこで惨敗を喫したならば、それは宮廷弓兵団が惨敗したのと同じ事……とでも思っているのか」


「ええ。だから激励してくれてるんでしょ?」


 子供めいたフェイルの言葉に、アバリスが大きく嘆息する。

 心底呆れ、そして苦笑を見せていた。


「貴様が敗れたなら、それは弓兵団がそれだけの者しか輩出できなかったというだけの事。我等は結果を受け入れるのみ。貴様は自分の為に戦うのだろう? そのままで良い。余計な事は考えるな」


 いつも大声で怒鳴っていたアバリスの姿からは、想像もつかないような粛然とした雰囲気に、フェイルは思わず息を呑む。


「……えっと、つまり……」


「ただの応援だ。捻くれ者めが」


 そして、ついには疲労の事すら忘れ、視線の所在を探し、キョロキョロと射撃場内を見渡した。

 感情をどう収めていいかわからずに。


「……嫌われてる、って思ってました。あれだけ露骨に避けてたし」



 フェイルは自覚していた。

 自分の行動は、このアバリスをはじめ、宮廷弓兵団全体にとって大きな裏切りであると。


 史上最年少の宮廷弓兵として、高い評価を得ての入隊。

 だがその本人は、団体での訓練に一切の興味を示さず、和を乱し、遠ざけた。


 そして、そんな一匹狼が御前試合の出場者に選ばれた。

 溝は決定的な深さになり、二度と修復できない。


 そう思い込んでいた。

 そうでなければおかしいと、そう確信していた。


「確かに貴様は口も悪いし礼儀もなっていない。栄えあるエチェベリア宮廷弓兵団に相応しいとは言い難い」



 そんなフェイルに、アバリスは優しくも厳しくもなく、話す。


「が、貴様は我等の中の誰より弓を愛している。矢を愛している」


 ただただ、温かく。


「その一点において、皆が貴様を嫌う理由などない。それが弓使いの性だ。違うか?」


「……違いません」


 若干の間は迷いではなく、感情の整理に使った時間。

 何故なら、フェイルもまた、そうだから。


 フェイルもまた――――彼等を嫌いにはなれなかったから。


 誰より弓を、矢を愛する者が、その弓矢を自分の一生の相棒に選んだ人間を、どうして嫌う事が出来るだろうか。


 だからフェイルは困っていた。

 そして悩んでいた。


 仲間がいる。

 同じものを愛した人達がいる。


 そんな居心地の良い場所にいれば、きっと直ぐに堕落してしまう。

 自分を鍛える事を、自分の築くべき姿を、自分の歩むべき道を、忘れてしまう。

 その危機感とのジレンマで、日々苦悩していた。


 だからこそ、距離を置いた。

 嫌われるような発言をした。

 特にこのアバリスに対しては念を入れて。


 けれど――――デュランダルに見抜かれていたように、アバリスにもまた見抜かれていたのかもしれないと、フェイルは率直に思った。


「宮廷弓兵団の代表として、精一杯戦って来い。骨は拾ってやろう」


「拾わせませんよ。代わりに、名誉と誇りをくれてやります」


「フン、ぬかしおるわ」


 残り五十日という節目の日。

 フェイルは一つ、技術や筋力とは違う"心強い力"を得た気がした。



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