断章:無駄無の弓(8)
「それじゃ、暫くは実戦に特化した訓練に励みます。確かに、今のままじゃ勝てないでしょうし」
元々、フェイルは弓矢を接近戦でどう活かすかというテーマで個人訓練を行っていた為、実戦は常に頭に入れて汗を流していた。
今後はそれを更に『御前試合で勝つ事』と狭め、一つの戦いに向けた準備を行う事になる。
技術と実績。
どちらも、フェイルの目標においては必要不可欠だ。
「それで良い。少なくとも、俺を慌てさせるくらいの芸当が出来なければ試合にもならないだろう」
置いていたオプスキュリテを掴み、突然デュランダルが立ち上がる。
そして、その動作と同時にフェイルの喉元にその切っ先を突きつけていた。
「……」
フェイルは――――動けない。
一連の行動の中でデュランダルに殺気がなかったとか、この副師団長室で突然剣先を向けてくるなどまるで想定していなかったとか、師匠と呼ぶ人物から得物を突きつけられるなど予想出来ないとか、そのような理由では決してない。
フェイルは、純粋に動けなかった。
その余りにも完全な、無駄を一切省いた所作に、反応出来なかった。
常識的な速度であれば、例えどれだけ不意を付かれても、自分が何をされようとしているか認識くらいは出来るのだが、それさえも許されない。
人間、余りにも自然な行動に対しては、例え身の危険が迫っていても中々対応出来ないもの。
それを異常な速度で行われたのだから、どうしようもない。
が――――
「トライデントなら反撃を試みようと槍に手を添えただろう」
「……そんなに、差がありますか」
接近戦で弓矢を操る。
そんな戦いをする為に日々技術を磨くフェイルにとって、反応速度は命綱。
接近戦で頼りになるのは、結局のところはそれだ。
僅か一歩や二歩で攻撃範囲内へと入るほどの距離で敵と対峙した場合、重要なのは一瞬でも早く敵より先に動く事。
人間の筋力は、始動してから最大出力に至るまでには、どれだけ瞬発力に優れた者でも数秒は要する。
接近戦において、最大速度で移動する機会は殆どない。
よって、最高出力の大きさは意味を成さない。
重要なのは加速の速度、そして反応速度。
特に、反応は最も大きな意味を持つ。
動き出しがほんの少しでも遅かった場合、それを取り戻す為には相当なスピードの差があり、尚且つある程度の時間が必要。
その間に攻め込まれてしまえば、一巻の終わりだ。
何故なら、フェイルには敵の攻撃を受けられる武器も防具も、そして奇麗に躱せる絶対的な身体能力もない。
ある程度の体力と筋力は有しているが、接近戦のスペシャリスト達を凌駕するには到底至らない。
相手よりも先に動く。
それが何よりも求められる能力となる。
「弓を取れ」
落胆するフェイルに背を向け、デュランダルが平坦な口調で告げる。
「それって……稽古付けてくれるって意味ですか?」
「これから毎日、この時間にここへ来い。無論、弓兵としての訓練もこれまで通りだ。御前試合まであと約百日。一日たりとも穏便に眠れる日はないと覚悟しておけ」
「……わーい。嬉しいな」
棒読み口調で記号の歓喜を口にする。
眼前にいる男を師匠と呼び始め、既に半年が経過しようとしていた。
その間、フェイルはデュランダルから様々な教訓を得ていたが、実際に手合わせを行ったのは初対面時のみ。
当時のデュランダルが全力はおろか、実力の一割も見せていなかったと後に知り、愕然とした瞬間を思い返し――――思わず半眼になる。
その実力差が短期間で埋まる筈もない。
そんな人間から地獄の宣告を受け、素直に喜べる筈もなかった。
「お前の欠点は身体のバランスだ」
一方で、指導者としての彼を知る唯一の人間でもあるフェイルは、その指導力の高さ、的確さについて疑う余地がない事も知っている。
故に、歓喜。
多少複雑ではあるが、強くなる為の最良の道がこれから示されるのだから、嬉しくない筈もない。
「足の爪先を常に意識して動いているのは筋が良い証拠だが……膝の使い方がなっていない。それでは幾ら素早く踏み込めても、その力が膝で磨耗する。それに上半身と下半身の連動もままならない。お前の戦闘スタイルにおいて、それは致命的だ」
「膝ですか……意識してない訳じゃないんですけど」
「論より証拠。扉の前まで下がれ」
デュランダルの言に従い、フェイルは扉のある入り口まで下がる。
この副師団長室は、当然ながら訓練場のような広さはないが、接近戦をレクチャーするだけのスペースは十分にある。
机の前に立つデュランダルと、扉の前に立つフェイルの距離は、約6メロ。
最初に彼と対峙した時より2メロも短い。
遠くにいる筈のデュランダルが、フェイルにはやけに近くに見えた。
「構えは、特にこれというものはない。個々に自分に合った体勢を見つければいい。重要なのは、どんな構えであっても膝で全体のバランスを整える事。例えば右足を前に出し、斜に構えるのであれば……左足の膝を絞り、軸を作る必要がある。このようにな。爪先の位置によって、膝で調整する」
そのデュランダルが実際に言葉通りの構えをし、懇切丁寧に解説をしている。
他人の世話を焼くのが嫌いな人物だけに、かなりの違和感。
だが、同時に新鮮でもあった。
「お前の場合、弓を構えるのが条件に加わる。右手で引くから、左足を前にする前提もあるな。この場合、必然的に両足とも右側に爪先を向ける事になるが、これでは左へ動かざるを得ない時にどうしても溜めが必要になる。それを回避する為には、右の膝を……どうした」
「いえ。別に」
そして、更に――――ある種の懺悔にも似た心持ちもあった。
この国の現在を担う天才剣士の指導。
受けたくても受けられない人間はごまんといる。
その中の一人の顔が、どうしても目の前に浮かんでしまう。
怒っている様子ばかりを目にしていたので、想像に困る事はない。
もし今も彼女が王宮にいれば、かなり近い光景が現実になっていただろう。
そんな彼女が、最後に笑っていた顔を、ふと思い出す。
あれは惜別の笑顔だった。
フェイルは、そう確信した。
既にあの時、もう別れは告げられていたのだと。
『御前試合、頑張ってくれ』
それが、餞の言葉だったのだと――――
「――――……っ」
目の前に突如として現れた剣の切っ先を、背筋の凍るような思いで眺める一方で、先程の自分の愚考を恥じていた。
彼女は、黙って去った訳ではない。
単に自分が気付かなかっただけだ。
「そうだ。右膝を内に絞っていれば、爪先の方向とは違う方向へも瞬時に動ける。その体勢と感覚を忘れるな」
音もなく、瞬きする間もなく踏み込み、両者の間の空間を消したデュランダルは、フェイルの膝を見ながら満足げに呟いた。
フェイルの身体は――――ほんの僅か、左側に傾いていた。
第一歩すら踏み出していない、微かな反応。
誰が背中を押したのかは、火を見るより明らかだった。
「……わかったよ。頑張れば良いんだろ? やってやるよ畜生」
「ん?」
「独り言です。引き続きご指導お願いします」
大きく息を吸って、そして吐いて。
フェイルは親指で一度だけ目尻を払った。




