第3章:メトロ・ノーム(32)
「――――貴族の御嬢様は、アルマさんの所に来ていない。登録をしていない。だよね?」
もしそうなら、彼女に話を聞いた時点で令嬢失踪事件は解決だ。
案の定コクリと頷くアルマを視界の端に納め、フランベルジュは小さく嘆息した。
「そりゃ、そうでしょうよ。家出なんだから、わざわざ身元が割れかねないような事する訳ないじゃない。黙ってるに決まってるでしょ?」
「ところが、ここではその限りじゃない。だよね?」
「かもしれないね。ここは表での身分に関しては、一切問われないからね」
アルマの回答に、ファルシオンも頷く。
つまり、仮にリッツがアルマの元を訪れ、フェイル達のように登記したとしても、そこから身元が割れるような事はない。
身分を問われはしない為、偽名を使えばそれで済む。
逆に、アルマを通さずメトロ・ノームで活動するのは危険だ。
ここには保守派であるシナウトもいるし、アルマに肩入れするバルムンクも出入りしている。
もしメトロ・ノームやアルマに対する不穏因子と判断されれば、襲撃を受ける事にもなりかねない。
「リッツ嬢一人であれば、知らなかったで済む問題です。でも彼女には使用人であり元騎士が付き添っています。鍵の持ち主ならここの事情も把握しているでしょう。敢えて登録をしないという選択肢にメリットはありません」
つまり、リッツがアルマと対面していない時点で、ウォーレンの話は既に胡散臭い。
そして、彼の知人であるアロンソもまた――――
「何か理由があって、嘘を並べ立てたって訳か」
それまでずっと壁際で沈黙を守っていたハルが、ここで口を開いた。
ハルにしてみれば、ギルドの仲間を批難されている状態。
面白い筈がない。
だが――――その顔には険しさなど微塵もなく、寧ろ揚々としている。
「僕はそう判断した」
「私もです。それに、私達が『カシュカシュ』で聞いた証言とも明らかに食い違います。もし使用人の話が本当なら、リッツ嬢が単独で行動する理由はありません。それに、リッツ嬢があの使用人に恋をしているのなら、情報の出所を彼女が明かさないのも行動原則に反していると思います。秘密を共有したがる方が自然です」
妙に乙女心に詳しいファルシオンに、フェイルもフランベルジュも思わず目を丸くして彼女を見る。
「……なんですか。何か変な事を言いましたか?」
「いや……」
「その嬢ちゃんの言う事には一理あるな。恋愛経験豊富な俺が言うんだから間違いない」
不気味な嘘をつくハルに対する反応は、全員冷ややかだった。
「なんで嘘って決め付けた反応なんだよ! 俺って強ぇーし身体も引き締まってるし一緒にいて息が詰まるとかもないから普通にモテるからな!?」
誰からの返事もなかった。
「あーもういいよクソ……で、アロンソの仲間であるところのこの俺に真相を聞きたくて、わざわざここに来たんだな?」
「いや、特には。もう解決してるし」
「何でだよ! 聞けよ! 俺ならお前らの疑問を解消する真実を知ってるだろ! きっとさ!」
被せ気味のフェイルの返答に、剣士は憤慨した。
「何故自分の事に対して観測的表現を使用しているのかはわかりかねますけど、アロンソさんの仲間である貴方が本当の事を話す保障はありませんから」
「要するに、信用ゼロ。当然でしょ?」
女性二名に冷たい目を向けられ、ハルは口元を下げて遺憾の意を示していた。
「……ったく、捻くれた連中だな。ま、確かに話せねー事も多々あるけどよ。基本的には、お前らの考えで間違ってねーよ」
「信憑性もなければ、何の進捗もない発言ね」
「うるせーよ! 人が親切で採点してやったんだから、感謝されはしても罵倒される謂れはねーだろがよ! おいフェイル! お前店員にどんな教育してんだよ? こんな口の悪い店員がいる店に誰が来んだよ。気の弱い奴だったら吐くぞ?」
「誰が吐くって? 人を何だと思ってるの? なんて失礼な男……」
「どのツラ下げて言ってんだテメーは! やんのかコラ!?」
余りに幼い喧嘩が始まったので、他の三名は揃って外へと避難した。
メトロ・ノームの夜は、相変わらず暗い。
余りに暗すぎて、未来さえ見ないほどに。
「改めて言う事でもないのかもしれないけど、不思議な場所だよね、ここ」
地下水路がある以上、その空間に人が住むという発想は、決して突飛ではない。
だが、普段自分達が生活しているその真下に、もう一つの居住空間がある――――そんな真実を目の当りにしても、中々現実味を帯びない。
既に知ってから数日経っているというのに。
人間は見たいものを見て、見たくないものを見ない習慣がある。
これは意思の問題ではなく、その奥にある深層心理の性質。
だから先入観なるものが存在し、それが一定数の客観性を帯びると固定観念として定着する。
「アルマさん。管理人にこう言う事を聞くのは野暮なのかもしれないけど……」
その一つを、疑問として口にするのは失礼に当たらないか、フェイルは迷いながらそう前置きした。
「野暮かどうかは、聞いてから考えるよ」
隣に佇む、独特な雰囲気を持った麗人の答えは、いつだって柔らかい。
フェイルは感謝と共に軽く頷き、率直な疑問を述べる。
それは、恐らくはここへ来た誰もが思う事だった。
「何で、管理人なんてやってるの?」
その問いを受け、ファルシオンもアルマの方へ視線を向ける。
家の明かりが漏れている為、顔の動きがわかる程度の明度はあったが、元々感情を読ませる表情は一切見せない為、そこから意図を読み取る事は出来ない。
フェイルは疑問を続けた。
「能力があるのは、理解してる。きっと貴女にしか出来ないんだろうとも思う。でも、それでも、ずっとこの地下に留まって、人の出入りや夜の訪れを管理するなんて、わざわざやる必要あるのかな、って思って」
ここは、いわば自由都市。
誰かに強制されて何かを行う人間はいない。
フェイルは、アルマ本人に何度もそう聞かされていた。
つまり、管理人との肩書きがあれど、報酬が発生しているかどうかさえもわからないこの役割は、彼女の意思に基づき担われている。
それは何故なのか――――
「あるよ」
絶世の美女はその端整な顔を小さく砕き、首肯した。
「ここは、守らないといけない場所だからね」
「守る……? 誰かが侵略を企てているのですか?」
今度はファルシオンが問いかける。
彼女も彼女なりに、この不思議な地下空間に対して思うところがあったのだろう。
「今のところ、まだその動きはないのかな。でも、これからどうなるかはわからないからね。此方はこのメトロ・ノームが故郷なんだよ。だから、ここは此方が守りたいと思うんだよ」
「故郷……?」
「そのままの意味だよ」
この、青空も雲も、太陽さえも見えない世界が、アルマ=ローランにとっては唯一無二の故郷。
幼き日々の面影が投影された懐慕の情景であり、誰もが追い続け最後まで思いを馳せる灯火。
他人が立ち入るのは容易ではない。
フェイルは――――このメトロ・ノームに何か途方もなく大きな秘密があるのではないかと、そう踏んでいた。
以前アルテタへ赴いた際、流通の皇女スティレットの所有している館は『宝物庫』と形容されていた。
同じような事が、このメトロ・ノームにもあり得るのでは、と。
だからこそ、ここに数多の人材が、勇者リオグランテが吸い寄せられているのでは、と。
だが、それをここで追求する事はフェイルには出来なかった。
故郷を守る――――それ以上に正しい回答は、この世の誰もが持ち合わせてはいないのだから。
秘密は、秘密のまま。
もし必要なら、その時に調べれば良い。
ファルシオンも同じ思いだったのか、或いは空気を読んだのか、追求をする事はなかった。
「……もう、行くのかな?」
星なき夜空を見上げ、アルマがポツリと呟く。
違う空の下へ――――それはフェイルに向けられた言葉だった。
「うん。上に店を構えてるから、そろそろ行かないと。これでも店主なんだ」
「殆どお客のいない、暇がお仕事のお店ですけど」
微笑むでもなく、皮肉めいた口調でもなく、ごく自然なファルシオンの補足に、フェイルは思わず人差し指を曲げ、そのおでこに向けて弾いた。
会心の一撃。
「……痛いです」
「余計な事は言わなくていいの」
そんなやり取りは、数日前まではあり得なかった。
無論、そんな微細な変化など知る由もないアルマは――――
「仲が良いんだね」
先程よりは幾分か大きい声で、そう呟く。
それに対し、若干早口の反応を示したのは――――
「正直、良好と認識した事は一度もありません。寧ろ、アルマさんとフェイルさんの方が明らかに仲睦まじいんじゃないでしょうか?」
二つの尻尾を頭に下げた魔術士だった。
「良いのかな。自分の事は良くわからないよ」
「僕としても、どう答えて良いものか」
アルマの性格は、少ない接点ながらもフェイルの中である程度固まっている。
だが、自分が他の異性と比べ優遇されているとか、親しみを込められている等といった実感はない。
比較対象がバルムンクとハルくらいしかいないので余計に。
そのバルムンクが『アルマはテメェを気に入ったようだ』と発言したのは覚えていたものの、アテになるものでもなかった。
「でも、また来て欲しいな。二人にも、あと……中の……金髪の女の人も」
「二人ほど抜けてるけど……ま、良いか」
取り敢えず、フランベルジュの気遣いがアルマにちゃんと届いていたのは朗報。
フェイルは安堵しつつ頷いた。
「勿論来るよ。約束を果たしに。腕の良い、封術士……だったっけ。それを連れて来て、一日代役を務めて貰うとか、色々方法はある筈だから」
「そうだね。約束は、守って貰えると嬉しいかな。でも、それに拘らなくても別に良いよ。気軽に来てくれると、もっと嬉しいかな」
「了解。打ち合わせもかねて、ちょくちょく顔を出すよ」
そんな二人の会話を――――ファルシオンは暗闇を纏い、静かに聞いていた。
翌日早朝。
「……はぁ。どうして俺、こんなに出会う女出会う女、総じて性格が悪りーんだ。一回腕の良い占い師にでも女運見て貰うしかねーかな……」
まず、ハルが一足先に、嘆息交じりに出発。
フェイル達はそれを特に見送るでもなく、アルマ手作りの朝食と対峙していた。
メトロ・ノームには、基本的に肉類や農作物のような食材を生み出す場所はない。
地上の食材を配達人が直接売りに来る。
アルマの収入源は不明瞭だが、何らかの方法で資金は入手しているらしく、その配達人から仕入れた鳥肉と野菜を中心に作られた豪華絢爛な料理がテーブルに並ぶ。
何種類もの香草と調味料を駆使してソテーにしているらしく、色鮮やかで、香りも豊か。
かなりの力作だ。
「今日でお別れって訳じゃないけど、まだしっかりおもてなしをしてなかったからね。気合を入れて作ってみたよ。上手く出来てると思うんだけど、さっきからずっと睨めっこしたままなのは、やっぱり此方の料理の腕を疑っているから、なのかな」
「そ、そんな事はないのよ。ちょっとホラ、朝にしては重いかなー、とか……じゃなくて! ああもう、頂きます!」
フランベルジュは色々と逃げ道を模索したものの、結局見つけきれず、特攻を選択した。
結果――――
「……」
顔が一瞬で蒼褪める。
心臓を貫かれたか、頸動脈を斬られた人間の顔色だった。
「ど、どうして……? 辛いのに……酷く辛いのに……身体が熱くなるどころか寒気が……こんなの今まで経験した事……ない……私……死んだ……の……?」
「生きてます。ただ、生きているのが不思議な蒼白さです」
「確かに……血も流してないのに、身体がおかしな事になってるね」
怯えた目でガクガクと震えるフランベルジュと、それを迫真の表情で眺めるフェイルとファルシオンの三名を目の当りにしたアルマは、悲しそうに身を縮めていた。
「美味しくなかったんだね」
「そ、そうじゃないのよ……別に不味い訳じゃなくて……なんて言ったらいいのか……辛味と酸味とが鍔迫り合いしてる最中に空から巨大な氷柱が降って来たみたいな……別の世界の天変地異って言うか……」
「……美味しくなかったんだよね」
「そ、それは……」
落ち込むアルマに対して言葉を見つけられず、口の中の味覚も一向に落ち着きを見せず、フランベルジュはかなり焦っていた。
そんな今まさに曰くが付いた料理を、フェイルは何ともなしに口に入れる。
「あれ……? 僕、普通に食べられる。香草が複雑に絡んでて、意外と高等な味付けかも」
「え゛!? どんな味覚してんのよアンタ! 幾らなんでも無理でしょ!? こんな異次元の物が普通とか――――あ」
普通に食事を続けるフェイルの傍らで、アルマは涙を浮かべ、フランベルジュに対して拗ねた目を向けていた。
「……酷いよ」
「ああっ御免なさい! 今のは言葉の綾っていうか……ファル! こんな時のフォローは貴女の仕事でしょ!? どうにかして!」
「無理です。自分でお願いします」
「私がそういうの苦手なの知ってて言ってるのよね!? ああっ、そんな落ち込まないで! 私が悪かったから! いっぱい謝るから、許してってばーーーーっ!」
女性剣士の悲鳴が響く中、ファルシオンがこっそりと口元を緩ませる。
その稀有な瞬間を、フェイルは最後の一口を頬張りながら、苦笑交じりに眺めていた。
陽光のない、そんなとある日の眩しい朝の事。




