第3章:メトロ・ノーム(30)
生物が危機を感じ緊急避難を行う場合、敵に背を向けて敗走する。
それを捻じ曲げたのは、紛れもなく――――接近戦の訓練を繰り返した鍛錬の日々だった。
暴発的な速度で接近するバルムンクに対し踏み込むのは、言うなれば暴走する馬車に正面から飛び込むようなもの。
それは確実に暴挙だが、だからこそ虚を突いた。
が、バルムンクに対して超接近戦で有効となる攻撃をフェイルは持っていない。
選択肢は一つ。
体当たり――――
「……がっ!」
鈍い音と、悲鳴にも似た声がメトロ・ノームの一角に響き渡る。
程なくして、フェイルの身体が宙を這うように飛んだ。
バルムンクは――――上段の構えを瞬時に解いていた。
体勢を低くし半身に構え、肩を突き出し前傾姿勢を保持している。
それは、体当たりに対しての完璧な対応。
より大きな身体での『体当たり』だった。
バルムンクと言えど、超接近状態で鞘に収めたままのデストリュクシオンで有効打を放つのは至難。
フェイルのカウンターとも言える体当たりは、その狙いがあってこそのものだった。
しかし、バルムンクはそれを読み、瞬時に対応した。
奇襲は読まれれば一瞬で悪手。
凡策と化す。
体格差のあるフェイルとバルムンクの正面衝突は、フェイルにとって余りにも分が悪すぎた。
吹き飛ぶフェイルを一瞥し、バルムンクは止めの一撃を加えるべく、下半身に更なる力を加える。
地面に倒れ込んだフェイルまで一気に接近し、腕の一本、或いはどちらかの肩を砕く。
そのような算段を抱いていた
――――が。
「……ぐっ!」
フェイルは倒れ込まなかった。
限界まで崩れた体勢を、それでも一つ一つ、細い糸で繋ぎ合わせるかのようにバランスを整え、地面を何度も何度も爪先や踵で叩き、泳ぐように空気をかいて、そして――――耐えた。
隙が生まれるのを覚悟で倒れないよう歯を食いしばり耐えたのには、相応の理由がある。
一つは当然、バルムンクの追撃へ対応をする為。
そして、もう一つは――――
「それこそ曲芸の域だな。だが無意味だろ?」
鼻で笑い、再び突進を試みようとするバルムンクに向けて、フェイルは瞬時に弓を引いた。
そして躊躇なく矢を放つ。
正面からの、工夫なき射撃。
それは一矢目に放った攻撃と全く同じだった。
ならば当然、当たらない。
「今更こんな……――――」
その筈だった。
少なくとも、バルムンクにとっては。
油断はない。
詰めの一歩手前であっても、その矢に意識を集中させ、確実に剣で払う。
間違いなくそうなるだろう――――と、フェイルは読んでいた。
だからこそ意味があった。
一矢目にも。
そして、二矢目にも。
確実に、意味はあった。
「――――」
暴風の如き脅威を撒き散らしてきた大隊長が、思わず声に詰まる。
まるで時間が止まったかのように、一瞬身体を竦ませ、思考も停滞する。
バルムンクの目の前では、想像もしない事態が起こっていた。
フェイルの放った矢が――――ほんの一瞬、消えた。
ただそれは、消失した訳ではない。
何かがそれを遮った。
上空から落ちてきた"何か"。
それは。
「フザ……けろよテメェ!」
答えをバルムンクは一瞬探した。
探すのを強要されていた。
それが脳の硬直、そして身体の硬直を生んだ。
落ちてきた矢はバルムンクの手前の地面に刺さったが、彼の目の前には瞬時に新たな矢が現れる。
その時には、矢は既に回避不可の地点まで迫っていた。
それでも、ラファイエットを背負う男の身体能力は、鋭い反応をもって眼前の脅威に立ち向かう。
避けられない。
払えない。
それでも――――防ぐ。
「っ……らァ!」
バルムンクは咄嗟に剣の柄頭を使って矢を弾いた。
神業。
そう呼ばれるに相応しい防御法。
流石の剣豪も、その成功には安堵を覚える。
だが――――直ぐにその目は危機感で染まる。
正面にいるフェイルは、もう次の一射を構えていた。
「その防御の仕方は、一回見た」
驚くには値しない。
だから、フェイルは自然な、そして滑らかな予備動作で矢を放っていた。
追撃――――
しかし今度は先程のような『天からの奇襲』はない。
その事実に、バルムンクは一瞬だけ気を緩めた。
それは、先程の柄頭での防御が成功した事に対する安堵が布石になっていた。
全ては繋がっていた。
そう――――全て。
満足の行く弓を作り上げ微笑む、育ての親の姿。
能面のような無表情で、手を差し伸べる騎士の姿。
大きく手を振り見送る、弓兵達の姿。
通り過ぎても尚、支え続けてくれた全ての場面が、一列に繋がっていく。
バルムンクまでの空間を埋めるように。
ここを撃てと言わんばかりに。
この一射。
この一瞬を貫く、その為に――――
「ンだと……!?」
バルムンクが目を見開く。
フェイルの放った矢は――――先程や一矢目より遥かに速い。
これまで見せていない速度だった。
それでも、平常時ならばバルムンクの反応速度の前には無力の筈だった。
だが。
先入観が。
精神の不安定さが。
そして、先程までの矢の速度に慣れた目が。
大隊長を絡め取った。
「……ッ!」
――――風が疾走る。
這うように大地を払い、そして地平線なきこの地下世界を通り抜ける。
矢は。
バルムンクの。
「……」
――――右腕を少し抉る程度に掠め、地面に落ちた。
これだけ積み重ねても尚、直撃は許さない。
バルムンクは紛れもなく怪物だった。
「……」
だが、その怪物は自身の右腕を睨み、険しい顔のまま微動だにしない。
フェイルもまた、動かない。
暫し沈黙が支配し、先にそれを破ったのは――――
「……くく……ははははは!」
バルムンクの笑い声だった。
「やるじゃねぇか。まさか、あの撃ち上げた矢を奇襲に使うたぁ、な」
二矢目の、滑り込みながら射た矢。
それこそが、バルムンクを硬直させた『天からの奇襲』だった。
スライディングしながら射た時点で、その攻撃は紛れもなく奇襲。
その認識が、更なる奇襲への布石となる可能性をバルムンクから奪った。
何より、矢を撃ち上げ、そして再び落ちて来る時間を計算して次以降の射撃と重ねる――――そんな攻撃など想像出来る筈もない。
実際、これを実現する為には途方もない労力がいる。
矢を撃ち上げる高さ、そして放物線を描き落ちてくる速度を完璧に把握しなければならないし、それを可能とするには反復練習によって身体に叩き込む以外にない。
とはいえ、普通はこんな芸当、到底不可能だ。
撃ち上げた矢が最高到達点に到達した瞬間を鷹の目で完璧に視認出来るフェイルだからこそ、矢が落ちて来る瞬間を秒単位で推算出来る。
自分の特性を最大限に生かした、最高峰の奇襲だ。
仮に少しタイミングがズレても、落ちて来る矢が敵の気を逸らせる役割を果たせば問題はないが、バルムンクが相手となると、それだけでは足りない。
落ちてきた矢が、放った矢と重なるくらいでないと、隙は作れない。
そう思ったからこそ、フェイルは無理をして接近戦を試みた。
バルムンクを誘導し、位置関係をコントロールしやすい接近戦を。
自分の持ち得る技術を総動員し、頭をフルに稼動させ、この闘いに挑んでいた。
だが――――
「それでも、掠り傷しか負わせられないんじゃね……」
その戦果は必ずしも上々ではなかった。
「だが、今の矢に毒が塗っていたとしたら、俺は早急に手当しなきゃなんねぇな」
「塗ってないよ。毒は高いから無闇には塗れない」
バルムンクの言葉に、フェイルは正直に返す。
本来ならば、沈黙するなり、不敵な笑みでも零すなりするべき場面。
だが、それは出来なかった。
弓兵として闘ったフェイルには。
それに対し――――
「お前の発言が正しい保証なんて何処にもねぇな。なら俺はここで撤退せざるを得ねぇ。最近は遅効性の毒が安価で出回ってっからな。本来、お前はここで仕留めておいた方が後々良いのかもしれねぇが……俺はここで殺しはしねぇし、くたばる訳にもいかねぇ。手打ちにさせて貰うぜ」
バルムンクは意味深な発言の後、あっさりと撤退を宣言した。
毒への懸念もない訳ではないのだろうが――――それ以上に、この闘いに勝利する必要性を然程感じていないのだろうと、フェイルは邪推していた。
実際、この闘いにおける双方の目的は既に達成されている。
無理に勝敗を決める理由は、最早何処にもない。
「でも、治療だったら施療院に行くつもりなんでしょ? 僕としては、それを止める為に闘ってたつもりなんだけど」
「生憎、ヤブ医者の世話になる気はねぇよ。ギルドに戻れば専属医くらいはいるからな。にしても、最後の矢……目で追うのに精一杯の攻撃なんざ、久々だったぜ。俺が今まで見てきた射手の中でもピカ一だ。次があるなら気をつけねぇとな」
そう屈託なく言い放ち、ラファイエットの大隊長は笑った。
屈辱感など微塵もないその笑顔と、含みを持たせる言葉に、フェイルは思わず顔をしかめる。
元々殺す気はないと明言していたにも拘らず、あれだけの殺気を放った事も、引っかかる部分ではあった。
つまり、まだまだ本気とは程遠く、そして近い将来、本気のバルムンクと闘う事になる――――そんな懸念が渦を巻き、嘆息を禁じ得ない。
「それで……だ。撤退の前に、一つ聞いておきたい事がある」
俯き加減のフェイルに真剣な眼差しを向け、バルムンクが問い掛ける。
「管理人ちゃんは何処に行った? どうも施療院じゃねぇみたいだが」
「……まさか、アロンソ隊が目的なんじゃなくて、アルマさんを追いかけてたの?」
「言っただろうが。アロンソはついでだ。令嬢失踪事件なんざ、俺個人は大して関心ねぇんだよ」
――――つまり。
フェイルは、読み違いでこの化物と戦り合う道を選んでいた。
「……なんだかなあ」
押し寄せてくる脱力感に、大きく息を吐く。
しかしそれだけではない。
時間にして数分の攻防で、体力と精神力が大きく削られている。
「ま、施療院に管理人ちゃんがいたら、そこでお前らの懸念していた事をしたまでよ」
それは――――フェイル達の行動が単なる読み違いではなく、誘導されていた事を意味する。
アロンソの行き先としてファルシオンが明言した『施療院』は、バルムンクの立場からすれば虚言、或いは罠の可能性もあった。
この男を自分達や令嬢から出来るだけ遠ざける為の。
それでもバルムンクが施療院を目指したのは、嘘ではないと確信していたからに他ならない。
ロッジで最後に見せたバルムンクの敵意は、真偽を確かめる為のものだったと今ならフェイルにもわかる。
もし彼を騙していたならば、あの敵意を向けられた時点で身の危険を必要以上に感じ、身構えてしまっただろう。
なら、自分が施療院へ向かえば、アロンソ達と協力関係にあるフェイル達は後を追わざるを得ない。
全てを台無しにするだけの力がこの男にはあるのだから。
そして、その誘導の目的は一つ。
「で、管理人ちゃんは何処にいる?」
フェイル達がアルマを監禁したり、人質にしていたりしないか見定める為だ。
自分がアルマにメロメロなのは既に見せているのだから、バルムンクをどうにかしたいならアルマを人質に取ると考えるのは自然の流れ。
フェイル達が『これ以上自分達の邪魔をするならアルマ=ローランの命の保証はしない』と言い出すか否か。
結局のところ、バルムンクはそれを確かめたかっただけらしい。
フェイルは改めて、目の前の巨大な筋肉の塊が戦闘に特化した存在ではない事を認識した。
同時に、彼のアルマへの想いも重さも。
「アルマさんは、家に帰ってる最中だよ」
少なくとも、アルマに危害を加える人物ではないと判断し、真実を答える。
「護衛はつけてんのか?」
「勇者一行の剣士と、ハルっていうアロンソ隊の剣士が」
「ハル? ああ……ウォレスの野郎か。んじゃ、魔術士の奇襲は心配不要だな」
何故、魔術士限定なのかフェイルにはわからなかったが――――それを聞く空気でもないので、話しておくべき別件を口にする事にした。
「護衛を付ける事が却って危険になるなんて知らなかったんだ。アルマさんに会う機会があったら、僕が謝ってたって言っといてよ」
「あ? 変な事言ってんなよ。危険が伴うにしても、レディを一人で家に帰すなんてのは論外だろうが。何にせよ、その言伝は管理人ちゃんの好感度アップに繋がりかねねぇから却下だ」
意味のわからない理由で、バルムンクはダメ出しした。
「じゃ、自分で言うよ」
「待て。そっちのがアップしそうじゃねぇか。俺が言ってやっから、テメェは言うな」
「……別に良いけどさ。それより、治療は良いの?」
「おっと。そうだった」
バルムンクは、矢の掠めた腕を眺め、苦笑する。
既にその傷口の状態から、ある種の確信を得ている――――そんな顔で。
「ま、何にしても俺は暫く療養だ。令嬢事件はテメェらが解決しときな」
「良いの? アロンソ隊と対立してるんでしょ?」
「ウォレスの連中はいけ好かねぇが、私情でやり合えるほど小さくもねぇ。幾らここが無法地帯だろうがな」
ヴァレロンの二大傭兵ギルドの一つをまとめる矜持が、言葉から滲み出ている。
最早驚くにも値しない、バルムンクの一面だ。
「その代わり、テメェに二つ言っておくぜ。今後アロンソと継続して手を組むのは止めとけ。お前が思っている以上に食えねぇ奴だ」
「……もう一つは?」
「管理人ちゃんに色目使ったら、今度は全力で相手してやっから覚悟しとけ。じゃあな」
フェイルの返事を待つ事もなく、バルムンクは駆け出した。
その足取りはやたら軽い。
「……怪我を口実に、アルマさんに看病して貰うつもりなのかな」
一方、フェイルの方は全身が途方もない疲労感に包まれ、思わず膝に手を置き俯く。
最終的に、バルムンクに受けたダメージは、額を掠めた突きと体当たりのみ。
にも拘らず、あちこちが悲鳴をあげている。
走り込みは毎日行っているが、それでも全盛期ほどの体力はない。
そして何より、体当たりがかなり利いていた。
肩同士のぶつかり合いとなったが、フェイルの左肩はどんどん腫れあがって来ており、明日にはかなり辛い状態になっているだろう。
だが、それ以上にフェイルを蝕んでいるのは、気疲れ。
一つ一つの攻防が命懸けだった。
『試合と殺し合いは、似て非なるものだ。重圧の種類も違う』
そんな師の言葉が脳裏を過ぎる。
紛れもなく正論だったと、ここに来て実感する事が出来た。
果たして意味のある答え合わせだったかどうかは兎も角。
「……ま、いいか」
誰にともなく、フェイルは呟く。
それは長年挑み続けた夢への鎮魂歌でもあった。
時代遅れと揶揄された武器、弓矢の復権――――その夢は二年前、王宮内で打ち砕かれた。
月日は流れ、夢の欠片はフェイルの中で微かに残り続け、その輝きはバルムンクという怪物の目を惹いた。
全てをぶつけた。
命のやり取りではなかったにしろ、手応えはあった。
親代わりの男の為、懸命に修練を重ね、工夫を凝らし、闘ってきた日々に意味はあったのか。
弓を愛し、矢を愛し、それを使う仲間達を愛した日々は報われたのか。
その答えが、蜃気楼くらいには見えた気がした。
「あっちです! あ、いた! フェイルさーん! 援軍連れて来ましたー!」
「……うう」
そして、数人を引き連れ砂煙を立ち上げる勢いで駆けて来る勇者と、その遥か後方で死人のような表情になりながら、それでも一刻も早く駆けつけようと走る魔術士の姿を右目で確認しながら、思う。
夢は潰えても、まだ歩むべき道は残されているのだと。




