第3章:メトロ・ノーム(29)
霧中を切り裂く疾風と化した矢は、寸分の狂いもなく、フェイルの設定した的へと一直線に推進して行く。
だが、それはバルムンクの反射速度を上回るものではない。
「……ほう」
まるで周囲を舞う羽虫を払うかのような所作で、鞘に収めたデストリュクシオンを粗雑に振り回し、矢を弾く。
高速で飛んでくる矢を剣で防ぐなど、一流と言われる剣士ですらそう簡単に出来るものではないが、バルムンクは苦もなく自然な動作で行える。
彼の戦闘能力の一端を表すと共に、二人の実力差を如実に示すやり取りでもあった。
だが、フェイルに焦りの色はないし、バルムンクにも優越感は微塵も出ていない。
どちらにとっても織り込み済みの時間だったからに他ならない。
フェイルにとって、今の攻撃は単なる足止めに過ぎず、バルムンクもそれがわかってて応じただけの事。
暗黙の了解が成立した理由は、バルムンクの好奇心。
それを証明するように、口の端が大きく吊り上がる。
「弓で剣を越える……か。デカイ口叩くだけはあるじゃねぇか。俺のギルドにこれだけ鋭ぇ射手はいやしねぇ」
「随分と説得力のない事を言うね」
そう答えるフェイルの顔には、屈辱感は全くない。
実力に開きのある相手と対峙する経験に関しては、かなり豊富だった。
それ故に、対処法もある程度は確立させている。
実を結ぶだけの実績を積む機会には恵まれなかったが――――それでもフェイルの身体と意識は昔の自分を覚えていた。
格上を敵にした場合、正面衝突で勝てる可能性は皆無。
当然、策を弄する必要がある。
だがその策に定型はない。
重要なのは、敵の戦力を殺ぐ為の行動、その一点だ。
相手に身体的なペナルティを与えられるならば、それが最も有効だが、現実には難しい。
よって精神面に特化せざるを得ない。
油断。
焦燥。
呆れ。
様々な感情の乱れを呼び起こせば、自然と動きを鈍らせる事が出来る。
戦意を鈍らせ、モチベーションを下げられれば尚良し。
道化を演じてでも、その戦果を勝ち取る――――これくらいの覚悟がなければ格上相手には到底勝てない。
だが、それでもまだ机上の空論。
現実に自分より遥か上の実力を持つ敵を相手にするとなると全然足りない。
理想であり必須なのは――――敵の虚を突く一撃。
相手の裏をかき、予想の範囲を超え、意識の外側から攻撃を仕掛ける。
それは単にダメージを与えるだけではなく、精神的な動揺を誘い、警戒心に連動した不安・焦燥の増大にも繋がり、これを連鎖させていく事で敵の戦力を削っていけば、いずれは追いつける。
そしてフェイルは、そのような戦い方を格上だけでなく平常時であっても心がけていた。
暗殺や狙撃ならば一撃必殺が絶対条件だが、接近戦も視野に入れる以上、そこに特化する訳にはいかない。
戦い方は常に一辺倒ではいけないし、いざという時には積み重ねた事しか出てこない。
いつでも格上との戦闘を想定した戦いを心がけなければ、方針が正しくても実践出来ないのが常だ。
「……野郎!」
斯くして、実行に移されたフェイルの行動に、バルムンクは思わず眉をひそめる。
今まで常に崩さずにいた余裕の構えが、微かに崩れた。
理由は明確。
フェイルが自身目掛けて走り出したからに他ならない。
つまり――――突進
弓術を操る男が、剣士である自分へ接近してくる。
この事実一つをとっても、バルムンクの誇りは傷付き、動揺まではいかないまでも平常心を失った。
「上等じゃねぇか!」
それでも、バルムンクの身体が硬直したのはほんの一瞬。
フェイルの接近が不十分な段階で精神は完全に立て直し、迎撃体勢も八割方固まる。
そして、それが十割になった刹那――――フェイルは身体を沈めた。
しゃがんだのではない。
バルムンクの足元へ向けて、足先を向けて滑り込んでいた。
「……へっ」
突然のスライディングに対し、バルムンクはそれでも動じない。
彼の目はフェイルの沈み行く身体を視界から消す事なく、ほぼ中心で捉え続けていた。
そして、その目が突如、見開かれる。
フェイルは地面を滑りながら――――矢を放つ体勢をとっていた。
下半身が使えない、安定もしない、停止状態とは対極の体勢からの"高射"。
だからこそ、バルムンクは驚きを覚えた。
弓を得物とする者にとって最も重要なのは、下半身の安定。
精度も威力も、土台があって初めて成り立つ。
兵法に明るいバルムンクは、なまじその事を知っていただけに虚を突かれ、先程の倍の時間の硬直を生む。
度重なる身体の反射――――自制を失った反応に、流石のバルムンクも肉体と精神のバランスを崩し、体内における命令系統が乱れ、判断力も鈍った。
それは即ち、後手に回る事を意味する。
フェイルの身体は、バルムンクの迎撃を封じ込めたまま足元にまで接近していた。
「こ……の小僧……!」
自身の真下に滑り込んできたフェイルに対し、バルムンクは鞘に収まったままの巨大な剣を振り下ろそうと、右腕を隆起させる。
が――――
その腕が振り上げられる直前、フェイルは地面に躊躇なく肘を叩き付け、弓を引き矢を放った。
上半身のみに頼った射撃。
まして、滑り込みながら。
威力、速度、精度いずれも通常の半分もない。
それでも、バルムンクの額に向けて真下から撃ち上げられた矢は、正確にその箇所目掛け、風を巻き込むように突き進み――――
「――――……っ」
そのまま上空へと飛んで行った。
バルムンクの身体に損傷はない。
外したのではなく、外された。
バルムンクの圧倒的身体能力は、完全に虚を突かれ身を硬直させても尚、完全回避を実現させた。
至近距離からの矢を、皮一枚傷付けず躱しきった。
「曲芸……いや違う」
だが、バルムンクにも余裕はない。
落胆――――はないまでも、滑り込んだ代償で大きく隙の出来ているフェイルに対し、追撃を怠った。
それは余裕から来るものではない。
緊張状態にある身体が、次の動き出しに制限を設けていた。
それを確認しつつ、フェイルは瞬時に立ち上がり、距離を取る。
そのまま、一箇所に留まらずに足と身体を動かし続ける。
バルムンクを中心に、円を描くように。
的を絞らせず、敵からの接近を許さない為の動き。
一対一だからこそ成立するその戦術に対し、先程の攻防で一瞬の興奮状態にあったバルムンクの顔が――――笑みで歪んだ。
「これがお前の闘い方か。こいつぁ驚きだ。一体、何処の世界にいる? 弓を握って、接近戦をやろうってバカが……ふ……ふはははは!」
その笑い声は、嘲笑や苦笑が生み出すものでは決してない。
心の底から湧き出る歓喜が源泉だ。
まるで頂上から眺める雄大な景色を見た登山家のような、開放的でさえある笑い顔だった。
「面白ぇ。その弓で俺の剣を超えられるってんなら、超えてみやがれ!」
言われるまでもない――――心中でそう返事し、フェイルは弓を引く。
同時に、少なからず覚えている戦慄の収め方を必死で模索していた。
――――隙がない。
どれだけ足を動かして背中に回ろうと、まるで当たる気がしない。
バルムンクは、殺気とは全く違う質のものを解き放っていた。
それは、闘気。
相手を殺す事を目的とせず、自身の本能、特に好奇心と歓喜を織り交ぜた心からの衝動に忠実な形で、精神を集中させている。
いうなれば自然体。
だからこそ、野生の動物のような鋭い感覚が備わっていて、どんな攻撃にも対応出来る――――ように、フェイルの目には映っていた。
同時に悟る。
勝負は一瞬。
一つ手を誤れば、自分の無残な姿がこの地に刻まれる。
それ程に膨大な危機感が、フェイルの身体にまとわりつくように漂っている。
身体能力はバルムンクが遥かに上。
大柄であっても、フェイルより俊敏に動けるのは間違いない。
力は雲泥の差。
デストリュクシオンは依然として鞘に収まっているが、もしそれを全力で振り下ろされれば、頭が跡形もなく潰れてしまうだろう。
そんな相手に、弓使いのフェイルが勝算を捻り出すとすれば――――
「!」
その右目が一瞬、上空に向く。
それが"合図"となった。
「死ぬんじゃねぇぞ!」
まるで爆発音にも似た、バルムンクの地面を蹴る音が唸り、一瞬にしてフェイルとの距離を縮める。
直進を避ける為の断続的な横移動も、まるで意味を成さない。
バルムンクの突進は、正確にフェイルの一瞬先の位置に向かっていた。
そこへ吸い込まれるように移動しようとしていたフェイルの身体が、ブレる。
「――――っ」
息を噛み切るようにして、フェイルは――――前進した。
突進してくるバルムンクへ向けて。
だが、今度はバルムンクの顔色は変わらない。
それも予想の範疇と言わんばかりに、口の端を釣り上げたまま、鞘入りの剣を寝かす。
振り下ろすのではなく、薙ぐ。
縦線ではなく横線で捉える為に。
その予備動作に、フェイルは即座に反応した。
そして――――跳ぶ。
「チィッ!」
思い切り膝を曲げ跳躍したフェイルの身体は、綺麗な直線を描いたバルムンクの薙ぎ払いを辛うじてかわした。
その視界に、必要以上に屈めたバルムンクの脚が映る。
もし下に避けていれば、その膝の餌食だっただろう。
着地したフェイルは再度距離を置き、止めていた呼吸を再開する。
綱渡りの攻防だったが、それでも何ひとつ間違いはない。
それだけ力の差がある。
「てっきり、また滑り込むと思ったが……やるじゃねぇか」
「私語が多いね。どうにも」
――――それを声に出す余裕などない。
バルムンクが吐き捨てるような声を出し終える直前、再び地面が砂埃を上げる。
今度は突き。
鞘に収まったままの剣でも、その威力は十分に窺える。
フェイルはバックステップで対応する――――が、想像以上の伸びで迫ってくる鞘の先に、足の運びが間に合わない。
「……つっ!」
それでも、強引に上体を反り、額に掠る程度で抑える。
ただ、その掠った箇所は直ぐに痛みを生じ、まるで焦げたかのように皮膚が爛れた。
「大したモンだ。俺の攻撃をここまで回避したヤツぁ随分と久々だな。それが弓使いなんて、誰が信じる?」
どうにか体勢を整え、目付きを鋭くするフェイルに対し、バルムンクは追撃を行わず、その場に留まり仁王立ちする。
「でも、ま……」
無論、温情でもなければ、一息ついた訳でもない。
「次で終わりだ」
気を入れ替えた――――とでも表現するのが最も相応しい、如実な変化が現れる。
以前、フェイルが見張り塔の上で浴びた膨大な殺気。
それすらも凌駕する、まるで暴風でも巻き起こったかのような錯覚に、フェイルは思わず息を呑む。
一瞬、そこにいるのが本当に人間なのかを疑いたくなるほどに、身体も間違いなく一回り大きくなっていた。
筋肉が軋む音が聞こえてきそうなくらいに膨張し――――デストリュクシオンを握る手が、数多の血管を浮かび上がらせている。
その刹那。
フェイルは、師の姿を思い出していた。
似ても似つかない、剣士としてのタイプもまるで異なるそのフォルムが、今目の前にある殺気の塊と重なる。
エチェベリア国随一の実力を有した騎士と。
フェイルは――――
「……何笑ってやがる?」
そう指摘されるまで、自分の表情の変化に気付いていなかった。
無自覚の笑みは、懐古の念――――ではなく、純粋な歓喜。
ただ、これから始まる戦闘に対する期待や悦楽ではない。
かつて叶わなかった夢の残骸が、心の奥底で薄く、鈍く、それでも確かに輝いている。
その光が、フェイルの右目に宿った。
「面白ぇ。そのクソ度胸……買った!」
瞬間、バルムンクの身体が弾けた。
それまでの動きとは全く異質の速度。
フェイルは――――反応出来ない。
だが、動いていた。
バルムンクの突進に対応した訳ではない。
殺気の感覚が変化した事に危機を察知し、右へと跳んだだけだった。
その身体が僅かに右へズレたその時――――
直前までフェイルの身体があった場所で『爆発』が起こる。
魔術の類ではない。
鞘に収まったデストリュクシオンが、地面に叩き付けられた事で発生した地面の崩壊。
それが巨大な衝突音と衝撃波、そして砂煙を生んだ。
「……っ」
弾け跳ぶ無数の地面の欠片が飛礫となり、フェイルの身体、更には顔面を襲う。
反射運動の発動に伴い、二つの目を瞼が覆った。
その隙を、バルムンクは見逃さない。
時間にして、果たしてどの程度のものなのか。
フェイルの目が再び開いたその時には、バルムンクは既に上段に構え、振り下ろす体勢を完全に整えていた。
その時点で、まるで巨大な鋼鉄の塊が天から降ってきたかのようなとてつもない圧力が、身体に言いようもない圧迫感を与える。
誰もが、それを傍観するしかない。
そんな致命的な光景。
それを視界に納め、フェイルは。
「!」
半ば反射的に――――踏み込んでいた。




