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第3章:メトロ・ノーム(28)

 バルムンクは既に立ち止まっていた。

 かなり前の段階で、接近に気付いていたらしい。

 フェイルが鷹の目で見つけた際に見た地形から、ほんの僅かしか進んでいない。


「……」


 そこには、バルムンクがいた。

 先程ロッジを訪れた剣士ではなく。


 バルムンク=キュピリエが、そこにいた。


「忠告は、したんだがな」


 解き放たれた訳ではない。

 ただ静かに、そこにあった。


 ――――殺気。


 まるで、全く違う別の生き物のように。

 今にも飛び掛って来そうな目で、喉を鳴らしながら睨んでいる獰猛な動物のように。


 その殺気は、フェイルに向けられた。


「……そんな訳にも、いかなくなったんでね」


「だろうな。この十分程度で何があったのか、想像するのは難しくねぇが……俺をアロンソに会わせたくないってんなら、俺にとっちゃ朗報だな」


 一で十を知る。


『ああ見えて頭が回る。厄介な相手なんですよ』


 以前、クラウ=ソラスが呟いた言葉をフェイルは頭痛のように思い出していた。


「で、どうするんだ、小僧。俺を足止めするつもりか?」


「……」


 対峙するだけでも、相当なエネルギーが消費されていく。

 そんな殺気を浴び、リオグランテが萎縮する中、フェイルは冷汗を滲ませながら沈黙を保っていた。


 そして――――程なく、息を切らしたファルシオンが到着する。


「成程。三人掛かりならどうにかなると踏んだか」


 一瞬で。


 呼吸すら出来ないその時間の中で、バルムンクは筋肉を隆起させ、殺気を発散させた。


「……!」


 フェイルは顔をしかめ、リオグランテは後退り、ファルシオンは身を竦ませる。


 その六つの視線の先にいる男は――――更に化けた。


 同じ形をした、別の生物に。


「殺しはしねぇ。俺はこの地で剣を抜かねぇ。だが、この鞘に収まったデストリュクシオンでも、腕の骨くらいなら切断出来るぜ?」


 腰の剣は、いつの間にかバルムンクの手に握られていた。

 言葉の通り、鞘には収まっている。


 が――――


 その迫力は、それなりに名のある傭兵が剣を抜いた際のものよりも遥かに凶悪だった。


「……」


 ファルシオンは唇を噛み締め、タイミングを計っている。

 先程話した『対人封印』の魔術を出力する為の。


「どうにか出来る、とは思ってないけど……こっちにも事情があるんだよね。背は向けられない」


 それを肌で感じつつ、フェイルが言い放つ。

 そして、少しずつ体をずらし始めた。


「どんな事情かは知らねぇが、これ以上シナウトの連中をのさばらせるワケにゃいかねぇんでな。弱い者イジめは趣味じゃねぇが……」


 刹那。

 フェイルの身体とファルシオンの身体が、バルムンクの視線上で重なった。


 ファルシオンの姿が、バルムンクの視界から一瞬消える。


 そして、同時に――――宙を文字が躍った。

 数えるのも億劫になりそうな文字群が、瞬時に現れ、そして消える。


「ほう。オートルーリングか」


 感心するようなバルムンクの声が空気を揺らした次の瞬間、バルムンクの足元に光で構成された円状の紋様が浮かび上がった。

 地面が揺れる。

 そして、直後にその光が分散した。


 数多の光の粒が帯を成し、バルムンクの身体を包み込む。

 複雑な織物を織るように。


「わ、スゴい! ファルシオンさん、こんな魔術使えたんだ!」


 リオグランテの歓喜の声とは裏腹に―――― 


「……そんな」



 魔術を綴った張本人は、声を蒼褪めさせ、指輪を左手で覆った。


「ルーンの誤記……はあり得ない。オートルーリングでそれはない筈……なのに」


 そして、彼女の声に呼応するように、バルムンクを包んでいた光は何の効果も生まずに、空気と同化してしまった。


「魔術士ってなぁ、どいつもコイツも魔術を過信しやがる。確かに便利だがな、所詮は規則で縛られた不自由な力だ。こんだけの事で楽々無効化出来る」


 バルムンクの足元には、鞘入りの剣が付き立てられていた。

 抜き身の刃ではなく、鞘のままにめり込むその情景は、異様の一言だ。


「魔術の発生を物理的干渉で封じた……?」


 魔術は、魔力に物理的な力を与える施術、とも言える。 

 だからこそ人間の身体に直接関与し、ダメージが与えられる。


 逆に言えば、魔術に対して肉体で干渉する事も当然可能。

 例えば、武器を使って魔術を打ち落とす、などという離れ業も理論上は可能だ。


 が――――普通は出来ない。

 相手がどんな魔術を使うかわからない状況で、正確にその魔術に対しての対応を行うのは極めて困難。

 まして、術が形になる前を狙い、それを潰すとなると――――不可能と限りなく近い位置にある。


 バルムンクは、それを涼しい顔で実行した。

 魔術士にとって、これほど屈辱的な事はない。


 これほど、絶望的な事は――――ない。


「……」


「甘く見てたな、嬢ちゃん。世の中には魔術でどうにもならない事はごまんとある。良い勉強になったと思って、引き返しな。女をいたぶる甚振る趣味はねぇ」


「嘘だ! この前、おばあさんに謝らなかったじゃないかっ!」


 沈黙するファルシオンの代わりに、リオグランテが吠える。

 勇者には数多の条件があるが、その中でも最も前方に来る条件があるとすれば、それは――――勇気。

 勇気を持つ者だけが誇れる称号だ。


「ガキ。良い事を教えてやろう。自分が見たままの情報が、必ずしも自分が思っている情報と重なるとは限らねぇ。ここは、それを学ぶ良い場所だ」


「……?」


 バルムンクの言葉を理解出来ないまま、それでも精一杯の虚勢の表情を浮かべる為、リオグランテは歯を食いしばる。

 けれど、その意地は危険水域に達しつつある。

 それ以上戦闘態勢を作れば、待っているのは――――


「そして、もう一つ。このメトロ・ノーム、そしてヴァレロンで生活をするのなら、この俺に歯向かわない事。それを身体で覚えさせてやろう」


 その言葉を聞き終える直前、リオグランテは瞬きをした。

 瞼が目を覆う時間は、果たしてどれ程なのか。


「――――!?」


 再び瞼が開いた時には、バルムンクの身体はリオグランテの眼前にまで迫っていた。

 その移動により生じた空圧が、リオグランテを襲う。


 が、それ以上の攻撃はなかった。


 正確には――――止まった。


 あの、限りなく微小な時間の最中、一人だけが対応をしていた。


「……だろうな。テメェだろう、やるとすれば」


 バルムンクは何処か嬉しげに呟く。

 そして、その左手には――――矢が握られていた。


 ファルシオンは普段決して浮かべない冷や汗を頬に伝わせ、ただじっと見ている。

 全く気付かない内に、弓を引いていた薬草士の姿を。


「俺に反抗出来るのは、テメェだけだ。小僧」


「……」 


 フェイルもまた滲ませていた冷汗を、親指で弾いて小さく息を吐く。


 そして――――


「さっきまで、僕達が走っていた方向。その延長線上に施療院はある。二人とも、先にそっちへ向かって」


「え?」


 ファルシオンとリオグランテに対し、具体性のある指示を出した。


「早く。今なら大丈夫。僕がここにいる限りは、彼も僕に背は向けない」


 そのフェイルの言葉に対し、暫し二人は反応出来ずにいた。

 意味を理解するのに時間が掛かったのは、それが途方もない事だったから。


 無理もない話ではある。

 この、人智を超越した化物を相手に、一人で時間稼ぎをすると宣言したのだから。


「……人数を減らすのは得策ではありません」


「そうですよ! 僕達も闘います!」


 だが、二人はそれを拒否した。


 そこに、計算や奸智が入り込む余地はない。

 自分、そして他の二人。

 それを脅かす脅威に対し、立ち向かう。


 絶望の中には希望はない。

 ただ、そこには奇妙な連携意識があった。

 そして、もっと奇妙な――――仲間意識があった。


「良いから、行って」


 道理で、この方法を選択した筈だ――――そんな事を思い、フェイルは苦笑する。


 色々と理屈をこねていた。

 その結果、バルムンクを放置する安全策を捨て、ここに来た。

 結局のところ、その最大の理由は『勇者一行と共にこの件を解決したい』などという青臭い願いだったのかもしれない――――そんな分析を自分自身にして、フェイルは視線をファルシオンに向けた。


 敢えて、彼女に。 


「……わかりました」


 暫時の後、ファルシオンは頷く。


「直ぐにアロンソ隊の方々を連れて来ます。それまで無事でいて下さい。必ず」


「えっ……? ファルさん?」


「私達では足手まといなんです、きっと。リオ、私達に出来る事をしましょう」


 ファルシオンは躊躇なく走り出した。

 それもまた、信頼の証。

 自分達を一瞬で殺せる強大にして凶悪な剣士に対し、背を向ける――――信頼。


「……」


 一方、リオグランテは難しい表情のまま、何度かフェイルとファルシオンの背中を交互に見て、苦悩したのち――――その後を追う勇気を選択した。


「随分と甘く見られたもんだ。俺も」


 二人の逃亡劇を一部始終眺めつつ、バルムンクが嘆息する。

 呟いた言葉は、一人残ったフェイルに向けられたもの――――


「アロンソ程度が駆けつけたくらいでどうにかなる、って思われるたぁな」


 ――――ではなく、独白だった。


 しかし、それもその一言のみ。

 直ぐにフェイルの方へと鈍色の意識を向ける。


「さて……小僧。テメェが五体満足でここを切り抜ける方法を、二つ教えてやる。一つは全面降伏して、ウチのギルドへ加入だ。俺の隊に入れ。給料は……ま、新入りとしては上等な額を用意してやらぁ」


「もう一つは?」


 にべもなく、フェイルは質問を投げた。

 が、気にも留められず、答えは返る。


「アルマに二度と関わるな」


 その時――――バルムンクは初めてアルマをそう呼んだ。


「随分と狭量だね」


「逆だ。どんな理由かは知らねぇが……アルマはテメェを気に入ったみてぇだ。だから忠告してやってる」


 気に入られた実感はまるでなかったが、フェイルはそのバルムンクの言葉が虚実であるようには感じられなかった。


 だからこそ、明確に拒絶する。

 首を横に振り、それを伝えた。


「……そうか。残念だ」


「約束してるんで。彼女に星空を見せるって」


「そいつは二度と叶わねぇ」


 バルムンクの柄を握る手に、力が篭る。

 今まで彼を取り囲んでいた膨大な殺気が、更に変質した。


 空気が殺気で押され、圧縮されていく。

 それが、はっきり感じ取れる。


 同時に、フェイルは確信した。


 眠れる獅子を起こした今、後戻りは出来ない。

 闘うしかない。

 エチェベリア随一の剣士と闘って、切り抜けるしかない。


 自分の武器である弓矢をもって、その剣を叩き伏せなくてはならない。


 だから。

 だからこそ――――


「叶うよ。信じ続ければ」


 だからこそ、思う。


 自分は。


 フェイル=ノートは。


 ともすれば、この日のこの時間の為に信じ続けたのかもしれない、と。


 あの日々を乗り越え、それでも尚信じ続けたのかもしれないと。


「弓で、剣を越える事も……」


 矢を番える右手からは、止め処なく流れる。


 汗ではなく。


 力が。


 活力が。


 蓄積が。


 そして――――期待が。


「きっと」


 フェイルは、煌めくほど静かな心で両目を見開き。


 顎を引き。


 弓を引き。


 右腕を漲らせ。


 右手を離し。



「出来る」





 矢を、放った。

 


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