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第3章:メトロ・ノーム(9)

「……え?」


 暗闇の中で光る二つの目に、フェイルの顔から汗が噴き出る。

 一方、その目の持ち主は、鼻息荒くフェイルの顔を凝視し――――


「ピキーッ!」


 敵と判断したのか、奇声を発して飛び付いて来た!


「うぉあっ!?」


 慌てて首を引っ込め、辛うじてその突進を回避するも、身体のバランスが著しく崩れ、左手が格から外れる。

 そのまま体重が大きく左に傾き――――左足まで滑り落ちる。


「うわわわわっ!」


 そして、右手に掛かる負荷が限界値を超え、ついには右足だけが格に引っかかった状態になり、必然的に身体が後ろ側に傾いて行く。


「……だーーーーーーーっ!」


 一瞬の英断。


 右足が離れる前に、フェイルは足に力をこめ、格を蹴り――――後ろへ跳んだ。


 もしこれが崖だったら、完全に自殺行為。

 しかしここは、崖ではなく塔の中。

 フェイルの後ろには壁が存在している。


 その壁が背中に触れる刹那、今度は左足の裏と両手で思い切り壁を押す。

 壁に叩き付けられた格好なので、当然のようにくまなく衝撃が走るが、少し落ちながらも前進する力が加わり、フェイルの身体は格の並ぶ壁の方へと突っ込んで――――


 どうにか格を手で掴む事に成功した。


「……あっ……ぶな」


 全身が冷える中、肩で息をしながら、今度は右目を瞑りながら頭を進入させる。

 先程とは打って変わり、明るい視界が広がる中には――――鼠と呼ばれる小動物がいた。

 外見は結構可愛らしいが、衛生面で大きな問題があり、尻尾も余り可愛くないため、女性からの支持は得られていない。


 そんな鼠が大量にいた。

 足の踏み場もない程の、鼠の集団だ。

 フェイルの頭は、掌大ほどの大きさの齧歯類に包囲されていた。


「……ふかーっ!」


 猫の物真似で威嚇すると、一目散に逃げていく。


 所詮は小動物。

 そう嘯きつつも、フェイルは寿命が一年ほど縮んだような心持ちで呼吸を整え、身体を上部へと引き上げた。


 そこは――――倉庫だった。


 場所の特定は不可能だが、高さを考慮すると地上の施設である可能性が高い。

 この塔は、幾つかある地上と地下、ヴァレロンとメトロ・ノームを繋ぐ階段の一つという事になる。


「……」


 そんなフェイルの大騒動を尻目に、アルマはスッと上がって来た。

 杖は持ってきていない。

 何度も行き来しているのか、涼しい顔で身体を持ち上げ、倉庫内へ入り、フェイルが除けた石板で入り口を塞ぐ。


「つ、疲れてないの?」


 首肯。

 か細い身体の女性に驚愕を禁じえず、フェイルは半眼で嘆息した。


 そんな虚弱な男性を不思議そうな顔で暫く眺めていたアルマは、不意に視線を切り、倉庫の奥にある扉を開く。

 その足元で鼠やそれ以外の何かがカサコソ動き回っているが、当の本人は特に気にする様子もなく、歩を進めていた。


 扉の先は、また階段。

 ただし、今回は螺旋階段になっており、フェイルがメトロ・ノームへと訪れた際の物とは異なっている。


「……ここ、何処なんですか?」


 思わず口にした質問。

 しかし、それに対する回答はない。


 フェイルは階段を上りながら暫し考え、別の質問を試みた。


「ここって、公共の施設?」


 アルマは歩きながら、首をブンブン横に振る。

 つまり、個人の所有という事らしい。


 質問を絞る事は出来るが、あと少し階段を上れば答えが明らかになるので、フェイルは敢えて口を閉ざし、歩く事に集中した。

 そして、暫く階段を上った後、階段の終点へと到着する。


 何もない、階段の入り口だけの部屋。

 その入り口となる扉の前に立ち、アルマは左手の指をかざした。

 先程の杖とは違う魔具らしい。


 今度はオートルーリングではなく、幾つかの文字を全部自分の手で綴っていた。

 その速度はお世辞にも早いとは言えないが、細く長い指がしなやかに宙を踊る様は、芸術然とした美しさすら見える。


「……」


 程なくして、扉が開く。

 今度は階段はなく、同じ高さのフロアに出た。


 そこは――――廊下だった。


 石造りの壁と、赤い絨毯が敷かれた床。

 置物や絵画などはなく、無骨な印象を受ける。


 窓はあるもののガラスではなく、山羊の角で作った板で覆われている。

 そして、壁の到るところに、剣と槍を交差したエンブレムのようなものが飾られていた。


 フェイルの頭の中には、その光景は記録されていない。

 ただ、そこが何の施設なのかは、ある程度理解できた。


「ギルド……?」


 フェイルの問いに、アルマはしっかりと頷いてみせる。

 ここは、ヴァレロンの何処かにあるギルドのようだ。

 地下では方角もわからずに歩き回っていたので、この場がどのギルドに該当するかはわからない。


 緊張の面持ちで辺りを見回すフェイルに対し、アルマは視線で行き先を促し、その方向へと向かう。


 通常、ギルドには多くのギルド員が闊歩しているのだが、この廊下には全く人気がない。

 つまり、このフロアは一般のギルド員が立ち入り出来ない、特別なフロアだと推察出来る。

 今から会うのがメトロ・ノーム内における『お偉いさん』だとしたら、ギルドにおいても高い地位にいる人物の可能性が濃厚だ。


「……」


 嫌な予感を覚えるフェイルを背に、平素の歩行速度で身を進めていたアルマは、突き当たりにある扉の前で足を止め、フェイルがそこまで着くのを待ち、控えめにノックをした。


「や、どうぞどうぞ」


 聞き覚えのある声ではなかったが、その露骨に軽い返事が聞こえた瞬間、フェイルは嫌な予感が的中したと確信し、思わず左手で顔を覆う。

 そんなフェイルの様子に小首を傾げつつ、アルマは静かに扉を開けた。


「おろ? アルマちゃんじゃないの。久し振りだネー。元気だった?」


 余りに気さくな声が軽やかに舞う中、アルマに続いてフェイルも入室。

 そこには――――タレ目の男がいた。

 三白眼で、髪の毛がボサボサなその姿は、一見すると到底高い地位にいる人間には見えない。


 しかし、室内を見れば、それが誤りであるのは一目瞭然。

 無駄に高級な大理石造りの机や、壁を飾る鹿の剥製などが、それを主張していた。


「……」


 アルマはそんな部屋を見渡しもせず、半眼で部屋の主を一瞥し、フェイルの入室にあわせて身体を横へずらした。


「ああ、もしかして紹介? またメトロ・ノームの住人が増えたのネー。なんだ、どうせなら理由もなく遊びに来てくれた、って方が嬉しかったのにナー、俺としては」


 軽薄な言葉が宙を舞う中、フェイルも訝しげな目を向ける。

 そんなフェイルと、部屋主の男の視線が合い――――男が不敵に笑む。


「あれ? もしかして君、フェイル=ノート?」


「ええ。ったく……どいつもこいつも」


 後半は声を抑え、悪態を吐く。

 自分の知らない人間が自分の名前や素性を知っているというのは、決して気持ちの良いものではない。


「あー、やっぱりそっか。君、最近けっこう話題になってるよ。ほー、君がネー」


 まして、露骨に値踏みするような見方をされれば、自然と居心地は悪くなる。

 

「ま、いいや。取り敢えず、挨拶しておこうか」


 部屋の主は笑みをそのままに、腰掛けていた椅子から身体を離して立ち上がり、ゆっくりと近付いて来た。


 かなりの高身長。

 フェイルが今まで見てきたどんな人間より。

 フェイルより頭一つ以上は高い。


 その一方で、身体は驚くほど細身だった。


「諜報ギルド【ウエスト】ヴァレロン支部、支隊長代理のデル=グランライン。宜しくネ、フェイル君」


 緩やかな動作で握手を求めてくるその細い手に、フェイルは愛想笑いを浮かべるのも忘れ、惚けたままその手を握る。

 握手を交わすのは王宮時代に何度も行ったが、結局慣れはしなかった。


「早速だけど、本題に入らせてネ。失礼かもしれないけど、俺も忙しい身なんだヨ」

 

 デル=グランラインと名乗った男の口調は、飄々とはしているものの、眼前のフェイルへの最低限の敬意は保っていた。

 その目尻の沈んだ目は、人を嘲弄する類の光を発してはいない。

 実際、諜報ギルドであるウエストの支隊長代理であれば、時間に終われる生活は寧ろ必然だ。


 ただ、フェイルには解せない事があった。


「本題……?」


 ここへ連れて来られたのは『紹介』という名目。

 それがただの顔見世であれば、もう本題は終わっている。


 つまり、ここで連行された理由が他にある。

 例えば、メトロ・ノームの住人となる為には何らかの条件が必要で、これからその条件を提示される――――


「あれ? 聞かされてない?」


「いや、何も話してくれないんで」


 困り顔でアルマの方に視線を送るフェイルに対し、デルは露骨な苦笑を作っていた。


「今のアルマちゃんは話さないよ。そちらさんを地下に案内した人から何も聞いていないカナ?」


「香水店の代表の女性ですか? いえ、特に何も……」


「ん~……そ。聞かされてない。んじゃ仕方ない。手短に説明しようか」


 特に不満を顔に出す事なく、デルは早口で捲くし立てて来る。

 一方のフェイルは全く話が見えず、ただただ困惑していた。



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