第3章:メトロ・ノーム(7)
その中は、一言で言い表すと――――質素。
家具も最小限のものしかなく、客間と思しき空間にも椅子とテーブルがあるのみ。
唯一、その客間にあるタペストリーだけが異彩を放っている。
草花を表していると思しき模様が、緑色と黄色で表現されている厚手の布は、まるで砂漠に咲く可憐な花のような存在感があった。
「……」
その家の主は、特にお茶を入れたりもてなしをしたりする素振りは見せず、収納カゴの中をゴソゴソと漁っている。
とてつもない美貌を供えた女性だが、態度や行動はどうにも庶民的――――というより子供っぽい。
マロウはそんなアルマを笑顔で眺めながら、勝手に椅子へと腰掛けていた。
「貴方も座って。これから登記をして貰いますから」
「……登記って権利関係の公示ですよね。僕の何の権利を公にするんですか?」
今ひとつこの一連の行動を把握し切れていないフェイルは、言われた通りマロウの正面に腰掛け、想った事をそのまま口にする。
薬草店を構えた経緯から、不動産登記については実感の伴う形で理解はしていた。
勿論、今ここでそれを再度行う筈もない。
「ああ、登記って言っても別に法律が絡むものじゃないの。このメトロ・ノームに入る権利……登録と言った方がわかりやすいか。役員になるみたいな感じ。このメトロ・ノームはね、彼女の許可がないと入れないの。物理的に」
「物理的……?」
「より正確には『封術的に』なんだけど。この地下街に誰かが侵入すると、彼女にはそれがわかる。もしメトロ・ノームへ通じる扉に施された封術が第三者によって解かれたら、それを感じ取る事が出来るんです」
魔術に対してはある程度の造詣しかないフェイルにとって、そのような技能は全くの初耳だった。
だとしたら――――このメトロ・ノームに誰かが侵入する度にアルマはそれを感知し、対処が必要ならそれを行っている。
まさに管理人の仕事。
これ以上ない管理体制だ。
「ここに入る前、二つの扉を通過したでしょう? その内の最初の扉は、通常の封術で封印されている扉。そして、階段を下りた所にあった扉が、彼女……アルマ=ローランの封術によって閉じられているんです。そして、錠前に使ったこの鍵が、封術を解く為のアイテム。特別製の、ね」
マロウは得意げに鍵を掲げてみせる。
何の変哲もない、何処にでもありそうな鍵。
それはごく普通の、銅製の鍵のようにフェイルには見えた。
そもそも、通常は封術を鍵で解く事はない。
それなら施錠した方がよほど建設的だ。
だが、アルマの場合は封術を感知の為に用いている。
それなら、通常の施錠とは明らかに異なり、差別化出来ている。
鍵を解術代わりに使用するデメリットも特にないのだから、問題はない。
「……」
思案顔でマロウの鍵を暫し眺めていたフェイルに、いつの間にかアルマが隣接していた。
全く思考が読めない表情。
無――――ではないが、それが何の感情を示しているか、まるでわからない。
勿論笑ってはいないが、怒っている様子もなく、どちらかと言えば不機嫌に見えるが、険が表に出ている訳でもない。
人間が何も考えず他人と接すると、このような表情になるのかもしれない――――フェイルはふと悟りを開いたような心持ちになり、アルマから目が離せない自分を正当化していた。
「……」
そんなフェイルに、アルマは無言で鍵を差し出す。
マロウが持っていた物と全く同じ。
ただ、よく見ると――――鍵の胴の部分に【118】という数字が刻まれている。
「その鍵にはシリアルナンバーが記されています。それが貴方の番号。このメトロ・ノームに出入りする事を許された順番なんです」
管理人であるアルマは、その頭数には入らないだろう。
つまりこの地下街には最大で119人の人間が出入りする事を許されているらしい。
それが多いのか少ないのか、フェイルにはわからなかった。
「……これで登録は完了、なんですか?」
「後は名前を名簿に記すだけ。よね? アルマ」
名を呼ばれた婉美なる女性は、たおやかさなど微塵もない仕草でコクリと頷いてみせた。
その手には、既に名簿と思しき帳簿が持たれている。
自分で記帳しろ、と暗に示しているとフェイルは思ったものの、それを促す挙動が一切見られないので、若干混乱を来していた。
「取り敢えず、今日出来るのはここまでですね。契約は詳細が煮詰まった後、正式にここで行いましょう」
「あの、その件なんですが……どうして、契約をここで? そもそもなし崩しの内に来てしまいましたけど、僕がこの地下街に出入りする事に問題はないんでしょうか……?」
何か巨大な流れに心ならずも巻き込まれているような感覚が、ずっとフェイルの中にはある。
同時に、ここへ自分を連れて来た女性に対しても、少なからず疑惑の念を抱いている。
それを暗に仄めかしたフェイルに対し、マロウは静かに微笑んだ。
「ここで契約をするのは私の都合です。先程の重複になりますが、この地は表の世界のあらゆる立場を放棄出来る場所。そこで契約を交わすのは、お互いの立場に関係なく一人の人間同士で約束を交わす事を意味します。それを私が望んでいるからです」
その回答は、フェイルを満足させるには至らない。
確かに聞こえは良い。
フラットな関係で契約を交わしたいと願う姿勢には、誠実さを感じそうにもなる。
ただ、人間同士であるのならば、そこには必ず序列が生まれる。
人気香水店と不人気薬草店、そんなお互いのステータスを除外しても、そこには提案をした者、受けた者の序列がある。
ならば、フラットとは到底言い難い。
マロウの言葉には余り説得力がなかった。
ただ――――個人的な理由と言われてしまった以上、フェイルもそれ以上食い下がる訳にはいかない。
ある意味、上手い躱し方だった。
「そして、貴方の登録が問題となるか否か、ですが……それを決めるのは私ではなくアルマです。登録に関しては、管理人である彼女にのみその権限があります。私は紹介しただけに過ぎません」
その回答を受け、フェイルは視線をアルマに移す。
「……」
特に目立った反応はなし。
注視の結果、問題はないと判断した――――そんな素振りさえない。
非常に厄介な女性だと、フェイルは嘆息しそうな心持ちになりながらも、どうにかその衝動を抑えた。
「わかりました。では、その登録をさせて下さい」
得体の知れない地下街の会員のようなものになる事に対し、抵抗がない訳ではない。
とはいえ、それを断れば契約自体が御破算となるだろう。
そうなれば、薬草店【ノート】に未来はない。
あらゆる不純物を呑み込んで、静かに頷くしかなかった。
「……」
するとようやく、アルマが動く。
テーブルに帳簿を広げ、そして――――
「……」
固まる。
凝固時間は十秒を越えた。
「……羽ペン、なくしたの?」
マロウの困惑気味の声に、アルマはコクンと頷く。
何気に頬を紅潮させていた。
「私も持ってないのよね……誰かに借りてくるしかないんじゃないかしら」
「誰か近くにいるんですか?」
建築物らしき物は周囲に一切ない。
フェイルの素朴な疑問に、マロウは首を傾げた。
「このメトロ・ノームは基本的に居住地はないのよね。管理人の彼女が家を構えている以外では、殆ど決まった民家はないんじゃないでしょうか」
「それじゃ、記帳できないですね」
「……」
ここは地下なので風が吹く筈もないのだが、三人は野ざらしの中で寒風に晒されているような心持ちを共有した。
「そ……それじゃ後は若い二人に任せて、私は退散しましょう。これから別件で打ち合わせがあるんです。フェイルさん、取り敢えずアイディアがまとまったらもう一度訪ねて来て下さい」
逃げるように――――と表現するまでもなく明らかに逃避の様相を呈し、マロウが家を出て行く。
「ちょっ、マロウさ……!」
帰り道をちゃんと覚えていないフェイルは必死に制止しようと試みたが、既にその対象は呼び止められる距離にはいなかった。
心境としては、知らない街の広場に捨てられた仔犬。
「……」
そして、その広場には毛並みの抜群に良い猫がいる。
そんな感覚だった。
「あの、どうすれば良いんでしょう」
犬が猫に聞く。
意思の疎通が出来るかどうか、相当に怪しい。
「……」
そんな困り果てたフェイルに対し――――アルマは帳簿を閉じ、いそいそとそれを仕舞いだした。
押し寄せてくるのは当然、猛烈な不安。
勇者一行に一晩店を任せるのと同じくらいの、かなり大規模な不安だった。
そもそも、無口なだけというマロウの説明もかなり怪しい。
フェイルは未だ、アルマの声すら聞いていないのだから。
それは最早、無口の範疇ではない。
ただ、視線や行動を見る限り、嫌われているような素振りも特にない。
貴方となんて一言だって会話したくない、などという強烈な敵意を抱いているとも到底思えない。
香水店【パルファン】を訪れて以降、不可解な事ばかり。
ストレスは溜まる一方だ。
「……フェイル=ノート」
――――しかし、それは突然訪れた。
ずっと一言も発していなかったアルマが、ここに来て何の前触れなくその第一声を発した。
非常にか弱い、小さな声。
ただ、それはとても澄んだ声だった。
「う、うん。僕の名前はそれで合ってるよ」
何となく得した気分になり、フェイルは少し高揚した心持ちで声を張る。
ただ、後続がない。
とはいえ、このまま沈黙する訳には行かず――――
「……えっと、もしかして『後で登録しておくから大丈夫』とか、そんな感じの事を言いたい……のかな?」
推測に基づく発言で、対応を待つ事にした。
「……」
その細い首が縦に振られる。
フェイルの見解は正しかった。
それは単に彼女の意向を酌み取った事に留まらない。
この方法こそが、彼女と意思疎通する為の最善策なのだと悟った。
「……」
不思議な満足感が生まれ、自然と苦笑するフェイルに対し、アルマは表現し辛い表情のまま、じっとフェイルの顔を眺めている。
「な、何? もう用は済んだんだから出て行け、って言いたいのかな」
「……」
今度は横への首振り。
まだ何か用件がある、と言いたいらしい。
そして、今度は別の部屋へと移動し、またゴソゴソと棚を漁りだす。
その様子を眺めながら、フェイルは――――幼少期の事を思い出していた。
子供の頃、シュロスベリー家で遊んでいた時の事。
アニスはよく色々な物を拾って来ては、自室の豪華な箱にそれらの物を入れていた。
曰く――――
『これ、全部私の宝物なんだから! 勝手に見たら灰色の果実を食べさせるからね!』
新鮮な状態で灰色の果物などこの世にあるとは思えないだけに、かなり怖いお仕置き。
フェイルは結局、その中身を知る機会を得ないまま、一旦街を離れた。
あの箱には、一体何が入っていたのか――――
「……」
「わっ!?」
回想は強制終了。
気付けば、アルマが再接近していた。
そして今度は――――妙な杖を手にしている。
やけに長い。
杖の役割上、通常は人間の背丈よりは少し短いくらいの長さなのだが、アルマの持ってきた杖はその倍近くはある。
天井に届く位の長さだ。
そして、その先端には何らかの紋様を施した装飾がなされていた。
よく見るとそれは、タペストリーと同じく、草花をモチーフにしている。
「これを……どうするの?」
そう問い掛けたフェイルは、それが誤りだと直ぐに気付き、質問を変える。
「これ、天井裏に入る入り口を開けたりする道具……とか?」
具体的な質問をして、その反応で行動を知る。
当面、アルマに対する接し方はそれしかないと割り切るしかない。
「……」
幸い、アルマは首を横に振って意思を示した。
推測が誤りだったのは特に問題ない。
何かを問い掛ければ、彼女は必ず正解か不正解かの判定をしてくれる。
まるで、これからすべき行動のヒントを与えているかのように。
「だったら、家の中じゃなくて外で何かをする為の道具……とか」
「……」
今度は直ぐに頷いた。
そして長い杖を抱えたまま、アルマは次の行動に移る。
フェイルに付いてくるよう促す素振りもなく、部屋を出て、そのまま家を出た。
そんなアルマを、フェイルは決して小さくない好奇心を原動力にし、慌てて追った。




