第3章:メトロ・ノーム(5)
マロウの導くまま、応接間の更に奥へと進むと、下へと降りる階段があった。
通路へ繋がっている訳ではなかったらしく、程なくして地下倉庫らしき場所へと辿り着く。
香草を扱う店ならば、陽の当たらない暗所を倉庫にするのは理想的だが、フェイルの経済力ではどうにもならないだけに、その広大な倉庫に思わず羨望の眼差しを向けた。
「こちらよ」
そんなフェイルの心境など知る由もないマロウは、淡々と歩を進める。
倉庫の更に奥へ行くと、明らかに関係者以外は立ち入り禁止と思しきロープで前方を遮られた重厚な両開き扉が見えてきた。
「……あの、質問しても良いですか?」
「ええ。メトロ・ノームについて聞きたいのでしょう? 構いませんよ」
そのロープを跨りながら、マロウは少し声のトーンを落とし、フェイルにその目を向けた。
絡みつくような視線と声色。
「さ……どうぞ」
そして誑惑的な微笑み。
フェイルはそんな香り立つ女性を眼前に瞼を半分落としながら、ロープを跨ぎ、扉の前に立った。
「場所の名前なのはわかりましたけど、どういう所なんですか?」
鍵穴や錠前はない。
両方の扉には、取っ手もない。
開ける術すらわからずにいる中、マロウは右手の人差し指を唇に寄せ、真っ赤な舌を出し、妖艶に弄る。
「メトロ・ノーム」
その指には、指輪が嵌められている。
瞬間的に、フェイルはそれを魔具と判断した。
「このヴァレロンの地下に存在する、街であって街でない場所。そして同時に――――」
魔術を行使する為の道具が、淡い光を帯びる。
「地上の全ての権力を放棄する、我が物顔の空閑地」
マロウの指が唇を離れ、扉に触れる。
すると、それを合図に指輪の光が扉へと移った。
そして――――扉に光の文字が瞬間的に現れ、そして霧散し、扉が突然力感をなくす。
マロウが他の指も扉に密着させ、前面へ腕を押し出すと、あれほど重厚感を有していた扉はあっさりと開いた。
更に地下へと潜る為の階段が露見し、マロウは無言のままその階段を下る。
人が辛うじてすれ違う事が出来るくらいの幅で、左右の壁には等間隔で灯りが設置されているが、火は点っていない。
その暗がりが支配する階段を、フェイルも続いて下りた。
「魔術士だったんですか。驚きました」
「正確には『元』ですけれど。本来はもう使いたくもないのですが、ここへ来るには封術を解かないといけないので」
淡々と語るマロウの背中に、フェイルも続く。
封術――――それは魔術の一種。
魔術や物理攻撃を防ぐ為の結界とは違い、封術は空間を守る魔術だ。
特定の部屋や箱に封術を施すと、その空間には魔力的な契約が交わされ、いかなる方法をもってしても進入が出来なくなるし、外部からの破壊もほぼ不可能となる。
封術を解くには、その封術に対応した解術と呼ばれる魔術の使用が必須。
つまり、解術を使用出来る人間がいなければ、十割に近い確度で進入を防げる。
今、フェイルが歩いている階段は、そこまでして部外者の立ち入りを拒む必要がある場所という事になる。
「そろそろです」
然程長い時間歩いていた訳ではなかったが、マロウは口頭で目的地が近い事を示唆した。
そして――――階段が途切れる。
石畳がそのまま広がる先には、また扉があった。
今度は大きな錠前が確認出来る。
マロウは腰に下げていた皮袋から鍵を取り出し、錠前を外した。
ゆっくりと扉が開く。
その先の光景に――――フェイルは瞬間的な違和感を覚えた。
この場所が、香水店【パルファン】の地下である事は間違いない。
通常は、地下水路がある筈の空間だ。
ヴァレロンの中心街となる新市街地は、この地域全般の主な水源であるナンナ川の流域とは少し離れており、天然の水掘が存在しない為、市民の生活用水として井戸が多めに掘られている。
ただ、それだけでは心許ない為、スコールズ家、同じ貴族のバラック家、そして教会が共同で出費し、大規模な地下水道を建設した。
尤も、その地下水道は一般市民には使用を許されず、貴族や一部の富豪が使用する『権力者専用の水道』となっている。
その地下水道となる空間は、確かにそこにあった。
扉を開けた目の前には水路がある。
良質の水が上流から忙しなく流れており、どこか川のせせらぎを連想する、耳に優しい音が聞こえて来る。
とはいえ本来その音は、地下ではもっと響くべき。
にも拘らず、自然界に近い音となっているのは――――天井が高いからだ。
アルテタの屋敷の天井も高かったが、ここはその比ではない。
フェイルは思わず、空なき天を仰ぐ。
不思議な事に、そこはフェイルの『梟の目』を使用せずともしっかりと視認出来た。
つまり、この地下水路には光が存在している。
「驚いたでしょう? 灯りもないのに、視界が確保出来るなんて」
「ええ……理屈は解説して貰えるんですか?」
「残念ながら、詳しい事は私にもわからないの。魔術学と生物学、そして薬草学の粋を集めた技術との事だけれど」
「……薬草学?」
薬草士として、その言葉は無視出来ない。
しかし、そんなフェイルの反応をマロウは無視し、歩を進め始めた。
前言の通り、詳細はわからないから説明しようがない、と解釈出来る態度だ。
なら、しつこく聞くのは得策ではない。
フェイルは好奇心を捨て、その背中を追った。
水路の脇の舗装路を暫く進むと、今度は水の流れとは異なる方向へと向かう岐路があり、マロウはそっちの路へと進んだ。
沈黙のまま、フェイルはその後を追う。
音が余り響かない為、足音も殆ど聞こえない。
路も地上の街路以上に整備されており、足への負担は少なかった。
「……この地下水道は、今から300年ほど前に完成したと言われています。そして極一部の人間にのみ使用を許可されました」
「お金持ちの人達専用のライフライン、ですか」
「ええ。最初はそうだったのでしょうね」
最初は――――それは当然、現在は別の目的がある事を意味する言葉。
フェイルがそれを聞くまでもなく、マロウは続けた。
「でも、途中からこの空間は別の用途でも使われ始め、次第にそちらが主流となった。先程言いましたね、地上の全ての権力を放棄する場所……と」
「覚えてます」
「その意味がわかりますか?」
歩きながらの問いに、フェイルは暫し考え、その答えが一つしかないと確信する。
「権力の放棄――――つまり、表と別の顔」
「聡明ですのね」
マロウはその回答に正解を与えた。
「ここは、権力者が人間関係や勢力図を無視し、表の顔に縛られずに自身の目的、欲望、夢、理想を求める為の場所として利用されるようになりましたの。例えば、領主と使用人の逢瀬や敵対する組織同士の会合。そして……分野の垣根を越えた学術の融合、などね」
「……」
その正解に対しフェイルは驚きこそしなかったが、思わず周囲を見渡してしまった。
権力者が表立っては出来ない事を行う為、光の当たらない場所を設け、そこで裏の自分を出すのは珍しくない。
寧ろ、良くある事だ。
ただ、それをこれだけ広大な空間で行うとなると、他の国でも前例はないと自信を持って言える為、フェイルは半ば呆れていた。
そして、同時に先刻の発言を思い返す。
「街……って言いましたよね。さっき」
街であって街でない――――マロウは確かにそう口にした。
それが事実であれば、この地下水路は『隠れ家』の水準を遥かに超える事になる。
「ええ。権力者やその関係者が集うようになり、次第にそれは別の地域、別の国の権力者の耳にも届くようになりました。するとそこには、ある種の治外法権地域が出来上がります」
「そんな人達が集まり、一つの体系が確立して……街になった。でも街らしい施設はないみたいですね」
「ふふ、ところがそうでもないのよ。街と言えるほどの規模ではないけれどね」
だから『街であって街でない場所』。
そして、ヴァレロンのもう一つの顔。
フェイルは今いるその空間に、微かな不気味さを感じていた。
「私達が向かっているのは、その街の管理人がいる場所。このメトロ・ノームに出入りするには、そこで登記して貰う必要があるのよ」
役所のような場所を連想し、フェイルは思わず首を捻った。
そして、そもそも何故ここに来る必要があったのか、という根本的な疑問へと辿り着く。
正式な契約の際は『そこ』を利用する――――
マロウはそう言っていた。
そこ、とは当然このメトロ・ノームだ。
好意的に解釈するならば、人気香水店と貧乏薬草店という不釣合いな表の顔を捨てて、フラットな状態になれるこの場所で契約を結び、対等であると実証する――――そんな推測が可能だ。
けれど、それだけではないだろうとフェイルは半ば確信めいたものを感じていた。
余りにも事態が綺麗に流れすぎている。
勿論、そんな疑念を口には出来ない。
流石にここまで来て、そんな失態は犯せない。生活が掛かっているのだから。
「そろそろ、ですよ」
薄暗い中を歩くマロウがポツリと呟く。
その言葉から約五分程歩いたその先に、フェイルは奇妙なものを視界に納めた。
そこは、まるで遺跡のようだった。
石畳が積み重なり、段々を作って、その中央へ向かう毎に天井へと伸びている。
石畳の山だ。
その山の頂に――――女性が立っていた。
明瞭には見えないが、フェイルはこっそりと右目を塞ぎ、暗闇を見渡す梟の目だけを露見させた。
視界が鮮明になり、女性の姿がはっきりと映る。
髪は驚くほど長く、足元まで伸びている。
そして美しく艶のある栗色をしていた。
当初は魔術士のローブと思われた衣服は、修道服である事が判明。
ただし、頭部には帽子もヴェールも被っていない。
しかもかなり着崩している為、一見すると修道服には見えない。
着崩していると言っても肌は一切露見させていない為、印象としては『横着』。
そんな言葉が似合う格好の女性が、フェイル達の気配を察してか、ゆっくりと振り向く。
「アルマ。暫く振り」
その女性に対し、マロウはそんな名を呼び、小さく手を振った。
アルマ――――そう呼ばれた女性は、フェイルが思わず息を呑むほど美しかった。
絶世の美女。
そう表現して差し支えない。
目は細過ぎず、大き過ぎず。
唇も厚過ぎず、薄過ぎず。
睫毛の長さから顎先に到るまで、全てが計算されつくしたかのような黄金率。
身長も驚くほど高い訳ではなく、やや高めくらい。
体型は修道服の上からは確認し辛いが、崩れている事はないと断言出来る造形は見て取れる。
かといって、芸術品のような美しさとは明らかに違う。
目鼻立ちが不自然なほど整っている訳ではなく、瞬時に目に馴染み、そして惹き付けられる美しさだ。
近寄りがたいようで、親しみも湧く。
それでいて、迂闊に声をかけられるような存在感でもない。
でも、どうしても目を離せない――――そんな全身像だ。
「美人でしょう? ここに来る男性は誰もが、あの子に恋すると言われてるくらいですから」
「……」
フェイルは、マロウのその言葉に答えられなかった。
女性の美しさに圧倒されていた訳ではない。
無論、恋をした訳でもない。
対象は寧ろマロウの方だ。
彼女の言葉から、ある種の確信を得たからだ。
光があるとはいえ、決して視界良好とは言えないこの場所。
加えて、アルマと呼ばれた女性は、かなり上方に位置している。
見える筈がない。
本来ならば。
けれどフェイルには見えている。
梟の目で視たからだ。
でもそれは、マロウが知る筈もない。
『フェイルが見えている』前提で話すのは、明らかに不自然だ。
フェイルが香水店【パルファン】を訪れると決めたのは、つい先日。
過去に接点は一切ない。
何故、そんな店の代表がフェイルの目の事を知っているのか。
それに対して、フェイルは明確な回答を持ち合わせていた。
『お前には監視がつく事になる』
かつてのデュランダルの言葉が、何度も脳裏を過ぎる。
つまりは、そういう事だ。
ただし彼女自身が監視役ではなく、報告を受けているに過ぎない――――そうフェイルは判断した。
「どうされました?」
「あ、いや。確かに極端なくらい美女ですね」
体裁を整えつつ、フェイルは改めて石畳の山の頂に目を向ける。
既に、そこに女性の姿はなかった。
ゆっくりと、階段を下りるように、石畳の段を下がってくる。
そして、石畳の山の麓まで来ていたフェイル達と対峙する場所まで静かに近付いて来た。
「この殿方の登記をお願いしたいと思って」
「……」
アルマはそんなマロウの言葉に対し、何も答える事なく、値踏みするでもなく――――ただじっと、フェイルの顔を眺めていた。




