第3章:メトロ・ノーム(2)
ローズヒップの実を乾燥させ、粗挽きして焙煎すると、上品且つ豊かな香りが口中に広がるローズヒップティーの出来上がり。
その香りは日頃の嫌な事を忘れさせてくれる。
過去の思い出に浸るには丁度良い。
それはつまり、現実逃避と呼ばれる、人間だけに許された高等で陳腐な作業だった。
「薬草……か」
まるで懐かしい物を脳裏に浮かべるような心持ちで、フェイルはそれを思い浮かべる。
実際、少し忘れかけていた単語だった。
ここは【お花の国のアニス】。
色とりどりの花々に囲まれた、壮美な空間が目に優しい、レカルテ商店街の新たな名物店だ。
甘美な匂いに誘われ、朝は蜜蜂や蝶々が舞い込み、昼は近所のマダムが立ち寄り、夜は免罪符を得る為にホロ酔いの労働者が訪れる。
通常、花屋は毎日多くの客を呼び込む店ではない。
商品としての花に、そこまでの需要がないからだ。
日用品でもなければ短期的消費物でもない。
勿論、必需品でもない。
まして、山や森、あるいは野原へ赴く時間があれば、然程大した労力を伴わずに入手出来る。
特別な知識は必要ない。
気に入った花を摘めば良いだけだ。
その為、このレカルテ商店街に花屋は一つしかない。
また、貧民街の名物でもある少女の花売りも、柄の悪い店主の多いものの治安は良いこの商店街には殆ど見受けられない。
そして何より、この近隣には主婦が多い。
花を愛でる感性を持った女性が大勢住んでいる。
これらの要因が上手く噛み合い、【お花の国のアニス】は想像していた以上の繁盛を見せ、順調な売り上げを記録している。
「ありがとうございましたー!」
勇者リオグランテの快活な挨拶が店内に響き渡る中、また一つ花が売れた。
お見舞い用の花束。
それ一つで、焙煎ローズヒップを十人前売るのと同じ利益が得られる。
まとめ買いこそあれ、加工以外は工夫が難しい薬草と違い、花はアレンジメントを施せば単価の高い商品を幾らでも作れる。
そしてこれが最も重要だが、花は安価な物よりそれなりの値段の物がよく売れる。
高い方が見栄えがよく感じられるのか、他人に渡す時の体裁がいいのか――――いずれにせよ、客の数だけでなく客単価まで飛躍を遂げていた。
「これなら、私達の出した損失も十分埋められそうね」
「このペースが続けば、一年三ヶ月程で充填可能です。見通しが立ったと言っても良いんじゃないでしょうか」
客の去った店先を掃除しながら、フランベルジュとファルシオンは【お花の国のアニス】の看板を眺め、そして同時に数度頷いた。
「やっぱり、薬草の専門店なんて流行らないのよね。だって退屈だもの」
「……」
フェイルは小刻みにプルプル震えていた。
あと少し涙目だった。
「泣いても仕方ないじゃない、これが現実なんだから。もう貴方の店は変わってしまったのよ。二度と戻ってこないの、薬草店【ノート】は」
「親戚の別れた嫁さんを遠い目で語るみたいな言い方は止めてよ……」
実際、切実な悩みではあった。
薬草店は絶対に辞められない。
フェイルがこの店を構えた目的は利益を出す為ではなく、妹の治療に必要な薬草を入手する為だ。
この目的は他の店では果たせない。
薬草専門店として、薬草の権威がいるこの街に店を構える。
それによって、薬草の権威に売り込みたい人間、逆に恥をかかせたい人間などの情報や、裏ルートで売買される薬草や毒草の情報などを得る事が出来る。
だからこそ『待つしかない』という消極的な姿勢が、それでも一縷の可能性を有する。
その為、フェイルは薬草士の権威――――ビューグラス=シュロスベリーがいるこの故郷に帰ってきた。
そして彼と懇意になるよう尽力した。
決して社交的ではないその性格を捻じ曲げて、どうにか取り入った。
幾つもの思い出と心を殺して。
とはいえ、現在の客足と経済状況で薬草店を継続するのが厳しいのも事実だった。
店を維持する為の資金を稼がなければ、ただ待つ事さえ出来なくなる。
【お花の国のアニス】は、そんな現状を打破する最善策であり、実際見事にハマった。
けれど、このまま花屋として周囲に認知されてしまえば、薬草に関する情報が入り難くなるのは必定。
そのジレンマの中で、フェイルは弱りきっていた。
「……そんなに花屋は嫌なの?」
先程まで鼻で笑っていたフランベルジュが、瞼を落としながら聞く。
フェイルは言葉では答えず、視線だけで回答した。
「それじゃ仕方ないですよね。お店の方針とか方向性を決めるのは店主さんですから。今あるお花を売り切ったら、また看板を変えましょっか」
「以前の商品や看板を捨てておかなかったのは幸いでした」
本来、一刻も早く借金を返したい筈のリオグランテとファルシオンが、難色を示さずフェイルの意向を酌む。
明らかに不可解な反応だった。
「良いの? 僕が花屋を続ければ、もうここから旅立てるのに」
完全返済にはファルシオンの概算で一年三ヶ月かかるし、その立案を彼等がした訳でもないが、目処が立てば国王の勅命を優先するのは国民として当然。
勇者候補一行が同じ場所に長々と居座るのも、決して本来の主旨に沿っているとは言えない。
だが、ファルシオンは静かに首を横に振った。
それは――――
「路銀がありません」
「……あっそ」
極めて利己的な理由に他ならなかった。
「でも、借金ある人達に纏まったお金は出せないよ? 生活費くらいは仕方ないけど」
「それはわかってる。だから、私がコレに出るのよ」
エル・バタラ――――国内最大の武闘大会。
その宣伝広告を記した紙を手に、フランベルジュが不敵に微笑む。
「よくよく考えたら、どうせ隣の国に行くには結構なお金が掛かるのよね。それを稼ぎながらチマチマ進んで行ったら嫌でも時間かかるでしょ? だったら、ここで多少の長期滞在になってとしても、一気に路銀を稼いでおいた方が今後の為にもなるって高度な判断よ。フフン、腕がなるったら」
そこにあるのは、金欲ではなく自己顕示欲と自己探求。
自分が今、どの程度やれるのか。
自分にはどの程度の才能があるのか。
自分の力はどれ程の歓声を受けられるのか。
フランベルジュの顔は、それを知りたい欲求だけが溢れている。
フェイルには、その感覚は全く理解出来なかった。
しかし、彼女が表面に出していない、でも確実にあると思われる別の理由に関しては共感が可能だった。
そしてこっそり、そっちの方が最大の理由だろうと推察していた。
――――畏れを抱いた自分への失望を打ち消したい
フェイルが見張り塔で見た、あの畏怖の表情。
高い矜持を有するフランベルジュが忘れられる訳がない。
バルムンクに対しての怨恨ではなく、弱味を見せた自分自身への苛立ちと失望。
それを消すには確固たる自信が必要であり、出来れば記録として残したい。
フェイルにも似た経験がある。
そして、大会という大舞台はそれを満たす格好の機会と言える。
「なら止めはしないけど」
「止められる謂れもないけどね」
全てを理解したフェイルの忠告にも似た言葉は、あっさりと流された。
「ま、そんな訳で暫くこの街に滞在する事になったから。あと、大会に向けて修練が必要だから働くのは今日までにさせてね。その代わり、賞金の一部はくれてあげる」
不遜な言葉にぶら下がっているのは、自信ではなく責任。
自分を追い詰めている。
フェイルは、そう受け取った。
「了解。そもそも大して役にも立ってなかったし……っと!」
突然の、でも加減された拳を躱し、フェイルは思わず苦笑する。
決して長い付き合いではないが、フェイルは徐々にこの女性剣士の性質を理解しつつあった。
からかった時の反応が面白い。
これは集団で行動する場合、とても重宝される性質だ。
リオグランテではなく彼女がその立ち位置なのは意外でもあり、納得も出来た。
「フランの分は私が働きます。それなりの事は出来ると思いますので」
一方、仲間の尻拭いをすると断言したファルシオンの言葉に、フェイルは思わず瞼を落とした。
先日――――流通の皇女が放った一言が脳裏を掠める。
『勇者一行には、あまり気を許さない方が良いわよン♪』
気を許すべきでない人物。
該当者が実在するとすれば――――この女性だと、そう感じていた。
というか、他の二人が余りにもわかりやすい性格の為、消去法でそうならざるを得ない。
「この好調な花屋を畳む以上、周囲の失望や経営状況の悪化は免れません。となれば、新たな試みが必要となる筈です。薬草店としてこの水準の売り上げを確保する方法を模索しましょう」
「それなんですけどっ。花屋さんと薬草屋さんって一緒に出来ないものなんですか? 花と草って結構似てますよね?」
リオグランテが首を傾げながら問うその内容は、至極尤もなものだった。
花と薬草。
決して相容れない訳ではない。
実際、薬草として使用する植物の多くは花を付ける。
既に花を扱っているようなものだ。
「ダメ」
にも拘らず、フェイルはそう断言した。
「言いたくないけど、この状況で花と薬草を同時に扱えば、客の殆どは花を売ってる店に薬草をついでに置いてると見なすよね絶対。だったら薬草店に戻す意味がない」
店の種類は店主が決める――――なんて事はなく、実際には客こそがその店を決める唯一の存在だ。
もし花と薬草を同時に売れば、より売れて、より存在感のある花がメインの店と見なされるだろう。
「そうですか……それじゃ仕方ないですね。お花の方が良い香りだから居心地良かったんですけど」
勇者の何気ない素直な一言に、フェイルは微妙に傷付いた。
「という訳なので、私なりに考えてみました」
そんなフェイルの隣にいつの間にか移動したファルシオンが、安物の羊皮紙を木板の上に乗せ、カウンターの上に立てる。
「……予め用意してたの?」
「こうなる予感はしていたので」
やはり気を許せない人物――――
フェイルはそう改めて認識しつつも、同時に頼もしさも抱きつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。
「薬草店が成功するビジネスモデルとしては、やはり稀有な薬草を置くのが一番です。先日苦労の末に手に入れたマンドレイクが市場価値を暴落させた以上、別のレアな薬草を入手するのが最も好ましいのですが……流石に二度目の僥倖に期待するのは楽観的過ぎます。そこで、別の手段を講じる事が好ましいと判断しました」
そこまで発言した後、ファルシオンは羊皮紙を裏返す。
そこには――――絵が描いてあった。
「わっ、紙芝居ですね! 久々に見ます、ファルさんの紙芝居」
「……そんなスキルを隠し持ってたんだ」
割とどうでも良い情報だったが、内容は気になる為、フェイルは視線を紙に写す。
そこには、四つの工程に分かれた絵が描いてあった。
一つ目は、髪を結った気弱そうな男が、物乞いのような出で立ちで誰かに助けを請う場面。
二つ目は、髪を結んだ細身の男が、浮浪者のような格好で何者かに助力を願う場面。
三つ目は、髪の後ろで尻尾を作った貧弱な男が、貧民のような姿でとある人物に介助を訴える場面。
四つ目は、髪を縛った脆弱そうな男が、路上生活者のような装いで不特定人物に扶助を祈る場面。
それぞれに構図は大胆に異なっているが――――要は全部同じ場面だった。
「……何これイジメ? 執拗に繰り返される辛辣なイジメ?」
「そのつもりではなかったのですが……わかり易くと心がけたら自然に筆が進んでしまって」
「また上達しましたねー!」
リオグランテが感心するのも無理はない程に、絵は上手かった。
ただ、それだけに現実感も一入。
自分がモデルである事は明らかな上、連続で四度も弄られ、フェイルの精神は崩壊寸前に追い込まれていた。
「お伝えしたいのは、この商店街をもっと利用すべきであると。沢山の人達と協力する事で、もっとお客さんは増えると思います」
「だったら最初からそう説明してよ! 何この惨状の四乗!」
「これくらい、いろんな所にお願いすべきという主張です」
「主張してるのは僕のボロボロの姿ばっかりじゃないか……」
項垂れる。
ただ、協力を仰ぐという方法については、少なからず興味を抱いてはいた。
同意見なのか、フランベルジュも身を乗り出してくる。
「協力……ねー。この貧相な薬草店を助けてくれる物好きなんているの?」
「最初の一つを探すのは難しいかもしれませんが、そこで一定の成果を収めれば、手を組む価値ありと思わせる事が出来ます。まずは有力な協力相手を一つ探す事に注力しましょう」
「いやこれ結局、提携先を探すって意味だよね? 前の案の使い回しじゃないの?」
「勝算は十分あると思います」
フェイルの無粋な指摘は露骨に放置され、ファルシオンは自身の策の説明に専念した。
「協力といっても、出資などのような直接的なものではありません。互いの店の要素を加えた新商品を共同開発するイメージです」
「それってつまり、何処かの飲食店と共同でハーブティーを開発する、みたいな感じ?」
「はい。それによってノートの名前は飲食店のお客さんにも知れ渡ります。今日はまず、どの店と協力し合うかを検討しましょう」
こうして――――【お花の国のアニス】は新たな試みに挑戦する事となった。
「……取り敢えず看板だけは外しておこう」
薬草店【ノート】は新たな試みに挑戦する事となった。




