第3章:メトロ・ノーム(1)
それは大き過ぎず小さ過ぎず、何処にでもあるごく普通の弓。
帝国ヴィエルコウッドや要塞国家ロクヴェンツで開発が進められているという、非力な者でも一定の威力で矢を放てるクロスボウでもない。
そんな、武器屋に行けば誰でも買える弓を引き、フェイル=ノートは眼前の標的を狙った。
眼前――――その表現を戦闘中の弓使いが用いる事は滅多にない。
弓使いは敵と対峙しない事を前提とした戦い方を常に心がけているからだ。
遥か後方、高所、或いは馬上など、一方的に攻撃出来る場所で敵を射抜くのが仕事なのだから。
しかしフェイルは、標的から自身の肩幅の五倍ほどしか離れていない場所で弓を引いた。
番えた矢が放たれるとほぼ同時に、その矢は――――
標的の持つ剣の柄頭に当たり、弾けた。
決してそこを狙った訳ではない。
それは超高等技術による防御。
至近距離で放たれた矢を、その軌道を先読みし、柄頭で叩き落したのだ。
このような芸当が出来る人間が、果たして世界に何人いるというのか。
戦慄と同時に高揚を覚えながら、フェイルは即座に弓を掴む左手の手首を捻り、弓の末弭で矢羽を引っ掛けるようにして、背の矢筒から一本だけを抜き出す。
宙を回転しながら舞う矢がフェイルの頭上へ舞い、最短経路で正確に右手へ届き、それを掴もうとしたその時――――フェイルの頭は大きく沈んだ。
外的な力によるものではない。
それは回避行動だった。
沈んだフェイルの頭部に強烈な痛みが走る。
ただし直撃ではなく掠めた程度。
標的の繰り出す打突は、力感のない、適度に加減された速度でフェイルを襲撃して来た。
尤も、それは一流剣士の全力の突きに相当するスピード。
軌道と狙いが予想出来ていても、直撃を避ける事が精一杯だった。
フェイルの身体は、無理やり沈ませた事で大きくバランスを崩している。
ただし軸は乱れていない。
次の行動の為に必要な体重移動を行う為には、軸の安定は絶対に必要。
近距離戦をこなす為の最低条件だ。
フェイルの次の行動は――――大腿筋と下腿筋の稼動だった。
身体を左に傾けたまま、右足を小さく上げ、着地寸前の矢を蹴る。
その矢は回転しながら、標的の顔面を大雑把に襲った。
人間は、眼に接近してくる物を反射的に除去しようとする。
それは本能であり、どれほどの手錬であっても抑えるには一定の時間を要する。
フェイルはその一瞬を利用し、後方に飛びながら三本目の矢を二本目と同じ方法で抜いた。
二本目の矢が真っ二つに折れ、左右へと流れていく。
その中央から――――フェイルの射た三つ目の矢が風を巻いて走る。
矢を筒から抜き、番い、弦を引き、矢を射るまでの所要時間は、標的が眼前の矢を払うように切断するより――――僅かに速かった。
それでも、矢が標的を射抜くには及ばず、掠める事すら叶わなかった。
常軌を逸した反応速度。
標的は、目の前まで迫っていた矢を細い鍔を使って弾いた。
そして、その構えを利用し次の攻撃へと移る。
この切迫した中で、まるで彫刻師が迷いなく彫り続ける所作の様に、冷静に、合理的に。
フェイルはその瞬間、終焉を覚悟した。
そう。
訓練の終焉。
そして――――自身の弓術の果て。
「ここまで」
標的――――エチェベリア王宮騎士団【銀朱】副師団長デュランダル=カレイラは、普段となんら変わらない様子で、抑揚も付けずそう告げた。
手にするその剣は愛用のオプスキュリテではなく、鋭利さを排除した両峰の剣。
当然、抵抗力は膨大に上昇し、鋭い斬撃や打突など望むべくもない。
それでも尚、そしてそこに手加減を加えても尚――――その剣の放つ煌きは、栄えある王宮騎士団でも有数のレベルにあった。
「上出来だ。ここまでやれるのなら、近距離戦をこなすと胸を張っても良い」
表情は変わらない。
【鉄仮面】と呼ばれる所以。
ただ、その声にはいつもと異なる響きが含まれている。
フェイルには、それがもう判別付くようになっていた。
「……本当に出て行くのか?」
そして次の言葉を聞いた時、フェイルは率直に、そして予想以上に自分が安堵している事を感じた。
デュランダルがそのような発言をする人間ではないと、身を持って知っていたから。
この訓練は――――弓術士フェイルにとって最後となる訓練だった。
それを惜しんでいるとは限らないし、寧ろ違う可能性の方が高い。
ただ単に、確認をするだけの言葉だったのかもしれない。
或いは――――その意図すらなく、無心の中で投げかけた雑談の一つなのかもしれない。
それでもフェイルは、素直に自分の感情を受け入れた。
自分には、それだけの価値があった――――と、そう思う事にした。
エチェベリアの未来を担うとされる天才剣士に惜しまれているのだと、そう認識しようと思えた。
「ええ、出て行きます」
だから、淀みなく答える。
「夢の時間はもう終わりましたから」
フェイルのその言葉は、まるで陽炎のように、輪郭がぼやけていた。
「理由は……以前話していた妹の治療、でいいんだな?」
「ええ。妹といっても、向こうは僕が兄だとは知らないんですけどね。それでも妹は妹。大切さになんら変わりはありません」
振り向き、視線を合わせる。
そのフェイルの目に逡巡や葛藤は欠片もない。
栄誉あるエチェベリア宮廷弓兵団から抜ける事も。
デュランダルの元を離れる事も。
一切の躊躇なく、自分の未来を見据えている――――そんな目だった。
「お前に治療が出来るのか? 医者でもなければその知り合いもいない。お前に出来る事があるのか?」
デュランダルの指摘を、フェイルは何処か涼しい顔で聞いていた。
真実を知った。
この王宮にて、フェイルは自分の夢を失い、そして新たな目標を得た。
既に幾度となく自問自答を繰り返し、その結論を出した。
故に――――
「薬草士になります」
確証などなかった。
何一つとして。
「故郷……とは違うんですけど、以前住んでいた街に薬草の権威がいるんです。その人の近くにいれば、もしかしたら治療可能な薬草や薬が入手出来るかもしれない。店を構えていれば、何処からか流れてくるかもしれない。新しく生えてこなくても、市場の何処かに残っていれば、いつか好機が得られるかもしれない」
全ては願望でしかない。
妹を確実に治せる方法を、フェイルは持ち合わせていない。
しかしそれは、フェイルが医療に明るくないからではなく、単純に――――妹を蝕む"それ"が誰であろうと摘出も除去も不可能というだけだ。
「その可能性に賭けます」
薬草の権威がいても尚、可能性は限りなく無に近い。
実際にはないのかもしれない。
それでも、フェイルは決断を下した。
「……お前はそんな生き方をすべき人間ではない筈だ」
フェイルの目を、デュランダルは自身の目を細めて眺める。
初めての事だった。
少なくとも、フェイルにとっては。
「父代わりの男は、腕の良い弓造りの職人。しかし魔術士の台頭もあり、弓の需要が極端に減少。結果――――廃業。地に伏した弓の価値を復興させると誓い、遠距離戦でも接近戦でも使える万能な武器という新たな価値を見出す為、その技術を磨いている……お前は俺にそう言ったな」
「はい。その為には、小回りの利く小型の弓でも他国で開発中のクロスボウでもなく誰でも使える、誰もが手にする弓でなくてはならない。だから、凡庸な弓で近距離戦をこなせる技術を身に付けました」
「過去形、なのだな」
諦観。
デュランダルは細めた目を閉じた。
「ここから去れば、お前には監視がつく事になる」
そして、代わりに口を開く。
何処か重々しい言葉は、彼の持つ独特の重厚的な雰囲気の所為だけではない。
「気配消失の専門家が見張る事はない。お前の気配察知能力は十分に鍛えたつもりだ。そのお前に悟られない程の使い手を回すほど、人材に余裕がある訳ではない」
「はい」
「日常生活の中で、お前と接する人間こそが監視役だ。恐らく一人ではない。特別に監視だけをする訳ではなく、その者自身の生活の中にお前の行動、活動に対しての観測を行う日課が加わる、そんな形になるだろう。その意味はわかるな?」
「はい」
二度、同じ返事をする。
自身が言葉を連ねる意味と、その無意味さをフェイルはもう知っていた。
「お前は今後、ただ一人の友人を作る事も出来まい。少なくとも、他人を心から信用するのは難しいだろう。それでも尚、優先するのか? 妹の治療を」
「はい」
そして、礼。
万感の思いを込めて。
自分を育ててくれた弓職人に対しての思いと同じくらいの。
「……お前はいつか、その目に潰されると思っていた」
デュランダルは目を開き、空を仰ぐ。
それは決して何処までも続いている訳ではない、有限の空。
終わりはやって来る。
何に対しても。
贈り物に対しても。
「お前の弓の腕は確かに優れている。しかし特別ではない。このエチェベリア宮廷弓兵団においても飛び抜けているとまでは言い難い。一流ではあるが、その先ではない。それは、今後腕を磨いても恐らく変わりはしなかっただろう」
その指摘は、フェイル自身と全く相違ない意見だった。
弓兵として、弓使いとして、優秀という評価は得ている。
だが、誰もが戦慄を覚え、誰もが目を疑うような、そんな技術は有していない。
技術も精度も、常識の範囲内においての優秀さだった。
それでも良かった。
その技術をもって近距離戦を覚え、新たな価値を弓にもたらす。
覚悟は出来ていたし、望むべく未来だった。
けれど、それが果たされる事は――――なかった。
「だがお前には、幸か不幸かその目がある。遠距離まで見渡せる目と、暗闇を苦にしない目。弓を操る者にとっては何よりも欲すべき才能だ。しかし、お前の目指す近距離戦にとっては全く意味のないものだった」
そして、それ故に潰される。
仮に、どれだけ弓の技術を磨き、実績を上げ、達人と呼ばれる腕を身に付けても、結局はその二つの特異な目があるからだ、と評価される。
特別な技能を持たない以上、余計に目立ってしまう。
例え近距離戦と目の特異性に接点がなくても『どうせあの目があるからだろ』と軽く扱われてしまう。
その評は『近距離戦にも使える弓矢という武器』という触れ込みも、フェイル自身の努力をも否定する。
デュランダルは、それを危惧していた。
「お前に暗殺技能を教えたのは……俺の為だ。俺がいずれ持つ筈の、少数精鋭の暗殺部隊の代表をお前に任せる為だった。そこでなら、お前は……」
そこまで言葉を編み、デュランダルは口を噤んだ。
それは、フェイルにとっても初めて耳にする青写真。
全てが語られてた訳ではなかったが、理解は出来た。
利用されるだけ――――そう解釈するのは難しくない。
暗殺者にするつもりだったと言っているのだから、寧ろそれ以外にはない。
寡黙な師の、いつもより遥かに多い口数がその証でもある。
それなら、この場で敢えて言及する必要もない。
王宮を去る今、最早次の接点はないのだから。
「お世話になりました。ここでの生活、貴方に教えて貰った事、全て忘れません」
込み上げてくるものがある。
フェイルはそれを抑える術を、自然と身に付けていた。
悲しい性。
でも、必要な事だった。
「ひっそりと生きる努力を推奨する。日の当たらない場所で、静かに」
「そのつもりです」
ただ待つのみ――――それしか出来ない。
その事に対する歯痒さはある。
夢が断たれ、二人目の恩人とまたも離別を経験する未練も、ない訳ではない。
それでも、すべき事がある以上、心は据えていた。
前を見る。
輝かしさとは無縁の、くすんだ未来。
生きている実感を得られるかどうか、不安で仕方ない。
フェイルは、笑った。
自嘲気味に、しかし希望も添えて。
微かに唇を噛み、踵を返す。
「なら、俺は待つとしよう」
その声に、耳だけを向けた。
「妹と二人で朗報を伝えに来る、お前を」
そして、振り返る事なく歩を進めた――――




